第4章:踏切の音
毎朝、同じ車両で会う銀縁眼鏡の女性。
彼女を守るわずかな十五分間が、拓也の中で少しずつ特別な時間へと変わり始めています。
今回は、十年前から静かに止まっていた拓也の時間と、そこに生まれた小さな変化のお話です。
カン、カン、カン、カン。
藤沢の住宅街に響く江ノ電の踏切音は、どこか間の抜けた、それでいて規則正しいリズムを持っている。
桐生拓也は、冷え込んだ日曜の朝、庭の隅にあるレモンの木を見上げていた。十年前、亡き妻の仁美が植えた木だ。冬の陽光を浴びて、黄色い実が寒さに耐えるように枝にしがみついている。
(……そろそろ収穫して、蜂蜜にでも漬けるか)
そう思いながらも、拓也の指先は動かなかった。
仁美がいなくなってから、この家の時間は、凪いだ海みたいに静かだ。居間の棚には、二人で買った蕎麦猪口や一輪挿しが、あの日のまま残っている。
思い出は消えない。消したいわけでもない。けれど、うっかり深く触れると、自分まで崩れてしまいそうで、拓也はただ静かにそれらを見守ることしかできなかった。
「拓也、またレモン見てるの? 相変わらず、絵に描いたような枯れ具合ね」
背後から飛んできた、竹を割ったような声。
中学からの腐れ縁で、仁美を拓也に紹介した張本人でもある紗希が、勝手口からずかずか上がり込んできていた。
「黄昏れてなんかない。木の状態を見ていただけだ」
「ふーん。そのわりには、五分前と一歩も動いてなかったけど」
紗希は慣れた手つきでコートを脱ぎ、キッチンへ向かう。
戸棚から、仁美がよく使っていた、縁が少し欠けたマグカップを取り出した。拓也がなんとなく避けているそれを、紗希は何の躊躇もなく「使うもの」として扱う。
「ほら、座りなさいよ。お茶淹れるから」
「……ああ」
ダイニングテーブルに向かい合うと、紗希は見抜くような目を拓也に向けた。
二人は中学時代、同じ技術家庭科の居残りで仲良くなって以来の付き合いだ。互いの結婚式にも出たし、仁美の葬儀では、紗希は誰より長く拓也の隣で泣いてくれた。
「で、どうなの。本社に移って半年。そろそろ胃に穴が開く頃じゃない?」
「現場のトラブルのほうが、まだ分かりやすかったよ。会議、調整、根回し……毎日、終わりのないパズルだ」
「あんた、昔からパズルは得意だったじゃない。でも、自分の人生のほうは、十年前のピースが足りないまま放置してる」
紗希は湯気を立てる茶をひと口すすり、少しだけ声を落とした。
「ねえ、拓也。仁美を大事にするのはいいけどさ。止まったままの時計って、見てる方もしんどいのよ」
拓也は答えず、まだ熱い茶を喉に流し込んだ。
紗希は一拍置いてから、自分で少し照れたように笑った。
「……今の、ちょっとドラマっぽかった?」
「ああ。少し」
「うるさいわね。でも本気よ。あの子、あんたにずっとそこで固まっててほしいなんて思わないでしょ」
拓也は視線を落とし、湯気の向こうをぼんやり見た。
紗希の前では、余計な虚勢は通用しない。
「……最近、変な感覚があるんだ」
「変な感覚?」
拓也は少し迷ってから、朝の通勤電車でのことをぽつりぽつりと話し始めた。
いつもの車両、いつものデッドスペース。そこで時々、自分のすぐ前に立つ銀縁眼鏡の女性のこと。揺れた拍子に胸元へ触れてしまった、小さな体温のこと。
「……ただの通勤客だ。名前も知らない。でも、彼女を守るように立っている十五分間だけ、自分がまだ誰かの役に立てている気がする」
紗希は一瞬黙ったあと、堪えきれないみたいに吹き出した。
「……あはは。何よそれ、拓也」
「……笑うなよ」
「だって面白いでしょ。あの堅物の拓也が、満員電車で誰か一人のためにそんなに気を取られてるなんて」
紗希は頬杖をつきながら、にやりと笑った。
「いいじゃない、その“めがねちゃん”」
「……めがねちゃんって、お前な」
「名前知らないんだから、他に呼びようないでしょ。そんな小さなことで、あんたの時間がちゃんと動いてる」
仁美も今ごろ、空の上で笑ってるかもしれない。
紗希はそんなふうに言って、楽しそうに茶を飲み干した。
帰りがけに、彼女は拓也の肩を軽く叩いた。
「まあ、あんたが何をどう思おうと勝手だけど。明日もその子がちゃんと立っていられるようにしてあげなさいよ。そういうの、あんた得意でしょ」
紗希が帰った後の家は、また江ノ電の踏切音だけが残る空間に戻った。
拓也は二階の寝室へ上がり、明日着ていくシャツにアイロンをかける。キャメル色のコートをブラシで整え、ハンガーに掛けた。
その時、ふと、紗希の言葉が蘇る。
(……めがねちゃん、か)
平日の朝、十五分間。いつもの車両。
朝の空気を切るみたいな、凛とした横顔。眼鏡の奥に秘めた必死な気配。
先日、電車が大きく揺れた瞬間に伝わってきた小さな体温が、拓也の脳裏にふっと浮かぶ。
抱き寄せることも、声をかけることもできない。
ただ、彼女が背筋を伸ばしたまま目的地まで辿り着けるように、自分の腕で外側の世界を少しだけ遠ざけてやりたい。今の拓也にとって、その十五分だけが心のどこかをわずかに動かす時間になっていた。
(……明日は、今日より冷え込むらしいな)
スマートフォンで天気予報を確かめながら、拓也は無意識に明日の朝の「指定席」を思い浮かべる。
仁美と出会った頃のような、青臭い情熱ではない。
けれど、止まっていたはずの秒針が、ほんの一秒だけ確かに震えた気がした。
冬はまだ長い。
それでも庭のレモンは、春を待たずにもう十分鮮やかな色をしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
亡き妻・仁美との思い出を大切にしながら、ずっと同じ場所に立ち続けてきた拓也。
けれど、名前も知らない優菜の存在が、止まっていたはずの彼の時間を、ほんの少しだけ動かし始めました。
まだ恋と呼ぶには静かすぎる変化です。
それでも、明日の朝を待ち遠しいと思えたことは、拓也にとって確かな一歩でした。
次話「1.5キロの鎧」では、バレンタインの日、優菜が胸の内に抱えた小さな決意が描かれます。




