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冬のレモン、キャメルの背中 ~満員電車で私を守ってくれた十九歳上の彼に、ゆっくり恋をしました~  作者: ちょこまろ


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最終話:帰る場所は、ここにあります

三月下旬。


ついに、優菜がシンガポールへ旅立つ朝が訪れます。


空港まで送る拓也と、助手席から見慣れた横浜を見つめる優菜。


引き留めるのではなく、行くことを応援する。


終わりではなく、帰ってくるために交わす、二人の約束です。

 三月下旬の朝、弘明寺の空は妙に静かだった。


 春が近いはずなのに、空気にはまだ冬の名残が薄く漂っている。木造アパートの窓を開けると、湿った土と、遠くの線路の匂いがした。見慣れた狭い部屋。仕事に追われて、恋なんて後回しにして、それでも結局、この部屋で恋に救われた。


 床には、昨夜のうちに閉じたスーツケースが二つ。

 持っていくもの、置いていくもの、捨てるもの。その選別はとっくに終わったはずなのに、部屋を見回すたびに、まだ何かを忘れている気がした。


 忘れ物なんて、たぶんない。

 あるとしたら、それは物じゃない。


 枕元のスマホが、小さく震えた。


『到着しました。慌てなくて大丈夫です。ゆっくり降りてきてください』


 短い文面。句読点の位置まで拓也さんらしい。

 それなのに、たったそれだけで、胸の奥に張っていた透明な膜がぴんと震えた。


(……来た)


 私は一度だけ目を閉じた。

 今日が来ることは、ずっと前から分かっていた。ビザの期限も、赴任日も、航空券の時刻も、全部決まっていた。数字にすればとっくに確定していたはずなのに、現実になるのはいつだって、玄関のドアノブに手をかけた瞬間だ。


