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冬のレモン、キャメルの背中 ~満員電車で私を守ってくれた十九歳上の彼に、ゆっくり恋をしました~  作者: ちょこまろ


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第33章:初詣の日

一月四日。


何度も丸を重ねた約束の日に、優菜と拓也は三日ぶりの再会を果たします。


文字ではなく声を聞き、画面ではなく手に触れる。


たった三日離れただけで、自分たちの日常に相手がどれほど深く入り込んでいたのかを、二人は改めて知ることになります。

 一月四日、午前十時。

 弘明寺駅の近くで、私は自分の吐く息が白く濁るのを見ていた。


 三日間。

 たった三日なのに、親戚の言葉と実家の空気に揉まれ続けた体は、もうすっかり年始仕様の疲労でできあがっている。

 それでも、スマホに「あと五分で着きます」と届いた瞬間、心だけが先に起きた。


(……来る)


 角を曲がってきたのは、見慣れた銀色のボルボだった。

 無骨で、四角くて、冬の空気の中だと余計に頑丈そうに見える。

 窓が下がって、拓也さんが少しだけ緊張した顔を覗かせた。


「……おはようございます、優菜さん」

「あけましておめでとう、拓也さん」


 声を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

 文字じゃない。

 画面越しでもない。

 ちゃんと空気を震わせて届く声に、三日間かけて溜まった乾きが、一気に水を吸っていくみたいだった。


「本当に迎えに来てくれたんだ」

「約束しましたから」


 その一言だけで、十分だった。


 重たいドアを開けて助手席に滑り込む。

 ガチャン、と閉まる音。

 外の冷たさと人の気配が遠くなって、古いレザーの匂いと、三日ぶりの彼の気配に包まれる。


(……ああ、帰ってきた)


 どこから、とは言えない。

 でも、この車の中に入った瞬間、私はちゃんと“戻った”気がした。


 拓也さんは発車してすぐ、信号待ちで一度だけ私を見た。

 何か言いたそうで、でも言葉を選びきれない顔だった。


「……あまりに久しぶりで、少し変な感じがします」

「久しぶりって、三日だよ?」

「三日です」

「うん」

「……手を、繋いでもいいですか」


 私は笑った。

 笑ったのに、なぜか少し泣きそうだった。


「はい」


 シフトレバーの脇から伸びてきた大きな手が、私の指先を包む。

 少しだけ震えていて、でも驚くほど熱い。


「……長かったです」

「うん」

「優菜さんがいない実家は、ただ静かなだけでした」


 たったそれだけの言葉が、三日分の寂しさを全部持っていった。


     *


 車は国道を抜けて、寒川神社へ向かった。

 一月四日とはいえ、境内はまだ正月の名残を濃く残していて、思った以上の人出だった。


「うわ……すごい人」

「ええ」

「拓也さん、こういう時、導線を考えたくなるでしょ」

「今日は考えません」

「珍しい」

「考えなくても、僕がいれば大丈夫ですから」


 そう言って、彼は私の半歩前に出た。

 肩で人の流れを少しだけ受けて、私が歩く幅を静かに作る。

 振り向きもしないのに、ちゃんと守られているとわかる背中だった。


(……こういうとこなんだよな)


 抱きしめられるより前に、道を作ってくれる。

 甘い言葉より先に、寒い風や人の流れから私を遠ざけてくれる。

 今はそれが、どうしようもなく好きだった。


 手水舎で手を清めて、拝殿へ向かう列に並ぶ。

 白い息が重なる。


「八方除、だっけ」

「はい」

「全方位の災いを避けるんだよね」

「ええ」


 拓也さんは前を向いたまま、静かに言った。


「三月からは、守るべきものが増えるので」


 私はその横顔を見た。

 相変わらず大げさなことは言わない。

 でも今の一言で十分だった。


 拝殿の前。

 鈴の音。柏手。低く流れる祈りの気配。

 私は目を閉じて、成功じゃなくて無事を願った。


(三月、ちゃんと行けますように。向こうでちゃんと立っていられますように。拓也さんが、日本でちゃんと眠れて、ちゃんと食べて、ちゃんと笑えますように。……そして、また二人でここに来られますように)


