第34章:出発前の部屋
二月。
優菜の部屋には、シンガポールへ持っていく荷物と書類が積み上がり、出発が現実の形を持ち始めます。
心が追いつかず、立ち止まってしまった優菜のもとへ、拓也がやって来ます。
不安を消すのではなく、そのまま隣で一緒に準備する二人のお話です。
二月。
カレンダーをめくる音が、前よりずっと薄くて鋭く聞こえた。
部屋の隅には、シンガポールへ送るための段ボールが三箱、口を開けたまま置いてある。
冬物のコート、仕事の資料、薬、変換プラグ、まだ迷っている私物。
一つずつ詰めていくたびに、三月がただの予定じゃなくなっていく。
デスクの上には書類の山。
ビザのコピー、保険の控え、予防接種の記録、住居関係のメールを印刷した紙。
やることは見えているのに、手だけが止まる。
「……ビザ、よし。保険も、たぶんよし。えっと、次は……」
声に出したところで、頭の中には何も入ってこなかった。
目の前の文字が、急に意味を持たない黒い線の集まりみたいに見える。
喉が乾いている。
なのに、水を取りに立つ気力もない。
肩だけが上がって、呼吸が浅い。
視界が少し揺れた、その時だった。
インターホンが鳴る。
規則正しい、少しだけ急いだみたいな二回。
聞き慣れた押し方だった。
「……優菜さん。来ました」
ドアを開けると、拓也さんが立っていた。
分厚いファイルと、コンビニの紙袋。いつもの真面目な顔。
でも、私を見るなり、ほんの少しだけ眉が寄る。
「顔色が悪い」
「……いきなりそこ」
「悪いです」
「うん、まあ……ちょっとだけ」
「ちょっとではないですね」
そう言って、拓也さんは迷いなく部屋に入ってきた。
コートを脱ぐより先に、デスクの上の書類へ視線を走らせる。
「パスポート、控え、契約書……」
「待って。今ほんと、部屋ひどいから」
「見ればわかります」
「優しくない」
「優しく言う余裕がないだけです」
その言い方が少しだけ早くて、逆にほっとした。
ああ、この人も平然とはしていないんだ、とわかったから。
拓也さんはファイルを机に置き、散らばった紙を静かに寄せ始めた。
早い。けれど雑じゃない。
私が「あとで見る」つもりで積んだ山を、いるものといらないものに迷いなく分けていく。
「あ、ちょっと待って。そこ触らないで」
「なぜですか」
「そこ、“とりあえず”の山だから」
「……山の名前として最悪ですね」
「否定しないで」
「否定ではありません。危険認識です」
真顔だった。
でも、その真顔に少し救われる。
私が曖昧にしたものを、この人はちゃんと形にしてくれる。
「これ、いる。これはコピーを取る。これは破棄でいいですね」
「そんな速く決めないで、心が追いつかない」
「追いつかなくていいので、座っていてください」
「命令?」
「お願いです」
私は小さく息を吐いて、ベッドの端に腰を下ろした。
足先だけが妙に冷たい。
拓也さんは書類を整えながら、一度も「大丈夫」とは言わなかった。
その代わり、散らかったものを一つずつ片づけていく。
慰めの言葉じゃなく、目の前の混乱を減らしてくれる。
そのやり方が、いかにも彼らしかった。
「……拓也さん」
「はい」
「そんなにきっちりやらなくてもいいよ」
「よくありません」
「でも」
「君が向こうで困る可能性があるものを、今見過ごす方が嫌です」
そこで初めて、彼は手を止めて私を見た。
真っ直ぐだった。
あまりに真っ直ぐで、私は少しだけ視線を逸らしたくなる。
「備えられるものは、備えておきたいんです」
「……」
「僕がそばにいられない時間が増えるなら、なおさら」
鼻の奥がつんとした。
涙が出るほどじゃない。
でも、喉のあたりが熱くなる。
「……そういう顔で言わないで」
「どういう顔ですか」
「真剣すぎる顔。こっちが先に崩れる」
拓也さんは少しだけ黙った。
それから、書類の束を揃えて机の端へ置き、私の隣に座った。
何も言わずに、背中に手が触れる。
ぽん、と一度。
それから、ゆっくり同じリズムでもう一度。
子ども扱いみたいで、本当なら少しむっとしてもよさそうなのに、今日はそれがひどくありがたかった。
「……しんどいですか」
「うん」
「そうですよね」
「……うん」
少しだけ間が空く。
彼の手は背中から離れない。
「無理に元気な顔をしなくていいです」
「……」
「今日なくならなくてもいいです」
「何が?」
「しんどさが」
「……うん」
「なくならなくても、準備は一緒にできます」
私は俯いたまま、こくりと頷いた。
呼吸が、少しだけ深くなる。
「ありがとう」
「はい」
「……ちょっとだけ、生き返った」
「ちょっとですか」
「かなり」
「ならよかった」
ようやく、彼が少しだけ笑った。
*
「コーヒー、淹れます」
「私がやるよ」
「いいえ。座っていてください」
キッチンに立った拓也さんは、コンビニのカフェラテを電子レンジの前に置いて、やたら真剣な顔で秒数を見ていた。
表示パネルと腕時計を交互に見る横顔が、意味もなくきりっとしている。
(……何その顔。カフェラテ温める人の顔じゃないんだけど)
