第7章:紫陽花の影
毎朝会えることが、いつの間にか当たり前になっていた。
名前も知らないまま、それでも少しずつ特別になっていた拓也の存在。
そんな優菜はある日、街中で彼を親しげに名前で呼ぶ女性を見かけます。
まだ何の約束もしていないからこそ、胸に生まれた痛みを、優菜はうまく認めることができません。
五月下旬。丸の内のオフィス街を吹き抜ける風は、梅雨入り前の湿気を重たく含んでいた。
クライアント先からの帰り道。横断歩道の赤信号で足を止めた優菜は、ふと、道路の反対側を歩く人影に視線を奪われた。
(……あれ)
人混みの中でも一瞬で分かる、あの広い背中。
いつもは電車の窓の外か、遠くの一点を見るような静かな横顔ばかり見ていたのに、今日は違った。彼は「誰か」に向けて、やわらかく笑っていた。
隣には、一人の女性がいた。
すらりとした脚。雨の気配を映すみたいに光るシルクのブラウス。
髪をかき上げる仕草まで、いかにも丸の内の空気に馴染んでいる。優菜が頭のどこかで思い描いていた「洗練された大人の女」の完成形みたいな人だった。
(……綺麗な人)
その一言だけで済めばよかった。
でも、済まなかった。
女性が差し出したスマホの画面を、彼が覗き込む。肩が触れそうな距離。笑った拍子に女性の髪が揺れて、彼の紺色のコートの胸元に一瞬だけ触れた。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
そこへ、車の音の切れ目を縫って、女性の声が届く。
「――拓也、」
苗字じゃない。
敬称すらない。
名前を、そのまま呼んでいた。
優菜の喉がきゅっと狭くなる。
彼――らくださんは、優菜が毎朝見ていたあの静かな顔とは少し違う、もっと素の、大人の男の顔で応じていた。
(……そっか)
たったそれだけの光景なのに、足元が少し頼りなくなる。
別に、何か約束があったわけじゃない。名前も知らない。ただ毎朝、同じ車両に乗って、同じ空間に立っているだけ。
なのに、心のどこかでは、そこを少しずつ自分のものみたいに思い始めていたのかもしれない。
信号が青に変わった。
身体が、考えるより先に一歩踏み出していた。
(……何してるの、私)
追いかけたいわけじゃない。
確かめたいわけでもない。
なのに視線だけが離せなくて、優菜は人波を縫うように斜め前へ出た。だが、反対側から来たサラリーマンの肩にぶつかりそうになって、あわてて足を止める。
「あ、すみませんっ」
その一瞬で、二人の姿は人の流れに紛れ、瀟洒なビルの入り口へ吸い込まれていった。
優菜は震える手でタブレットを抱きしめる。
(……何やってるんだろ、私)
物理的な恥ずかしさの熱が、そのまま胸の奥のざらついた感情に重なる。
自分でも笑いたくなるくらい、分かりやすかった。
あの背中が、自分の知らない場所で、自分の知らない名前で呼ばれている。それだけで、こんなに息がしにくくなるなんて。
*
翌朝。
いつもの東海道線、いつもの車両。
ドア横の仕切り板には、いつもと同じように彼が立っていた。
優菜の姿を認めると、彼は無言で、すっと左へ退き、優菜のための空間を空ける。
けれど。
(……無理)
優菜は、自分でも驚くほど冷たい手でトートバッグを握りしめた。
彼と一度も目を合わせないまま、くるりと踵を返す。そのまま、彼が空けてくれた場所を素通りして、車両の中ほどにある満員のつり革地帯へ突っ込んでいった。
すぐに後悔した。
昨日の寝不足と、うまく飲み込めない感情のせいで、足元がひどく頼りない。電車が大きくカーブに差しかかった瞬間、優菜は掴もうとしたつり革を掴み損ね、派手によろめいた。
(――っ、しまった)
そう思った瞬間。
横から、一切の無駄がない腕が差し出された。
彼が一歩で距離を詰め、優菜がぶつかるはずだった場所に、自分の腕を手すりみたいに置いたのだ。
「……危ない」
低く、抑えた声が至近距離から降ってくる。
視線の先には、紺色のコートの袖。
優菜の心臓がどくんと大きく鳴った。
昨日の光景が、嫌になるくらい鮮明によみがえる。あの女の人が触れていた距離。その名前の呼び方。そのやわらかい笑顔。