 隣で祈る拓也さんは、微動だにしなかった。

 横顔だけ見ても、どれだけ真剣に祈っているかわかる。


     *


 参拝のあと、お守りを見に行く。

 私は紫、拓也さんは白を選んだ。


「お揃いじゃないんだ」

「交換するものではないですから」

「規律に厳しい」

「守るものなので」

「……うん」


 拓也さんは白いお守りを手のひらに載せたまま、少しだけ目を伏せた。


「本当は、今すぐ君の分も預かりたいくらいです」

「え」

「でも、自分で持っていないと意味がないでしょう」

「……」

「五千キロ離れても、ちゃんとまた会うためのものですから」


 その言い方が、あまりにも彼らしくて、私は小さく笑った。


「じゃあ、ちゃんと持っていく」

「お願いします」

「落としたら?」

「……その時は探しに行きます」

「そこまで?」

「そこまでです」


 真面目な顔のままだった。

 でも、その真面目さの奥で必死なのが、今の私にはちゃんと見えた。


     *


 帰り道は渋滞していた。

 夕方の光がフロントガラス越しにまっすぐ差し込んで、ダッシュボードをやわらかいオレンジ色に染めていく。


 私は助手席でシートベルトの上からコートを少し引き寄せながら、ふと思ったことを口にした。


「ねえ、拓也さん」

「はい」

「この三日間、ほんとは何してたの?」


 少しだけ間があった。

 聞いてはいけないことではない。けれど、聞いた瞬間に、何か柔らかい場所へ触れた感じがした。


「……掃除をしていました」

「うん」

「本を読んだり」

「うん」

「スマホを見たり」

「それ、かなり見てたでしょ」

「……はい」


 私は笑った。

 でも、拓也さんは笑わなかった。


「送らなかった下書きが、五十件くらいあります」

「五十件!?」


 今度は本当に声が裏返った。

 拓也さんはハンドルを握ったまま、少しだけ耳を赤くした。


「送ると重い気がして」

「何書いてたの」

「……過剰な注意事項と」

「うん」

「見苦しい未練です」

「見たかったかも」

「却下します」


 即答だった。

 でも、その即答の裏にあるものが、今日は痛いほどわかる。


「私は、思っていた以上に……」

 拓也さんはそこで一度、言葉を切った。

「君を前提に動いていたようです」

「……」

「三日間、それが欠けただけで、思ったよりきつかった」


 車内が静かになった。

 エンジン音と、外の車の流れる気配だけが遠くで鳴っている。


 たった三日。

 それでも、もう前みたいには戻れない。

 いないことが、ちゃんと欠落として分かってしまうところまで来ている。


(……ああ、もうだめだ)


 再会できて、手も繋いで、声も聞けて。

 こんなに満たされているのに、その底に鉛みたいな切なさが沈んでいる。


 次に会う理由が、もう少しずつ「出発準備」になっていく。

 会えば会うほど、別れの現実も濃くなる。


「一月四日」

 私が小さく言う。

「はい」

「これで、お正月期間は終わりだね」

「そうですね」

「次は……二月の買い出しか」

「はい。最終フェーズです」


 最終。

 その言葉だけで、胸が少し詰まった。


 私は、助手席からそっと左手を伸ばした。

 拓也さんは一瞬だけ指先を震わせて、それから私の手を握る。

 壊れ物みたいにやさしいのに、離したくない力がちゃんとある。


 古いボルボの振動。

 冬の夕方の光。

 繋いだ手の熱。


「……予定通り、二月もよろしくお願いします。拓也さん」

「……了解しました」

 そこで少しだけ、声がやわらかくなる。

「全力で準備します」


 何を、とは言わない。

 でもきっと、荷物のことだけじゃない。


 カレンダーの丸印は、少しずつ「出発」という現実に近づいていく。

 それでも今はまだ、繋いだ手だけは離さないまま、私たちはその影の方へ進んでいた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


寒川神社で二人が願ったのは、華やかな成功ではなく、離れていても互いが無事でいられることでした。


優菜が選んだ紫のお守りと、拓也が選んだ白のお守り。


同じものではなくても、それぞれが自分で持ち、五千キロ離れた先から再び会うための約束になっています。


そして拓也が明かした、送れなかった五十件もの下書き。


「君を前提に動いていた」

「三日間、それが欠けただけで、思ったよりきつかった」


優菜の存在は、すでに拓也の日常の一部になっていました。


再会できた喜びの底には、三月から始まる長い別離への切なさも沈んでいます。


それでも二人は手を離さず、残された時間を共に進むことを選びました。


次話「出発前の部屋」では、二月を迎え、優菜の部屋に荷物と書類が積み上がります。迫る出発に心が追いつかない優菜を、拓也は言葉ではなく、一つずつ混乱を片づけることで支えます。

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