第35章:また、定位置で
三月上旬。
出発前、最後の週末に、優菜と拓也はもう一度鎌倉を歩きます。
以前と同じカフェ、同じ海、同じ助手席。
けれど、二人の間に流れる時間は、もうあの頃とは違います。
離れる前に、帰ってくる場所を確かめるための一日です。
三月上旬。出発前、最後の週末だった。
こんな日に限って、空は嫌になるくらい晴れていた。
もっと曇っていてくれたらよかったのに、と思う。
世界まで「大丈夫です」と言っているみたいで、少し腹が立つ。
数分後、見慣れた銀色のボルボが角を曲がってきた。
助手席の窓が下がり、拓也さんが少しだけ緊張した顔でこちらを見る。
「……おはようございます、優菜さん」
その声を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
私は助手席に乗り込む。重いドアが閉まる音がして、その瞬間、外の世界とここが切り離された。古いレザーの匂い、控えめな暖房、隣にいる人の気配。もうすっかり、この席は私の知っている場所だった。
「寒くないですか」
「ちょっとだけ。でも、たぶんそれだけじゃない」
「……同感です」
それ以上、何も言わなかった。
言わなくても、たぶん同じことを考えているのがわかった。
*
鎌倉に着くと、街は土曜日らしい人の多さでにぎわっていた。
以前ここを二人で歩いた時よりも、今日はずっと自然に歩幅が重なる。
最初に入ったのは、あの日と同じカフェだった。
席に着いて、メニューを開いて、何となく顔を見合わせる。
「前はここで、けっこう悩んでたよね」
「ええ」
「私、何選んでたっけ」
「塩気のあるものです」
「即答」
「覚えていますから」
「……地味に観察されてる」
「地味ではありません」
拓也さんはメニューから目を上げて言った。
「……真剣に、見ていました」
何でもないことみたいに言うから困る。
ちゃんと見られていたことが、嬉しいより先に胸に刺さる。
注文したものが届いて、少し食べて、また他愛のない話をする。
それだけなのに、どの瞬間にも「最後の週末」という言葉が薄く貼りついていた。
店を出ると、海の方からの風が強くなっていた。
髪が何度も顔にかかる。前が見えにくくて目を細めていると、拓也さんが立ち止まった。
そして、ごく自然な動作で指先を伸ばし、私の前髪をそっと耳にかける。
「……こういうの」
「はい?」
「向こうへ行ったら、足りなくなると思う」
「髪ですか」
「違うよ」
笑ってから、息の残りみたいに本音がこぼれた。
「……触れられるの、だよ」
拓也さんは少しだけ目を伏せた。
冗談にして返すこともできたはずなのに、そうしなかった。
「僕もです」
「……」
「想像より、堪えるでしょうね」
短い言葉だった。
でも、それで十分だった。
誤魔化さないでくれることが、今は何よりありがたかった。
*
海沿いのベンチに少しだけ座る。
空は高くて、遠くの波は白い。
あの日と同じ景色のはずなのに、今日はどこも少しずつ輪郭が違って見えた。
私は海を見たまま、ぽつりと言った。
「私、向こうへ行っても、ちゃんとやれるかな」
「……」
「生活が始まったあと、ここがちゃんと“ここ”のままでいてくれるのかっていうのが、怖い」
言ってしまってから、少し後悔した。
こんな日に言うつもりじゃなかったのに、海を見ていたら口から落ちた。
拓也さんは、すぐには答えなかった。
その沈黙が逃げじゃないことを、もう私は知っている。
この人は、軽く慰める代わりに、ちゃんと考える。
「……優菜さん」
「うん」
「ここは、ここです」
「え?」
「君がどこにいても、僕が君を思う場所は変わりません」
一拍置いて、続けた。
「変えません」
私は息を止めた。
波の音だけが、少し遠くなる。
拓也さんは海ではなく、まっすぐ前を見たまま言った。
「だから、行ってください」
その声は静かだった。
静かなのに、胸の奥のいちばん深いところまで届く。
「行って」
もう一度、今度は少しだけやわらかく。
「帰ってきてください」
その短い言葉の中に、この人が飲み込んできた全部がある気がした。
行かないで、と言わないこと。
でも帰ってきて、はちゃんと言うこと。
その両方が、この人の精一杯なんだとわかった。
私は唇を噛んで、それから頷いた。
「……うん」
「……」
「行く。ちゃんと行って、帰ってくる」
その約束だけで、少しだけ泣きそうになる。
未来はまだ怖いままだった。
でも、帰る場所まで失ったわけじゃないと思えた。
*
帰りのボルボは、行きよりずっと静かだった。
楽しくなかったわけじゃない。
むしろ逆だ。楽しすぎて、もう簡単な言葉で処理できなくなっているだけだった。
信号待ちで赤く止まるたび、車内に柔らかい沈黙が落ちる。
私は窓の外を見て、拓也さんは前を見る。
それでも、離れている感じはしなかった。
「今日、楽しかった」
私が言う。
「はい」
「ちゃんと回収できた気がする」
「僕もです」
「何を?」
「未回収だった時間と」
そこで少しだけ間を置く。
「君と並んで歩く僕自身の感覚を」
その言い方が、あまりにも拓也さんらしくて、私は笑った。
笑って、それから、そのまま少し泣いた。
「……優菜さん」
「ごめん。笑ってるのに泣いてる」
「確認しました」
「確認しないで」
「泣いても大丈夫です」
拓也さんは前を向いたまま言う。
「笑っていても、大丈夫です。どちらでも、僕は覚えておきますから」
その一言が、また胸に刺さる。
忘れないと言われることが、こんなに切ないなんて知らなかった。
夜の街灯が、規則正しく車内を横切っていく。
私は小さく息を吸って、彼の横顔を見つめた。
「……拓也さん」
「はい」
「また」
一回、声が詰まる。
でも、その先をちゃんと言いたかった。
「また、定位置で」
拓也さんはゆっくりこちらを見た。
驚いて、それからやわらいで、最後にはちゃんと受け止める目になる。
「ええ」
短く、静かに。
「必ず」
その一言で十分だった。
私は泣きそうなまま笑って、助手席の定位置に深く体を預けた。
窓の外、流れていく夜の街。
手のひらに残る、彼の指先の温度。
明日からしばらく、この席は私の不在を乗せて走ることになる。
けれど、今はまだ。
私の定位置は、ここにあった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
出発前最後の週末。
優菜と拓也は、特別な場所ではなく、二人がこれまで歩いてきた鎌倉をもう一度訪れました。
同じ景色を見ても、そこには「最後」という言葉が重なります。
触れられること。
隣を歩けること。
助手席に座れること。
これまで当たり前になりつつあったすべてが、離れる直前だからこそ、かけがえのないものとして胸に迫りました。
「行って、帰ってきてください」
拓也は優菜の未来を止めず、それでも帰ってくることだけは、はっきりと願います。
そして優菜が伝えた、
「また、定位置で」
という言葉。
ボルボの助手席は、ただの座席ではありません。
優菜が帰ってくる場所であり、拓也の隣にある、二人だけの定位置です。
次はいよいよ最終話「帰る場所は、ここにあります」。
成田空港で迎える旅立ちの日、二人は離れるためではなく、必ず帰ってくるための言葉を交わします。




