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冬のレモン、キャメルの背中 ~満員電車で私を守ってくれた十九歳上の彼に、ゆっくり恋をしました~  作者: ちょこまろ


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第5章:1.5キロの鎧

二月十四日、バレンタインデー。


いつもの満員電車、いつものキャメル色の背中。

けれど今日の優菜のポケットには、いつもとは違う、小さな重みがありました。


感謝なのか、それとも別の気持ちなのか。

まだ自分でも名前をつけられないまま、優菜は彼のすぐそばに立ちます。

 二月十四日。

 世間が少しだけ浮き足立つバレンタインデーの朝も、大手町駅へ向かう東海道線はいつも通り無慈悲だった。


 朝比奈優菜のリュックサックには、社用PCと充電器、分厚い企業分析の資料、それに昨夜の会議で急きょ追加されたセクター修正のメモまで詰め込まれている。合計約一・五キロ。

 外資系証券会社のアナリストという肩書きは、ときどきこうして露骨に物理的な重みへ変換され、華奢な肩に遠慮なく食い込んでくる。


(重い……)


 横浜駅のホームで人波に押されながら、優菜は銀縁眼鏡の奥で死んだ魚みたいな目をしていた。


(昨日、上司が二十一時過ぎに投げてきたあの修正、絶対今日じゃなくてよかったでしょ。どうして人は、祝祭日に限って他人のHPを削るのか。肩こり、腰痛、眼精疲労、そして若さの終わりの予感。バレンタイン? 何それ、美味しいの?)


 電車が滑り込む。

 開いた扉の向こうへ、優菜は半分本能みたいな足取りでいつもの車両へ乗り込んだ。人と鞄の隙間を抜け、ドア横の仕切り板のあたりへ視線を向ける。


 そこには、当然みたいに、いつものキャメル色のコートがあった。


(……ああ、いた)


 それだけで、少しだけ肩の力が抜ける。

 自分でも呆れるほど単純だと思うのに、その安心感だけは誤魔化せなかった。


 電車が動き出す。

 全方向から遠慮のない圧力が押し寄せる。背中に誰かのバッグの角が当たり、つり革につかまる腕が頬の近くをよぎる。朝の通勤電車なんて、毎日小さな災害みたいなものだ。

 けれど彼がそこにいるだけで、人の波のえぐい圧は手前で止まる。仕切り板と、彼の背中。その間に生まれるわずかな空間だけが、不思議と呼吸のできる場所になる。


 優菜は無意識に、ふぅ、と深い吐息を漏らした。


(……やっぱりここが一番安全)


 通勤電車の中に、こんな「安全地帯」ができるなんて、少し前まで知らなかった。

 名前も知らない。年齢も、職業も、結婚しているのかどうかも分からない。ただ、朝のこの十五分だけ、彼の背中があることで世界の圧力が少しだけ弱まる。それだけのこと。

 それだけのこと、のはずなのに、最近はその十五分のために朝をやり過ごしている気がする。


 昨夜の残業で情緒はほぼ砂漠だった。

 けれど今日の優菜のコートのポケットには、もう一つ別の重みがある。昨夜、仕事帰りにデパ地下で一時間、企業分析以上に真剣に悩み抜いて買った、小さなチョコレートの箱だ。


 濃い茶色の箱に、細い金色のリボン。

 高すぎず、軽すぎず、義理にも本命にも見えそうで、そのどちらでもない絶妙な曖昧さ。そんなものを選ぶ自分が、一番意味不明だった。


(……いや、渡さない。渡せるわけない)


 そう思うのに、ポケットの中で小箱の角を指先が探してしまう。


(名前も知らない人にチョコ差し出すって、普通に事案発生でしょ。朝の通勤電車で何してるの私。しかも今日、もし受け取ってもらえなかったら? いや、むしろ受け取られた方がその後どうすればいいの)


 電車が揺れるたび、彼の背中の温度が今日はいつもより少し近い気がした。

 背中越しなのに、呼吸のリズムまで分かる気がする。そんなわけないのに、そう思ってしまうくらいには、優菜の意識はそこへ向いていた。


(……だめだ。近いと余計に無理)


 渡したら、何かが変わるかもしれない。

 渡さなければ、たぶん今日一日ずっと後悔する。

 そのどちらも嫌で、優菜は眼鏡の奥で小さく目を閉じた。


 バレンタインなんて、面倒な日だ。

 ただでさえ重い一・五キロに、数字にできない気持ちまで上乗せしてくるのだから。


     *


 その日のランチタイム。

 会社近くのイタリアンで、優菜は同期の由紀と向き合っていた。オリーブオイルの香りがする店内で、優菜はサラダを猛然と口へ運び、由紀はそんな様子を呆れた顔で眺めている。