優菜は彼の顔を見ることすらできず、その腕を避けるようにして近くのつり革を死に物狂いで掴んだ。
「あ……だい、じょうぶです。……すみません」
絞り出すような声でそれだけ言って、逃げるようにさらに車両の奥へ移動する。
正面から向き合うのを避けたせいで、余計に、自分がひどく感じの悪いことをした気がした。
(……最悪)
助けてもらったのに。
いつも通り、あの場所を空けてくれたのに。
それを拒絶したうえ、手を借りておいて逃げるみたいに離れるなんて。
胸の奥が、湿った綿で詰められたみたいに重かった。
*
「……で、その死んだ魚みたいな目は何? 日経平均が暴落でもした?」
オフィスのデスク。背後から降ってきた由紀の声に、優菜は「ひゃいっ!」と変な声を上げて飛び上がった。
「……見たのよ。丸の内で。らくださんが、すっごい綺麗な人と歩いてるのを」
優菜は由紀に、昨日見た光景を早口でぶちまけた。
肩が触れそうだったこと。名前を呼び捨てにされていたこと。今朝、あからさまに彼を避けたこと。助けられそうになって逃げたことまで、全部。
由紀は最後まで聞き終えると、机の端に置かれた紫陽花の小さな鉢植えを指先でくるりと回した。
「ふーん。で、その女性、どんな感じだった?」
「どんなって……綺麗で、仕事できそうで、すごく自然だった」
「仕事相手っぽかった?」
「……え?」
「スマホ見せてたんでしょ。服装も、いかにも丸の内の人って感じだったんじゃないの?」
優菜は言葉に詰まった。
たしかに、親密そうではあった。けれど、あれが恋人同士特有の空気だったのかと問われると、自信がない。自分の目は、あの瞬間かなり曇っていた。
「らくださん、建設とかそういう固い業界の人っぽいし。あの辺、本社ビルも多いじゃない。仕事で一緒にいたって普通にあると思うけど」
「仕事相手……」
「まあ、当たってるかは知らない。私、見てないし」
由紀の言葉に、優菜の胸の内側がまた落ち着かなく揺れた。
(仕事相手……)
(だったら、あの笑顔も、あの距離も、別に)
(……いや、別に、何)
希望と、勝手に傷ついた自分への居心地の悪さが、同時に押し寄せる。
もしそうなら、今朝の自分はただの感じの悪い女だ。最悪の方は、そっちかもしれない。
「……でも、どっちにしても」
優菜は額を机に押しつけた。
「私が今日、彼を拒絶して、挙げ句に助けられそうになって逃げたっていう事実は消えないのよ、由紀……」
「ああ、それはまあ、だいぶ感じ悪いわね」
「刺さる」
「でも、相手が大人なら一回くらいで見限らないでしょ。たぶん」
「たぶん、って何」
「私も毎回当たるわけじゃないし」
「そこで精度落とさないでよ……」
由紀は小さく笑って、優菜の頭を軽く小突いた。
「ま、明日ちゃんと見れば? 仕事相手なのか、そうじゃないのかも含めて」
「観測対象じゃないんだけど」
「でも気になってるんでしょ」
「……」
「はい、沈黙は肯定」
窓の外では、五月の雨が静かに降り始めていた。
晴れていた時には見えなかった輪郭が、濡れたガラス越しだと少しだけ滲んで見える。
優菜は机に突っ伏したまま、目を閉じる。
ただの通勤客。
それで済ませるには、もう少し気にしすぎている。
恋と呼ぶには、まだ早い。けれど、ただの偶然として片づけるには、胸の内側が妙にざわつきすぎていた。
(……明日、どういう顔して会えばいいのよ)
その問いに答えてくれる人は、オフィスのどこにもいなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
自分には何の権利もない。
そう分かっているからこそ、優菜は拓也から距離を取ろうとしました。
けれど、離れようとした瞬間にも、拓也は迷わず彼女を支えます。
知らない女性への嫉妬と、変わらない彼の優しさ。
優菜の中で曖昧だった気持ちは、もう「ただの通勤客」では片づけられないところまで育っていました。
次話では、紫陽花の影に隠れていた誤解と、二人の距離を変える新たな出来事が描かれます。




