第6章:湯たんぽ未満
無理をしてでも、いつも通りに働こうとする優菜。
けれど、身体はもう限界に近づいていました。
そんな彼女の異変に、拓也は言葉より先に気づきます。
今回は、名前も知らないまま育ってきた優しさが、初めてはっきりと形になるお話です。
二月下旬。東海道線横浜駅のホームを吹き抜ける風は、春の気配を少しも孕んでいなかった。
朝比奈優菜は、銀縁眼鏡の奥で朦朧とする視界を必死につなぎ止めていた。昨夜、深夜二時まで格闘した北米市場の分析データが、今になって重い毛布みたいな悪寒になって襲いかかってきている。
喉の奥はひりつき、関節は鈍く痛い。電車を待って立っているだけなのに、足の裏からじわじわ体力が抜けていく。
解熱剤の効き目が、身体のどこかで静かに切れ始めているのが分かった。
(……まずい)
入線してきたオレンジとグリーンの車両。優菜は這いずるような足取りで、いつもの車両へ乗り込んだ。
ドア横の仕切り板には、いつものように先に乗り込んだ拓也が、当然みたいな顔で立っている。
拓也は優菜の姿を認めると、一言も交わさず、すっと左へ退いた。
彼が空けた隙間に、優菜がすっぽり収まる。それが、冬の間ずっと繰り返されてきた合図だった。
拓也は進行方向を向いた優菜の右隣で窓側を向き、背中側の圧を一人で受ける姿勢を取る。その「盾」に守られた空間だけは、混雑した車内でも驚くほど静かだった。
(……ああ、やっぱりここが一番落ち着く)
優菜は朦朧としながら板に背を預け、深く目を閉じた。
すぐ右隣、窓側の拓也の肩が驚くほど近い。彼が窓側を向いているのは、優菜に余計な気を使わせないための配慮なのだ。
――ガタン、と東海道線が大きく揺れた。
今日の優菜にとって、それはクリティカルな揺れだった。膝から力が抜け、仕切り板に預けていた体が右へ倒れそうになる。
不意に、肩に柔らかな、けれど揺るぎない衝撃が触れた。
コート越しの硬い布と、その下の確かな体温。
窓側を向いたままの拓也は、さりげなく、それでいて力強く肩を差し出し、倒れかけた優菜を無言で受け止めた。
(……ごめん、らくださん。今日だけ、ちょっとだけ)
拓也は一度も優菜を見ない。窓の外を流れる景色をじっと見つめている。
けれど、その肩からは「絶対に倒させない」という静かな意志と、微かに柔軟剤の清潔な香りが伝わってきた。熱のせいで嗅覚が鋭くなっているのか、その香りが鼻先をかすめるだけで、優菜の荒い呼吸が少しだけ整う。
(……安心する。悔しいくらい)
そのまま数駅ぶん、優菜はほとんど意識の輪郭を失いながら、ぎりぎりのところで立っていた。
*
終点、東京駅。
ドアが開く喧騒の中、優菜は重いトートバッグの紐を握り直し、ホームへ足を踏み出した。冬の朝の冷気が、熱っぽい肌に刺さる。少し歩くだけで、足元が頼りなく揺れる。
(……やばい。ホームの案内表示が二重に見える)
エスカレーターへ向かう途中、拓也がふと足を止めた。
自販機の前に立ち、ボタンに伸ばした指が一度だけ止まる。甘いのは違う。カフェインも違う。
ガコン、と音を立てて落ちてきたのは、一本の焙じ茶だった。
彼はそのまま優菜の隣に並ぶと、温かいペットボトルをそっと手渡した。
「……これ。あったまるから」
たったそれだけ。
でも、その一言が妙にまっすぐ胸に入ってきた。
焙じ茶の香りが、湯気と一緒にふわっと鼻をくすぐる。
白いラベルの端に書かれた「焙じ茶」の文字が、妙にくっきり目に入った。
(……だめ。こういうの、刺さる)
優菜は驚いて眼鏡を直そうとしたが、拓也はもう前を向いて歩き出していた。
手渡されたボトルの熱が、指先からじわじわと全身に広がっていく。
(……私がしんどいの、気づいてたんだ)
優菜は、トートバッグを抱え直すようにして、そのボトルを大切に握りしめた。
ラベルの隙間から見える琥珀色の液体が、朝の光に反射してきらきらと輝いている。それは、今まで受け取ったどんな分析レポートよりも、優菜の心に「今日の正解」を提示していた。
*
「――ねえ、それ、誰の?」
オフィスのデスクで、ラベルが少しよれた温かいボトルの熱をじっと確かめていた優菜の背後に、音もなく由紀が忍び寄った。
「ひゃいっ!? ……な、何よ由紀。心臓に悪いわね」
「あんたこそ、顔真っ赤。微熱でしょそれ。なのにそのお茶……。優菜、あんた体調悪い時、白湯派じゃなかった?」
由紀の視線が、優菜のデスクの端に置かれたボトルを射抜く。
「チョイスが完全に“男の買い方”ね。迷いゼロ。一番手前のやつをノールックで掴んだ感じ。……あ、わかった。らくださんでしょ?」
「ち、違うわよ! これは、その、湯たんぽ代わりというか……」
「湯たんぽ? 誰が? らくださんが? ほう、朝から手渡しイベントですか」
一瞬で正解を叩き出す由紀に、優菜は言葉を失う。
由紀はさらに身を乗り出し、優菜の顔を覗き込んだ。
「はい確定。これ、完全に『保護イベント発生』ね。よかったわねぇ」
「イベント扱いするな! 私は、単に……」
「単に?」
「……市場の効率的な助け合いというか……っ」
「熱ある時にまで理屈こねないの」
由紀はボトルへ手を伸ばした。
「それ、もう冷めてるし、私が貰っちゃおうかな」
「だめ!!」
自分でも驚くほどの速さで、優菜はボトルを抱え込むようにして隠した。
由紀は「へぇー」と意地悪く声を上げ、満足そうに自分のデスクへ戻っていく。
静かになったオフィスで、優菜はもう一度、そのぬるくなったボトルを見つめた。
ボトルの底に、指の跡みたいな結露の線が残っている。たぶん、彼の親指の位置。消えたのは本人だけで、ぬるい痕だけが残った。
由紀にはああ言ったけれど。
仕事中も、ふとした瞬間に、あの東京駅での穏やかな声が耳の奥でリフレインする。
優菜は、まだ少し熱を帯びた自分の指先で、キャップをそっとなぞった。
「……熱くもないし、甘くもない。……でも、私の心拍数、さっきより上がってるんだけど」
優菜は「ぬるくなったお茶」を大切に机の端に置き直し、ほんの少しだけ顔を綻ばせながら、キーボードを叩き始めた。
その指先は、さっきよりずっと温かい。
――湯たんぽ未満。なのに、やけに効く。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
倒れそうな優菜を、何も聞かずに支えた拓也。
そして手渡された一本の温かい焙じ茶は、ただの飲み物ではなく、優菜にとって「自分のことを見てくれていた」という証になりました。
熱すぎるわけでも、甘すぎるわけでもない。
それでも、弱った心にはまっすぐ届く優しさでした。
次話「紫陽花の影」では、少しずつ拓也を特別に思い始めた優菜の前に、彼を名前で呼ぶ一人の女性が現れます。