「優菜、顔に『数字に殺される』って書いてあるわよ。あんた、また徹夜気味でしょ」

「……察して。あの修正、今日じゃなくて良かったはずなの。バレンタインだからって、独り身の私に嫌がらせしてるんじゃないかって疑ってる。相関関係ぜんぶ呪いたい」

「はいはい、お疲れさま。で? 例の『らくださん』とはどうなったのよ」


 その単語が出た瞬間、優菜は危うくパスタを喉に詰まらせた。


「げほっ……何もどうもなってない! ただの通勤客!」

「へえ」

「市場原理に則った、極めて互恵的な関係よ。彼はスペースを確保し、私はその恩恵に預かる。それだけ」

「出たわね、アナリスト特有の可愛くない言い訳」


 由紀はフォークをくるくる回しながら、片眉を上げる。


「ただの通勤客を、毎日そんな顔で気にしないでしょ」

「そんな顔って何よ」

「今みたいな顔」

「どんな」

「自分では誤魔化せてると思ってるけど、全然誤魔化せてない顔」


 優菜は無言でフォークを置いた。

 言い返したいのに、たしかに朝から少し落ち着かない自覚があるから困る。


 由紀は少しだけ声を落とした。


「まあでも、あるよね。意味分かんないのに、その人がいるだけで朝がちょっとマシになるやつ」

「なにその、急に情緒あるコメント」

「半分は勘」

「半分もあるんじゃない」


 由紀はにやりと笑う。


「で、そのポケットの中、何」

「……何って?」

「さっきから触ってるやつ。チョコでしょ」


 優菜は凍りついた。

 無意識のうちに、コートのポケットの中の小箱を指で撫でていたのだ。


「……これは、自分用。糖分補給。脳を酷使する職業だからね。極めて合理的な投資」

「嘘おっしゃい。あんたが自分用なら、そんなリボン付き選ばないわよ。コンビニの袋チョコで済ませるタイプでしょ」


 図星だった。

 優菜は銀縁眼鏡を押し上げ、必死で平静を装う。


「いいでしょ別に。気の迷い。売り場の照明が強すぎたの」

「売り場のせいにするんだ」

「あと、仕事で疲れてた」

「疲れてる人が、デパ地下で一時間も悩む?」

「……見てたの?」

「見てない。でも想像つく」


 由紀は少し身を乗り出した。


「ねえ、今日、渡しちゃえば? 『いつもありがとうございます、糖分補給です』って」

「突きつけるって……それ、もはや脅迫じゃない?」

「脅迫ではない」

「じゃあ何」

「イベント発生」

「ゲームみたいに言わないで」


 由紀は笑いながら、水を一口飲んだ。


「優菜。あんた毎日、一・五キロの鎧を背負って戦ってるでしょ」

「……まあ」

「その鎧をちょっと軽くしてくれる相手がいるなら、感謝くらいしてもいいじゃない」

「感謝、ねえ……」


 優菜は小さく繰り返した。


 たしかに、感謝ではある。

 たった十五分、同じ車両にいるだけの人だ。

 それなのに、その十五分があるから、朝の自分をなんとか会社まで運べている。

 それを恋と呼ぶには、まだ早い気がした。けれど、ただの偶然や都合のいいスペースと呼ぶには、もう少しだけ温度がありすぎた。


(……もし渡して、『え、誰?』みたいな顔されたらどうしよう)

(いや、普通そうなるでしょ。名前も知らないんだし)

(そもそも既婚者かもしれないし)

(明日からあの場所にいられなくなったら、普通に困る)


 脳内では最悪のシナリオが秒速で立ち上がる。

 アナリストとして培ったリスク管理能力が、今この瞬間ばかりは全力で足を引っ張っていた。


「……らくださんに、糖分」

 優菜がぼそっと呟くと、由紀がすかさず頷く。


「そう。守ってくれてるお礼。そう思えば少し楽でしょ?」

「損益計算書に載らない『感謝』って、一番処理に困るやつなんだけど」

「じゃあ今日は経費じゃなくて、情緒で落としなさいよ」


 その一言に、優菜は思わず吹き出した。


「何それ」

「名言っぽかった?」

「半分くらい」

「十分じゃん」


 こういう時、由紀の軽さはずるい。

 重くなりすぎた心に、ちゃんと風を通してくる。


     *


 ランチを終えてオフィスへ戻る道すがらも、ポケットの中の小箱は体温より先に熱を持っている気がした。

 午後の仕事中も、頭の中を占めるのは数字ではなく、茶色の小箱とキャメル色のコートの背中。


 数字じゃ測れない温度がある。

 そして今の私は、たぶんそれを測ろうとして、またエクセルを開くタイプだ。


(……違う。今日はエクセル閉じろ、私)


