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冬のレモン、キャメルの背中 ~満員電車で私を守ってくれた十九歳上の彼に、ゆっくり恋をしました~  作者: ちょこまろ


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第8章:左手の輪

拓也を親しげに名前で呼ぶ、美しい女性。


自分には何の権利もないと分かっていながら、優菜はその光景を忘れられず、いつもの場所から逃げるようになっていました。


けれど、拓也はそんな優菜の変化を見過ごしてはいませんでした。


今回は、優菜を苦しめていた誤解と、二人の距離を少しだけ変える言葉のお話です。

 あの日、丸の内の街角で彼が誰かと歩いているのを見てから、優菜の心はどうにも落ち着かなかった。

 東海道線のいつもの車両、いつものドア横。拓也が空けてくれる「箱」は、今や入るだけで胸が苦しくなる場所に変わっていた。


 けれど、避け続けるには毎日の通勤はあまりにも容赦がない。


 残業続きでへとへとの木曜日。少し遅い時間の東京駅ホームで、優菜はタブレットを抱えたまま、電車を待っていた。

 人の流れも、朝ほどは鋭くない。なのに、妙に落ち着かなかった。


「お疲れさまです」


 声が、すぐ後ろから降ってきた。


 心臓が一瞬止まり、それから一気に早鐘を打ち始める。

 聞き間違いであってほしいと願ったのに、振り向いた先には、紺色のコートを着た彼――拓也が立っていた。いつも通り静かな顔で、けれどほんの少しだけ目尻をやわらげている。


「……お疲れさまです」


 返した声が、自分でもわかるくらい不安定だった。

 拓也はそれを指摘することもなく、ただ穏やかに優菜を見ている。


「今日は、遅いんですね」

「……はい。クライアント先に寄っていて」

「そうですか」


 短い会話。

 それなのに、胸の奥が妙に忙しい。

 ただの通勤客ではなく、彼がちゃんと自分を「朝比奈さん」として認識していたのだと、たったそれだけのことが今さらみたいに響いた。


 小さな沈黙が落ちる。

 ホームのアナウンスが遠くで流れ、人の足音がすぐ横を通り過ぎていく。


 その静けさの中で、拓也が少しだけ声を落とした。


「あの、朝比奈さん」

「は、はい」


 優菜の背筋がこわばる。

 ここ数日の自分の態度が一気に脳裏によみがえる。あからさまに避けた朝、助けられそうになって逃げた朝、感じの悪さのフルコースみたいな自分。


 拓也は優菜の顔をまっすぐ見たまま言った。


「最近、いつもの場所に立っていなかったので」

「……」

「体調でも悪いのかと。無理してませんか」


 優菜は一瞬、言葉の意味を飲み込めなかった。


(……そこ?)


 怒られるとか、距離を置かれるとか、せめて少し困られるとか。そういう方向ばかり覚悟していたのに、出てきたのは心配の言葉だった。


 胸の奥が、不意にやわらかく崩れる。


 その時だった。


「拓也ー!」


 芯の通った明るい声が、彼の背後から飛んできた。

 優菜が丸の内で見た、あの女性だった。すらりとしたシルエットのままホームへ近づいてきて、優菜を見るなりぱっと表情を明るくした。


「え、もしかして噂の、めがねちゃん?」

「……紗希」

「なにその顔。いいじゃない、本当のことなんだから。その眼鏡、すごく似合ってる」


 軽やかに笑った彼女の左手が、ふと視界に入る。


 薬指。

 細い輪。

 水銀灯を受けて、プラチナの指輪が静かに光った。


 優菜の喉が小さく鳴る。


(……指輪)