 鏡の前に立つ。

 ネイビーのニット、ライトグレーのコート。髪は丁寧に整えたつもりなのに、今日は少しだけ言うことをきかない。口紅を引く手が、わずかに震える。

 深呼吸をひとつ。


「……大丈夫」


 誰に向けた言葉でもなく、そう言ってみる。

 でも声にすると、余計に泣きそうになるから困る。


 スーツケースの取っ手を引き、玄関を開ける。

 階段を下りる途中で、いつもなら気にも留めない古い木の軋みや、隣室の生活音までがやけに鮮明に聞こえた。ここで過ごした三年が、今日だけ少しだけ近い。


 アパートの前に、銀色のボルボが止まっていた。

 古くて、四角くて、頑丈で、少し不器用な車。見慣れたはずのその姿が、今日は「迎え」にも見えるし、人生の一場面を丸ごと積んでいく箱にも見えた。


 運転席から降りた拓也さんは、私の姿を見ると、ほんの一瞬だけ息を止めたようだった。


「……おはようございます、優菜さん」

「おはようございます」

「……よく、お似合いです」

「いきなり?」

「事実確認です」


 いつもの調子。そのくせ、耳が少しだけ赤い。


 私は笑ってしまった。

 こんな朝に、ちゃんと笑わせてくれるのがこの人はずるい。


「拓也さんも、ちゃんと寝た?」

「寝ました」

「嘘っぽい」

「二時間ほど浅く」

「ほら」


 拓也さんはスーツケースを持ち上げながら、少しだけ困ったように眉を下げた。


「……君を空港まで送り届けたあとに、平常運転に戻れる自信がない、という意味では、寝不足です」


 そんなふうに言われたら、もう何も言えない。

 私は誤魔化すみたいに視線を逸らして、助手席に乗り込んだ。


 重いドアが閉まる。その音で、弘明寺の朝が少しだけ遠くなる。


     *


 ボルボは、横浜の街を抜けていく。

 見慣れた道。何度も一緒に走った道。でも今日は、どこもかしこも最後の輪郭を持ってこちらに迫ってくる。


 車内には、控えめな暖房のぬくもりと、古いレザーの匂いと、拓也さんの静かな気配が満ちていた。

 私はシートベルトの上から、そっと自分の胸元を押さえる。息はできている。ちゃんとできている。けれど、胸の真ん中だけが、行き場をなくしているみたいに熱かった。


「……優菜さん」

「ん?」

「忘れ物はありませんか」

「たぶん」

「“たぶん”は不安です」

「大丈夫。パスポートも財布もスマホもある」

「お守りは」

「あるよ」


 私はバッグの外ポケットを軽く叩いた。


「ちゃんと、ここ」

「……よかった」


 寒川神社で選んだ、あのお守り。

 持っていく人の手の温度に少しずつ馴染んでいく、小さな約束の塊。


「それと」

「まだあるの?」

「あります」

「なに」

「現地到着後は、まず水分補給を」

「出た」

「その後、通信環境の確認。夜は冷房で体温を奪われやすいので」

「ふふ」

「笑いましたね」

「うん。なんか安心した」

「何がですか」

「いつもの拓也さんで」


 信号待ちで、拓也さんがこちらを見た。

 眼鏡の奥の目が、いつになく正面から私をとらえる。


「……いつも通りでいないと、たぶん持ちません」

「え?」

「僕が」


 その一言の方が、どんな恋の言葉より深く刺さった。

 私は返事の代わりに小さく笑って、それから窓の外を見た。今日の横浜は、泣き出しそうな私に無頓着なくらい普通だった。


 首都高に入るころには、会話は少なくなっていた。

 話したいことは山ほどある。言わなきゃいけないことも、たぶんたくさんある。困ったことに、いざその瞬間が近づくほど、言葉は簡単には出てこない。何を言っても、もっと言いたいことの代わりにしかならない気がしてしまう。


 だから私は、手元のバッグを抱えたまま、ただ時々、彼の横顔を見た。

 ハンドルを握る長い指。少しだけ固い顎の線。前方を見つめる真剣な目。もう何度も見てきたのに、今日はその全部を覚えておかなきゃいけない気がした。


「……そんなに見られると、緊張します」

 前を向いたまま、拓也さんが言った。

「気づいてたの?」

「かなり」

「そっか」

「はい」

「じゃあ、見ない方がいい?」

「それは困ります」

「どっち」

「……見ていてください」


 私は、声を出さずに笑った。

 やっぱりこの人は、最後までずるい。


     *


 成田空港は、思っていたよりずっと明るかった。


 出発ロビーには、春休みらしい賑やかさと、見送りのざわめきと、旅立ちの緊張が全部一緒に渦巻いている。スーツケースの車輪の音、アナウンス、子どもの声、誰かの笑い声。人生の「行く」と「残る」が一斉に混ざる場所。