「七秒長いと熱すぎます」
「誰もそこまで求めてないよ」
「君が火傷するので」
「しないってば」
「する可能性があります」
「可能性で生きてるな、この人」
でも、渡されたカップは悔しいくらいちょうどよかった。
熱すぎず、ぬるすぎず、冷えていた指の先までじわっと戻ってくる温度。
「……おいしい」
「それはよかった」
拓也さんは安心したみたいに、少し肩の力を抜いた。
*
午後からは、最後の大物を買いに近くのショッピングモールへ出た。
ボルボの助手席から見る冬の景色が、今日は少し違って見える。
いつもの道なのに、どれも「出発前の景色」に見えてしまう。
「シンガポールの冷房、そんなに強いの?」
「場所によりますが、油断は危険です」
「危険」
「外は暑くても、室内は冷える可能性があります」
「じゃあストールね」
「はい。厚すぎず、持ち運びやすくて、仕事でも浮かないものがいいです」
結局、一時間以上かけて選んだのは深いネイビーのカシミヤストールだった。
指で触れると、驚くほど柔らかい。
「これなら長く使えます」
「うん」
「色もいい」
「……そうだね」
本当は、その色が拓也さんのコートの色に少し似ているから選んだ。
でもそれは言わないでおいた。
文具売り場では、小さなノートを二冊買った。
お揃い、というほどあからさまじゃない、同じ紙質のシンプルなもの。
「これ、何に使うの?」
「向こうへ行ってからのためです」
「手帳とは別?」
「はい。毎日じゃなくていいので、その日にあった“どうでもいいこと”を一つだけ書いて送る用です」
私は吹き出した。
「なにそれ、恋文じゃなくて日報じゃん」
「大事なのは、どうでもいいことの方です」
「そう?」
「今日あった一番どうでもいいことを共有できる相手の方が、長く残ると思うので」
私は少しだけ黙って、それから一冊を開いた。
一ページ目に、適当に書く。
『今日は書類の山で死にかけた。でも、拓也さんがカフェラテを温める顔が無駄に真剣で、ちょっと生き返った』
「はい、どうぞ」
「見せるんですか」
「こういう感じっていうサンプル」
「……」
拓也さんはそれを読んで、一瞬だけ視線を落とした。
耳が少し赤くなる。
「それは、どうでもいいことではありません」
「え?」
「僕にとっては、優先度が高いです」
そう言って、自分のノートにも何かを書き始める。
少し迷って、消して、また書く。
「何書いたの?」
「見せません」
「ずるい」
「君も、いつも全部は見せないでしょう」
「……まあ」
「なので公平です」
でも、閉じる前にほんの少しだけ見えた。
『ストールの青が、よく似合っていた』
その一行だけで、胸がまた忙しくなる。
*
レジ袋を提げて駐車場へ向かう途中、拓也さんがふと立ち止まった。
夕方の風が、買ったばかりのストールの袋をかすかに鳴らす。
「……次で、最後ですね」
「え?」
「出発前、最後の週末です」
私は足を止めた。
最後。
その言葉だけで、あたりの空気が少し変わる。
「鎌倉へ行きましょう」
「……鎌倉」
「はい」
拓也さんはまっすぐ私を見た。
「君に貸していた時間を、全部回収したいです」
「貸してたつもりないけど」
「僕がそう思っているだけです」
「……」
「最後の週末は、準備だけで終わらせたくない」
私はすぐに返事ができなかった。
うれしい。
でも、その“最後”という響きが、同時に胸を刺す。
「……うん」
やっとそれだけ言う。
「行きたい」
「よかった」
短いやり取りなのに、なぜか泣きそうになる。
二月の風は冷たいのに、繋いだ手だけがひどく熱い。
カレンダーの丸印は、もうすぐ「出発」という現実に変わる。
それでも今はまだ、その前にもう一度、ちゃんと会いに行ける。
ボルボの重いドアが閉まる。
夜へ向かう街の中で、私は膝の上のストールの袋をそっと撫でた。
不安は、消えない。
荷物も、書類も、やることも、減らない。
それでも、今日みたいに隣にいてくれるだけで、少しだけ戦える気がした。
最後の週末まで、あと少し。
私は窓に映る自分の顔を見ないように、そっと彼の手を握り直した。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
出発に必要な荷物や手続きが増えるほど、優菜の心は追いつかなくなっていきました。
そんな彼女に、拓也は簡単に「大丈夫」とは言いません。
散らかった書類を一つずつ整理し、冷えた手にちょうどよい温度のカフェラテを渡し、しんどさが消えなくても一緒に準備できると伝えます。
不安をなくすことではなく、不安を抱えたままでも隣にいること。
それが、今の拓也にできる支え方でした。
そして二人が用意した、どうでもいい出来事を書き残すための小さなノート。
離れたあとも日常を共有するための、二人らしい新しい約束です。
次話「また、定位置で」では、出発前最後の週末を迎えます。鎌倉を歩き、海を眺めながら、二人は離れる前にもう一度、帰ってくる場所を確かめます。