 それだけで、さっきまで持ち直しかけていた呼吸がまた乱れた。

 けれど、そのざわつきが意味を持つより先に、紗希が拓也の肩を軽く叩いた。


「ねえ、拓也。昨日のアレ、弟のお嫁さんにちゃんと伝えた?」

「後で連絡する」

「絶対忘れると思った。だから朝から捕まえに来たのよ。ほんと、そういうとこ昔から変わんない」


 弟のお嫁さん。

 その言葉が、優菜の頭の中で一拍遅れて意味を結ぶ。


「それと、来月のうちの弟の結婚式。スピーチ頼んだの、忘れないでよ」

「忘れてない」

「怪しい」


 紗希は呆れたように笑って、それから優菜に向き直った。


「ごめんね、びっくりしたでしょ。私、紗希。拓也とは昔からの腐れ縁」

「……あ、朝比奈です」

「うん、知ってる。朝比奈さん。拓也が珍しく気にしてるから」


 その一言に、優菜の心臓がまた跳ねた。

 拓也は明らかに困ったような顔をして、小さく紗希の名を呼ぶ。


「紗希」

「はいはい、言いすぎました。でもほんとなんだから仕方ないでしょ」


 紗希は悪びれもせず肩をすくめた。


「この人、昔から変に面倒見いいのよ。特に、自分が気になった相手には」

「……お前、もう帰れ」

「帰るわよ。旦那と子どもたち待たせてるし」


 そう言って、紗希はひらりと手を振る。


「じゃあね、朝比奈さん。またどこかで」

「は、はい」

「拓也も、ほどほどにしなさいよ」


 嵐みたいに言いたいことだけ言って、紗希は去っていった。

 残されたホームの空気が、さっきまでとはまるで違って感じられる。


 優菜はようやく小さく息を吐いた。

 丸の内で見た光景。指輪。呼び捨て。全部が勝手につながって、勝手に自分を傷つけていたのだと、今になって思い知る。


(……何やってたんだろ、私)


 恥ずかしさと安堵がいっぺんに押し寄せて、顔が熱い。

 眼鏡のつるに触れた指先が、少し震えた。


「朝比奈さん」


 拓也の声が、今度はずいぶん近くで聞こえた。


「……はい」

「体調、大丈夫そうですね」

「え」

「さっきより、顔色がいい」


 優菜は思わず笑いそうになる。

 そんな確認を、こんなタイミングでするのか。この人は。


「……たぶん、大丈夫です」

「そうですか」


 拓也はほんの少しだけ視線を落とした。

 コートの袖口を指先でつまむみたいな、小さな仕草。


 それから、声を少しだけ低くした。


「……また」

「……?」

「明日も、あそこに来てくれると、助かります」


 優菜は息を止めた。


 “助かります” なのに、胸の奥にはそれ以上の言葉として届いてしまう。

 喉が先にきゅっと鳴って、返事がうまく出てこない。


「――っ、は、はい」


 情けないくらい慌てた声になった。

 それでも拓也は笑わなかった。ただ、小さく頷いた。


 入線のアナウンスが流れ、ホームに風が巻き起こる。

 優菜は隣に立つ彼の横顔を、今度こそ曇りのないレンズ越しにそっと見上げた。


 名前も、立場も、昨日までより少しだけ輪郭を持った。

 それでもまだ、何も始まっていない。

 始まっていないはずなのに、胸の内側だけが忙しく、静かに騒いでいる。


     *


 翌朝。

 優菜は少しだけ早い時間の電車に乗り込んだ。


 拓也は、昨日と同じ場所に、いつもの「壁」として立っていた。

 優菜の姿を認めると、彼はいつものように、でも昨日までよりほんの少しだけやわらかく、仕切り板の前の空間を空ける。


「……おはようございます、拓也さん」

「おはようございます。……朝比奈さん」


 お互いの名前を、はじめてちゃんと口にした朝だった。

 その響きだけで、昨日までの数日間が少しずつほどけていく気がする。


 優菜は静かに、あの場所へ戻った。

 板と、彼の背中に守られた、いつもの小さな箱。

 そこに立った瞬間、ようやく自分の呼吸が元の速さに戻るのを感じた。


(……ただいま、って言いたいくらいだわ)


 電車が走り出す。

 ガタン、と揺れた拍子に、一瞬だけ肩が触れる。

 離れたのに、熱だけが残った。


 開いたドアから流れ込んだ風が、雨の手前の、少しだけ甘い紫陽花の匂いを運んでくる。


(……だめだ。今日は、全然落ち着かない)


 でも、その落ち着かなさが、昨日までの苦しさとは少し違っていた。

 濁った水がゆっくり澄んでいくみたいに、胸の奥で何かが静かに形を取り直している。


 優菜は眼鏡のブリッジをそっと押し上げて、誰にも見えない角度で小さく笑った。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


拓也と歩いていた紗希は、妻でも恋人でもなく、昔からの友人でした。


勝手に誤解し、勝手に傷ついていたことを恥ずかしく思う優菜。

けれど、その嫉妬は、拓也がもう「ただの通勤客」ではないことを教えてくれました。


そして拓也から告げられた、


「明日も、あそこに来てくれると、助かります」


という言葉。


恋の告白ではありません。

それでも、優菜がそばにいないことを寂しく感じていた拓也の気持ちは、確かにそこに滲んでいました。


初めて互いの名前を呼び、いつもの場所へ戻った二人。


次話「低気圧の髪」では、完璧な姿を見せたい優菜にとって、どうしても隠したい弱点を拓也に見られてしまいます。

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