 その喧騒の中に立った瞬間、現実が急に鮮明な形を取った。

 ここから先は、本当に飛行機で海を越えるのだ。

 何度も「行く」と言ったのに、その実感は空港の天井の高さの下で、はじめて骨のあるものになった。


 チェックインカウンターへ向かう途中、拓也さんは当然みたいに私のスーツケースを引いていた。

 私はその半歩後ろを歩く。人混みの中、彼の背中がほんの少しだけ広く見えた。


「重くない?」

「問題ありません」

「最後までそれ言うんだ」

「最後だからです」

「最後って言わないで」

「……すみません」


 謝られて、余計に泣きそうになる。

 私は自分でも面倒くさいと思いながら、でも今日だけは仕方ないと開き直ることにした。


 チェックインは驚くほどあっけなく終わった。

 荷物を預ける。半券を受け取る。その一つ一つが、「戻れない」を少しずつ増やしていく。


「……終わっちゃった」

「はい」

「びっくりするくらい事務的」

「空港は、そういう場所ですから」

「今日はちょっと、違ってほしかった」

「……努力します」


 それで私は、また少し笑ってしまう。

 泣いたり笑ったり、今日は本当に忙しい。


 保安検査場の手前には、見送りの人間が立ち止まるための、目に見えない境界線がある。

 あそこから先は、旅立つ人だけの場所。

 床に線が描かれているわけでもないのに、そこへ近づくにつれて空気が少しずつ変わっていくのが分かる。


 私たちは、その少し手前で立ち止まった。


 時間は止まらない。

 アナウンスは流れ続けるし、人もどんどん通り過ぎていく。なのに、私たちの周りだけ静かだった。


「……優菜さん」

「うん」

「現地に着いたら、連絡を」

「する」

「無理はしないでください」

「うん」

「疲れている日は、短文でも」

「うん」

「……すみません。最後に確認したいことが多すぎました」

「ふふ」

「笑いましたね」

「だって」

 私はとうとう笑いながら、少しだけ泣いた。

「最後の最後まで、拓也さんだなって思って」


 拓也さんは一度だけ目を閉じた。

 普段ならそこで「事実です」とでも返しそうなのに、今日は違った。


「……今の僕は、少し余裕がありません」

「うん」

「たぶん、君が思っているより」

「うん」

「だから、なるべく理性的に言います」


 拓也さんは、まっすぐ私を見た。

 空港の明るい照明の下で、その視線だけが妙に静かだった。


「行ってください」

 鎌倉で聞いた言葉の続きみたいに、彼は言う。

「行って、そこでちゃんと生きて、ちゃんと笑ってください」

 そこで、ほんの少しだけ声が低くなる。

「……そして、帰ってきてください」


 胸の奥が、ぐしゃりと音を立てた気がした。

 私は笑おうとした。でもだめだった。笑顔の形を作る前に、目が熱くなる。


「……うん」

「はい」

「帰ってくる」

「ええ」

「ちゃんと帰ってくるから」

「待っています」


 その「待っています」は、静かだった。

 低くて、でも、今日のどの言葉よりも、強かった。


 私は一歩、近づいた。

 拓也さんのコートの襟元に、うっすら春の冷たい空気の匂いが残っている。


「……拓也さん」

「はい」

「今日、思いっきり抱きしめてもいい?」


 彼は、一瞬だけ目を見開いた。

 それから、今まで見たことのないくらい、やわらかく眉を下げた。


「それは」

 いつもの慎重な間のあとで、

「……僕からお願いしたいくらいです」


 次の瞬間、私は彼の胸に飛び込んでいた。


 コート越しなのに、体温が分かる。

 硬い肩。背中に回された大きな手。抱きしめ返される力が、想像していたよりずっと強い。

 ああ、と思う。

 この人もずっと我慢していたのだと、腕の強さだけで分かってしまう。


「……優菜さん」

「うん」

「痛くないですか」

「そこ確認するの今?」

「重要です」

「大丈夫」

「……よかった」


 声が近すぎて、耳が熱くなる。

 私は顔を上げた。拓也さんも、少しだけ息を乱していた。眼鏡の奥の目が、いつもよりずっと近い。


「……行ってきます」

「はい」

「帰ってくる」

「はい」


 そのあと、ほんの一瞬だけ、どちらからともなく動けなくなった。

 空港の喧騒は続いているのに、二人の間だけ時間が薄く伸びる。

 もう十分抱きしめたはずなのに、まだ足りない。

 言葉も、体温も、全部足りない。


 拓也さんが、私の頬に触れた。

 確認するみたいに、壊れものを扱うみたいに、親指が一度だけ震える。


「……これは、困りますね」

「何が?」

「この距離だと」

 彼は、自分でも少し呆れたみたいに笑った。

「理性の維持が、難しいです」


 私は泣きながら、少し笑った。

「じゃあ、今日は少しだけ壊れて」

「……許可をいただけるなら」


 返事の代わりに、私は目を閉じた。


 唇に触れたのは、短くて、驚くほど静かなキスだった。

 見せつけるためのものでも、劇的なものでもない。ただ、この人が私をどれだけ大切にしているか、その一点だけを伝えるみたいなキス。

 触れて、離れて、それでも温度だけが遅れて残る。


 目を開けると、拓也さんの耳が真っ赤だった。

 私だけじゃなく、この人だって限界なのだと、その顔だけで分かってしまう。


「……すみません」

「なんで謝るの」

