第8話 裏庭の苗
店の裏には、小さな庭がある。
井戸の広場からは見えない、建物と建物のあいだの、細長い日だまりだ。
石で囲った畝が三つと、素焼きの鉢がいくつか。
ポーションに使う薬草が、季節ごとに植え替えられて育っている。
両側の壁は古い石積みで、その隙間から、小さな羊歯が顔を出している。
ひとつ目の畝には、銀色がかった細い葉の薬草が並び、ふたつ目には、丸い葉の傷薬の草が、低く地面を覆っている。
三つ目の畝は、今は土を休ませているところだった。
日が差すのは、朝の早いうちと、昼過ぎのほんのひととき。
それでも、壁が風をさえぎってくれるので、冬でも土がほんのりと温かい。
広場の物音は、ここまで来ると、遠い水音のようにしか聞こえない。
ロッテは、この庭が好きだった。
朝、表の看板をふいたあと、裏口から出て、薬草の葉に朝露が光っているのを眺める。
それが、一日のうちでいちばん静かな時間だった。
けれど、ロッテは、この庭の手入れをさせてもらったことがない。
草を抜くのも、水をやるのも、土を替えるのも、全部マグダがやる。
マグダは、たいていのことには大らかなのに、この庭のことになると、妙にうるさかった。
水は、夜明けの一杯目の井戸水だけ。
桶から直接かけてはいけない。
柄杓で、根もとに、静かに。
葉には触らない。
話しかけるのはいいけれど、急かしてはいけない。
「急かす、って、草をですか」
一度聞いたら、マグダは真面目な顔で「草も、急かされるのは嫌いなのよ」と答えた。
ロッテは、冗談なのか本気なのか、いまだにわからない。
*
その苗が届いたのは、十日ほど前のことだった。
深い階の水辺でしか育たないという草の苗を、ある冒険者がわざわざ持ち帰って、マグダに譲ってくれたのだ。
細くて、頼りない、白っぽい茎が五本。
先のほうに、爪の先ほどの葉が二、三枚ついているだけ。
「夜明け草よ」
マグダは苗を鉢に移しながら言った。
「気付けのポーションの、いちばん大事な材料。乾かして粉にすると、どんな眠りからでも目が覚める」
気付けのポーションは、このところ品薄だった。
七十階に挑むシュトルムの人たちが、三十本まとめて買っていったからだ。
棚の青い瓶は、もう四本しか残っていない。
「これが育てば、また作れるんですか」
「育てばね」
マグダは、鉢を日だまりのいちばんいいところに並べた。
けれど、苗は育たなかった。
三日たっても、五日たっても、葉は一枚も増えなかった。
それどころか、白っぽい茎が、少しずつ、黄色く萎れていく。
マグダは毎朝、夜明けの一杯目の井戸水を柄杓で静かにやり、鉢の向きを少しずつ変え、土の湿り具合を指で確かめた。
それでも、苗は元気にならなかった。
「深い階の水辺と、ここでは、何かが違うのね」
マグダは、萎れかけた葉を見つめて、小さくため息をついた。
ロッテは、マグダがため息をつくのを、初めて見た気がした。
*
その日は、朝から店が混んでいた。
七十階の挑戦が始まって、そろそろ十日になる。
シュトルムの六人がいつ戻るのか、街じゅうがそわそわしていた。
そのせいか、浅い階の新人たちまで、いつもより多めに傷薬や毒消しを買っていく。
ティモたちのパーティも、朝いちばんに来て、毒消しを二本買っていった。
フィネは、七十階の中ボスがどんな魔物か、という噂話を、十五通りくらい披露していった。
昼を過ぎても、客足は途切れなかった。
店の中は、汗と革と土の匂いでいっぱいだった。
扉の鈴は鳴りっぱなしで、窓の外からは、七十階の噂をする声がひっきりなしに聞こえてくる。
隣のギルドの石段にも、朝から人だかりができていた。
誰かが新しい噂を持ちこむたびに、そのざわめきが、波のように広場を渡ってくる。
マグダは、カウンターと鑑定台のあいだを、休む間もなく行き来していた。
ロッテも、棚と帳面のあいだを走り回った。
夕方近くになって、ようやく客が途切れたとき、マグダが言った。
「ロッテ、お願いがあるの」
「はい」
「裏の夜明け草に、お水をあげてきてくれる? 今朝、あげそびれてしまって」
ロッテは、目をぱちくりさせた。
庭の手入れを任されるのは、初めてだった。
「わ、わたしが、ですか」
「ええ。夜明けの一杯目じゃないけれど、汲みたてならいいわ。柄杓で、根もとに、静かに」
「は、はい」
ロッテは桶を持って広場の井戸に走り、水を汲んで、裏庭に回った。
夕方の日だまりは、もう半分ほど影になっていた。
西の壁の上から差しこむ光が、畝の上に細長い帯を作っている。
銀色の葉が、その光の中で、かすかに揺れていた。
土は昼の温みを残していて、しゃがむと、湿った土と薬草の青い匂いが立ちのぼってきた。
五つの鉢が並んでいる。
白っぽい茎は、今朝見たときより、また少し黄色くなっていた。
