第8章:左手の輪
拓也を親しげに名前で呼ぶ、美しい女性。
自分には何の権利もないと分かっていながら、優菜はその光景を忘れられず、いつもの場所から逃げるようになっていました。
けれど、拓也はそんな優菜の変化を見過ごしてはいませんでした。
今回は、優菜を苦しめていた誤解と、二人の距離を少しだけ変える言葉のお話です。
あの日、丸の内の街角で彼が誰かと歩いているのを見てから、優菜の心はどうにも落ち着かなかった。
東海道線のいつもの車両、いつものドア横。拓也が空けてくれる「箱」は、今や入るだけで胸が苦しくなる場所に変わっていた。
けれど、避け続けるには毎日の通勤はあまりにも容赦がない。
残業続きでへとへとの木曜日。少し遅い時間の東京駅ホームで、優菜はタブレットを抱えたまま、電車を待っていた。
人の流れも、朝ほどは鋭くない。なのに、妙に落ち着かなかった。
「お疲れさまです」
声が、すぐ後ろから降ってきた。
心臓が一瞬止まり、それから一気に早鐘を打ち始める。
聞き間違いであってほしいと願ったのに、振り向いた先には、紺色のコートを着た彼――拓也が立っていた。いつも通り静かな顔で、けれどほんの少しだけ目尻をやわらげている。
「……お疲れさまです」
返した声が、自分でもわかるくらい不安定だった。
拓也はそれを指摘することもなく、ただ穏やかに優菜を見ている。
「今日は、遅いんですね」
「……はい。クライアント先に寄っていて」
「そうですか」
短い会話。
それなのに、胸の奥が妙に忙しい。
ただの通勤客ではなく、彼がちゃんと自分を「朝比奈さん」として認識していたのだと、たったそれだけのことが今さらみたいに響いた。
小さな沈黙が落ちる。
ホームのアナウンスが遠くで流れ、人の足音がすぐ横を通り過ぎていく。
その静けさの中で、拓也が少しだけ声を落とした。
「あの、朝比奈さん」
「は、はい」
優菜の背筋がこわばる。
ここ数日の自分の態度が一気に脳裏によみがえる。あからさまに避けた朝、助けられそうになって逃げた朝、感じの悪さのフルコースみたいな自分。
拓也は優菜の顔をまっすぐ見たまま言った。
「最近、いつもの場所に立っていなかったので」
「……」
「体調でも悪いのかと。無理してませんか」
優菜は一瞬、言葉の意味を飲み込めなかった。
(……そこ?)
怒られるとか、距離を置かれるとか、せめて少し困られるとか。そういう方向ばかり覚悟していたのに、出てきたのは心配の言葉だった。
胸の奥が、不意にやわらかく崩れる。
その時だった。
「拓也ー!」
芯の通った明るい声が、彼の背後から飛んできた。
優菜が丸の内で見た、あの女性だった。すらりとしたシルエットのままホームへ近づいてきて、優菜を見るなりぱっと表情を明るくした。
「え、もしかして噂の、めがねちゃん?」
「……紗希」
「なにその顔。いいじゃない、本当のことなんだから。その眼鏡、すごく似合ってる」
軽やかに笑った彼女の左手が、ふと視界に入る。
薬指。
細い輪。
水銀灯を受けて、プラチナの指輪が静かに光った。
優菜の喉が小さく鳴る。
(……指輪)
それだけで、さっきまで持ち直しかけていた呼吸がまた乱れた。
けれど、そのざわつきが意味を持つより先に、紗希が拓也の肩を軽く叩いた。
「ねえ、拓也。昨日のアレ、弟のお嫁さんにちゃんと伝えた?」
「後で連絡する」
「絶対忘れると思った。だから朝から捕まえに来たのよ。ほんと、そういうとこ昔から変わんない」
弟のお嫁さん。
その言葉が、優菜の頭の中で一拍遅れて意味を結ぶ。
「それと、来月のうちの弟の結婚式。スピーチ頼んだの、忘れないでよ」
「忘れてない」
「怪しい」
紗希は呆れたように笑って、それから優菜に向き直った。
「ごめんね、びっくりしたでしょ。私、紗希。拓也とは昔からの腐れ縁」
「……あ、朝比奈です」
「うん、知ってる。朝比奈さん。拓也が珍しく気にしてるから」
その一言に、優菜の心臓がまた跳ねた。
拓也は明らかに困ったような顔をして、小さく紗希の名を呼ぶ。
「紗希」
「はいはい、言いすぎました。でもほんとなんだから仕方ないでしょ」