「順序として適切だったか、自信が」

「適切でした」

「本当ですか」

「うん」

 私は泣き笑いのまま言った。

「完璧。たぶん今までで一番」


 拓也さんは、そこで初めて、どうしようもなく困ったように笑った。

 その顔を見た瞬間、また泣きたくなる。


 アナウンスが、搭乗時刻の近さを告げる。

 もう本当に行かないといけない。


 私はバッグのストラップを持ち直した。

 一歩、後ろへ下がる。さっきまで腕の中にいたのに、その一歩だけで距離が現実になる。


「……じゃあ、本当に行くね」

「はい」

「連絡する」

「待っています」

「ちゃんと寝て」

「努力します」

「ごはんも」

「確約します」


 最後まで、少し笑える。

 それが救いなのか、余計につらいのか、もう分からない。


 私は保安検査場の方へ向きを変えた。

 でも三歩進んだところで、どうしても耐えきれずに振り返る。


 拓也さんは、その場所に立ったままだった。

 追いかけてこない。引き留めもしない。ただ、まっすぐに私を見ている。

 だから余計に、帰る場所の輪郭がはっきりする。


「……拓也さん!」


 少しだけ大きな声で呼ぶ。

 彼が顔を上げる。


「また!」


 一瞬、喉が詰まる。

 でも、これは最後にちゃんと言いたかった。


「また、定位置で!」


 空港のざわめきの中でも、その言葉だけはちゃんと届いたみたいだった。

 拓也さんは、驚いたあと、静かにうなずく。


「ええ!」


 その声は、少しだけ大きかった。いつもよりずっと。


「必ず!」


 私は笑った。

 泣きながら、それでもちゃんと笑って、今度こそ前を向く。


 保安検査場を抜ける直前、もう一度だけ振り返る。

 ガラスの向こうの彼は、もう小さく見える。それでも分かる。あの人はまだそこにいて、私が見えなくなるまで、たぶんずっと立っている。


 搭乗口までの通路は、どこまでも明るかった。

 スーツケースのない肩が、少し軽い。その代わり、胸の中には一つだけ、確かなものが入っていた。


 飛行機に乗り込み、窓側の席に座る。

 シートベルトの金具が触れ合う乾いた音。小さな窓の外には、夜へ傾きはじめた空港の景色。


 スマホの画面には、最後に届いたメッセージが残っていた。


『行ってらっしゃい。帰る場所は、ここにあります』


 その一文を見た瞬間、私はとうとう深く息を吐いた。

 泣くのを我慢するみたいな息じゃない。何か大きなものを、ようやく胸の中に収めるための息だった。


 窓の外の誘導灯が流れていく。

 機体が動き出す。弘明寺も、鎌倉も、ボルボの助手席も、いったんは地上の景色になる。


 けれど、なくなるわけじゃない。


 重いドアの閉まる音。古いレザーの匂い。信号待ちのたびに、少しだけ近くなる沈黙。

 耳元で響いた、あの切実な「帰ってきてください」という声。

 そして、どこへ行っても戻ってこられる、あの助手席の輪郭。


 飛行機が滑走路へ向かって速度を上げる。

 私の身体は前へ運ばれるのに、心のどこかはちゃんと帰り道を知っている。


 私は窓の外を見たまま、小さく呟いた。


「……行ってきます」


 その声に重なるみたいに、胸の奥でもう一つの返事がした。


 行って。

 帰ってきて。


 だから私は、涙の乾ききらない頬のまま、少しだけ笑った。

 この恋は、ここで終わらない。


 離陸の衝撃が、身体をシートに押しつける。

 地上の灯りが小さくなる。海も街も、やがて夜の光の粒に変わっていく。


 それでも一つだけ、消えない場所がある。


 私の定位置は、もう助手席だけじゃない。

 行って、帰ってくる、その約束ごと抱きしめてくれる人のいる場所だ。


 私はシートの肘掛けをそっと握って、胸の奥に残るぬくもりを確かめた。

 あの人の指先の温度は、まだちゃんとここにある。


 見えなくなっても、離れても、なくならない。

 そう信じられる恋を知ったことが、今日の私の、いちばん強い荷物だった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


保安検査場の前で、拓也が優菜へ伝えたのは、


「行って、そこでちゃんと生きて、ちゃんと笑ってください」

「そして、帰ってきてください」


という言葉でした。


愛しているから引き留めるのではなく、優菜の未来を信じて送り出すこと。


そのうえで、帰ってきてほしいという願いだけは、決して曖昧にしないこと。


それが、拓也の選んだ愛し方でした。


そして優菜も、


「また、定位置で」


と約束し、彼のもとを離れます。


ボルボの助手席、東京駅のベンチ、隣を歩く場所。


優菜にとっての定位置は、ただの座席ではありません。


どれほど遠くへ行っても、帰ってくる自分を待っていてくれる人のいる場所です。


『行ってらっしゃい。帰る場所は、ここにあります』


この物語は、旅立ちで終わるのではありません。


帰る場所を知った優菜が、自分の人生へ進んでいくところで、ひとまずの区切りを迎えます。


ここまで優菜と拓也の歩みを見守ってくださり、本当にありがとうございました。


次のエピローグ「並ぶ人生」では、三年の遠距離を越えた二人が、約束した定位置で再会します。

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