ロッテは、桶の前にしゃがみこんだ。
柄杓を持つ手が、少し震えた。
マグダにも育てられないものを、自分なんかが触って、もっと萎れてしまったらどうしよう。
けれど、頼まれたのだ。
ロッテは息を吸って、柄杓で水をすくい、一つ目の鉢の根もとに、そっと注いだ。
土が、水を吸いこんでいく。
二つ目。
三つ目。
四つ目。
五つ目の鉢の前で、ロッテは手を止めた。
いちばん小さくて、いちばん萎れている苗だった。
茎が、くたりと土のほうへ傾いている。
「……がんばって」
思わず、声が出た。
それから、慌てて首を振った。
急かしてはいけない、とマグダは言っていた。
「あ、ちがうの。がんばらなくていいの。ゆっくりでいいから。ここ、日当たりもいいし、お水もおいしいし。ミケもいるし。ね」
ロッテは、苗に向かって、小声で話し続けた。
マグダにも、ホルガーにも、聞かれたら恥ずかしいようなことを。
ここは静かで、朝は釣瓶の音がして、みんな優しいこと。
自分も、どこから来たのかわからないけれど、ここにいていいと言ってもらえたこと。
だから、きっと大丈夫だということ。
話し終えると、ロッテは五つ目の鉢の根もとに、残りの水を静かに注いだ。
裏口の戸の陰で、ミケが、じっとこちらを見ていた。
*
翌朝。
ロッテは、釣瓶の音で目を覚ました。
いつものように顔を洗い、髪を結んで、階段を下りる。
台所に、マグダの姿がなかった。
裏口の戸が、開いていた。
ロッテは、裏庭をのぞいた。
朝の裏庭は、まだ青い影の中にあった。
石積みの壁の上だけが、白く光りはじめている。
畝の葉の一枚一枚に、露が粒になって並んでいた。
マグダが、鉢の前にしゃがみこんでいた。
動かなかった。
「マグダさん?」
ロッテは、マグダの肩越しに、鉢を見た。
そして、息をのんだ。
五つの鉢の苗が、どれも、青々とした葉を広げていた。
昨日まで黄色く萎れていた茎が、まっすぐに空を向いている。
葉は、爪の先ほどだったのが、指の先ほどに。
いちばん小さかった五つ目の苗は、ほかの四つよりも、さらに一回り大きく育っていた。
細い茎の先に、白い蕾が、ひとつついていた。
「すごい」
ロッテは、思わず声を上げた。
「すごいです、マグダさん。やっぱり、マグダさんのやり方が合ってたんですね。一晩で、こんなに」
マグダは、何も答えなかった。
ただ、五つ目の鉢の蕾を、じっと見つめていた。
それから、ゆっくりと立ち上がって、ロッテのほうを振り返った。
その目が、いつもより少しだけ、遠くを見ているような気がした。
「マグダさん?」
「……そうね」
マグダは、ふっと笑った。
いつもの笑い方だった。
「よく育ったわ」
マグダは、五つ目の鉢を両手で持ち上げた。
「ロッテ。これ、あなたの部屋の窓辺に置いてもいいかしら」
「え?」
「この子は、あなたの係ね」
ロッテは、目をぱちくりさせた。
「わ、わたしの係って。わたし、何もしてないですよ。昨日お水をあげただけで」
「ええ。だから、これからもお水をあげて。夜明けの一杯目の井戸水を、柄杓で、根もとに、静かに」
マグダは、鉢をロッテの腕に抱かせた。
素焼きの鉢は、思っていたより重かった。
「話しかけるのはいいけれど」
「急かしちゃいけない、ですよね」
「そう」
マグダは、ロッテの頭を、そっとなでた。
「あなたは、それがちゃんとわかってるから」
ロッテには、それがどういう意味なのか、やっぱりよくわからなかった。
その日の午後、マグダは残りの四つの鉢から、葉を少しずつ摘んだ。
摘みすぎないように、一つの株から二枚ずつ。
作業場の鍋で、ほかの薬草と一緒にことことと煮詰めると、店じゅうに、朝の空気のような、すっとした匂いが広がった。
丸椅子のホルガーが、鼻をひくつかせて言った。
「おお、夜明け草か。久しぶりに嗅いだな。こいつが煮えとる匂いを嗅ぐと、どうにも眠れなくなる」
「ホルガーさんは、いつも寝すぎだからちょうどいいわ」
マグダが言うと、ホルガーはふんと鼻を鳴らした。
夕方には、棚の青い瓶が十本、新しく並んだ。
ロッテは帳面を開いて、羽根ペンで書きこんだ。
気付け、十本。
それから、少し迷って、その下に書き足した。
夜明け草、五鉢。うち一鉢、ロッテの係。
その夜、寝る前に屋根裏の窓辺を見ると、月の光が、鉢の白い蕾を照らしていた。
ロッテは、自分の両手を見下ろした。
いつもの、小さな手だった。
土が、少しだけ爪の間に入っている。
それだけだった。
ミケが、窓辺に飛び乗って、鉢の匂いをくんくんと嗅いだ。
それから、満足そうに、鉢の隣で丸くなった。
今日も2話更新。
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