紗希は悪びれもせず肩をすくめた。
「この人、昔から変に面倒見いいのよ。特に、自分が気になった相手には」
「……お前、もう帰れ」
「帰るわよ。旦那と子どもたち待たせてるし」
そう言って、紗希はひらりと手を振る。
「じゃあね、朝比奈さん。またどこかで」
「は、はい」
「拓也も、ほどほどにしなさいよ」
嵐みたいに言いたいことだけ言って、紗希は去っていった。
残されたホームの空気が、さっきまでとはまるで違って感じられる。
優菜はようやく小さく息を吐いた。
丸の内で見た光景。指輪。呼び捨て。全部が勝手につながって、勝手に自分を傷つけていたのだと、今になって思い知る。
(……何やってたんだろ、私)
恥ずかしさと安堵がいっぺんに押し寄せて、顔が熱い。
眼鏡のつるに触れた指先が、少し震えた。
「朝比奈さん」
拓也の声が、今度はずいぶん近くで聞こえた。
「……はい」
「体調、大丈夫そうですね」
「え」
「さっきより、顔色がいい」
優菜は思わず笑いそうになる。
そんな確認を、こんなタイミングでするのか。この人は。
「……たぶん、大丈夫です」
「そうですか」
拓也はほんの少しだけ視線を落とした。
コートの袖口を指先でつまむみたいな、小さな仕草。
それから、声を少しだけ低くした。
「……また」
「……?」
「明日も、あそこに来てくれると、助かります」
優菜は息を止めた。
“助かります” なのに、胸の奥にはそれ以上の言葉として届いてしまう。
喉が先にきゅっと鳴って、返事がうまく出てこない。
「――っ、は、はい」
情けないくらい慌てた声になった。
それでも拓也は笑わなかった。ただ、小さく頷いた。
入線のアナウンスが流れ、ホームに風が巻き起こる。
優菜は隣に立つ彼の横顔を、今度こそ曇りのないレンズ越しにそっと見上げた。
名前も、立場も、昨日までより少しだけ輪郭を持った。
それでもまだ、何も始まっていない。
始まっていないはずなのに、胸の内側だけが忙しく、静かに騒いでいる。
*
翌朝。
優菜は少しだけ早い時間の電車に乗り込んだ。
拓也は、昨日と同じ場所に、いつもの「壁」として立っていた。
優菜の姿を認めると、彼はいつものように、でも昨日までよりほんの少しだけやわらかく、仕切り板の前の空間を空ける。
「……おはようございます、拓也さん」
「おはようございます。……朝比奈さん」
お互いの名前を、はじめてちゃんと口にした朝だった。
その響きだけで、昨日までの数日間が少しずつほどけていく気がする。
優菜は静かに、あの場所へ戻った。
板と、彼の背中に守られた、いつもの小さな箱。
そこに立った瞬間、ようやく自分の呼吸が元の速さに戻るのを感じた。
(……ただいま、って言いたいくらいだわ)
電車が走り出す。
ガタン、と揺れた拍子に、一瞬だけ肩が触れる。
離れたのに、熱だけが残った。
開いたドアから流れ込んだ風が、雨の手前の、少しだけ甘い紫陽花の匂いを運んでくる。
(……だめだ。今日は、全然落ち着かない)
でも、その落ち着かなさが、昨日までの苦しさとは少し違っていた。
濁った水がゆっくり澄んでいくみたいに、胸の奥で何かが静かに形を取り直している。
優菜は眼鏡のブリッジをそっと押し上げて、誰にも見えない角度で小さく笑った。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
拓也と歩いていた紗希は、妻でも恋人でもなく、昔からの友人でした。
勝手に誤解し、勝手に傷ついていたことを恥ずかしく思う優菜。
けれど、その嫉妬は、拓也がもう「ただの通勤客」ではないことを教えてくれました。
そして拓也から告げられた、
「明日も、あそこに来てくれると、助かります」
という言葉。
恋の告白ではありません。
それでも、優菜がそばにいないことを寂しく感じていた拓也の気持ちは、確かにそこに滲んでいました。
初めて互いの名前を呼び、いつもの場所へ戻った二人。
次話「低気圧の髪」では、完璧な姿を見せたい優菜にとって、どうしても隠したい弱点を拓也に見られてしまいます。