 そう思っているのに、終業が近づくにつれて心拍数だけがじわじわ上がっていく。

 優菜はディスプレイを閉じ、資料を整え、コートを羽織った。ポケットの中で、小さな箱が存在を主張している。朝から何度も触れたせいで、角が少しだけやわらかくなった気がした。


 東京駅のホームは、朝より少しだけ人の顔が緩んで見えた。

 仕事を終えた人の足取り。買い物帰りらしい紙袋。誰かに渡すのだろう、赤いリボンのついた小さな箱。

 世の中はちゃんとバレンタインをやっている。優菜だけが場違いみたいに、コートのポケットを押さえている。


 いつもの車両。

 いつもの位置。

 そして、いた。朝と同じキャメル色のコート。


 彼はいつものように立っていた。優菜が近づくと、気づいたのか気づいていないのか分からない自然さで、わずかに体をずらす。その所作だけで、いつもの小さな空間ができる。


(……やっぱり、ここだ)


 その瞬間、今日一日ずっと騒がしかった心が、逆にしん、と静かになった。

 ポケットの中で、小箱を握る。

 今なら言えるかもしれない。

 「いつもありがとうございます」

 たったそれだけでいい。たったそれだけのはずなのに、喉の奥がからからに乾いて、舌がうまく動く気がしない。


 電車が動き出す。

 車内の揺れと一緒に、優菜の勇気もふらついた。


 無理。

 いや、無理じゃない。

 でも、無理かもしれない。


 渡したら、この空気が変わる。

 今まで通りじゃなくなる。

 明日から、彼が少しだけ距離を取るかもしれない。優しい人ほど、そういうふうに気を使うかもしれない。

 そう思った瞬間、ポケットの中へ入れた指先に力が入った。


 たぶん私は、思っているよりずっとこの十五分に助けられている。

 たった十五分。名前も知らない人の背中のそばにいるだけの時間。

 それなのに、その十五分があるから朝の満員電車をやり過ごせて、そのまま会社まで辿り着けている。

 その事実を認めるのが、少し怖かった。


 指先に汗が滲む。

 ポケットの中の小さな箱は、一・五キロの鎧よりずっと軽いはずなのに、なぜか今日いちばん重かった。


 数駅のあいだ、結局何もできなかった。

 言葉一つ。視線一つ。チョコの箱を取り出すことすらできないまま、夜の窓に自分の情けない顔だけがぼんやり映る。


(……今日も無理だった)


 胸の奥で、小さくため息をつく。

 その時、電車が少し大きく揺れた。優菜の肩が、ほんの一瞬だけ彼のコートに触れる。謝るほどでもない、ごく小さな接触。


 彼は何も言わなかった。

 ただ、少しだけ立ち位置を調整して、優菜の側へ流れてくる圧を受け直した。


 それだけだった。

 それだけなのに、優菜の心臓はまた勝手に速くなる。


 言葉なんて一つも交わしていない。

 それでも、この人はちゃんと気づいてくれている。少なくとも、自分がここにいることを、迷惑ではないものとして受け入れてくれている。

 そう思った瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけた。


(……だめだ。明日もいてほしい、と思った)


 その背中を見るだけで、朝の息苦しさが少しだけましになる。

 もう私は、この十五分を手放したくない。


 駅に着き、人の流れに押されて電車を降りる。

 結局チョコは渡せなかった。ポケットの中でぬくもったまま、行き場をなくしたまま。


 それでも優菜は、ホームを歩きながら小さく唇を結んだ。


(……でも、まだ終わってない)


 今日は無理だった。

 だけど、会えた。


 優菜はコートのポケットの上から、そっと小箱を押さえた。

 それだけで、明日の朝を少しだけ待てる気がした。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


一・五キロの仕事道具を背負い、毎日きちんと戦っている優菜。

その鎧を少しだけ軽くしてくれる存在が、いつの間にか拓也になっていました。


けれど、感謝を形にすることは、優菜にとって数字を扱うよりずっと難しいことのようです。


渡したい。

でも、関係が変わってしまうのが怖い。


名前も知らない二人のあいだで、バレンタインの小さな箱だけが、静かに熱を帯びています。


次話「湯たんぽ未満」では、今度は拓也の優しさが、弱った優菜の心と身体を温めます。

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