第9話 明日の昼には
「四階まで行ってみようと思うんです」
朝いちばんに店に来たフィネが、そう言った。
ティモたちのパーティは、このひと月で、二階と三階の地図をほとんど描き終えていた。
全員のレベルも、三か四になった。
そろそろ、もう一つ下へ。
ギルドの受付でも、四人の地図を見て「四階なら大丈夫でしょう」と言われたのだという。
「日帰りの予定です。夕方の鐘までには戻ります」
オルフが、きちんとした口調で付け加えた。
マグダは、四人の顔を順番に見た。
それから、棚から水筒を四つ下ろして、カウンターに並べた。
「水は、二日分持っていきなさい」
「二日分? 日帰りですよ」
ティモが言った。
「日帰りでもよ。四階から先は、通路が入り組むの。思ったより、帰り道が長くなることがあるわ」
四人は顔を見合わせたが、結局、それぞれの水筒の隣に、もう一本ずつ水筒を足した。
荷が少し重くなった、とフィネが文句を言った。
ジルケは、何も言わずに、自分の分の水筒を二本とも腰に提げた。
ロッテは、四人を扉の外まで見送った。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
ティモが手を振った。
その胸で、緑色の小さな袋が揺れていた。
*
夕方の鐘が鳴った。
四人は、戻ってこなかった。
最初、ロッテはそれほど気にしなかった。
少し遅れることは、よくある。
地図を描くのに夢中になったのかもしれない。
けれど、日が沈んで、広場の井戸のまわりに灯りがともっても、四人の姿は見えなかった。
広場を囲む家々の窓に、ひとつ、またひとつと灯りが入っていく。
ギルドの石段の両脇では、大きな篝火が焚かれはじめた。
酒場からは笑い声が漏れ、屋台が店じまいの板を下ろす音がする。
井戸の釣瓶だけが、夜風に吹かれて、ときどき小さく軋んだ。
ロッテは、何度も扉の外をのぞいた。
大通りの先、迷宮の入口のほうから、冒険者たちが三々五々戻ってくる。
その中に、狐の耳も、角も、丸いノームの影も、茶色い髪の少年もいなかった。
夜の鐘が鳴った頃、店の扉が勢いよく開いた。
入ってきたのは、ギルドの受付のイルザだった。
二十代半ばの、きびきびした女の人で、昼休みにはよく店に茶を飲みに来る。
けれど、今のイルザは、制服の襟も直さず、息を切らしていた。
「マグダさん。ティモくんたちのパーティ、こっちに来てませんか」
ロッテは、首を振った。
イルザは、唇を噛んだ。
「日帰りの届けが出てて、まだ戻りの記帳がないんです。四階まで、って。入口の係にも聞いたんですけど、夕方から誰も見てないって」
イルザは、カウンターに手をついた。
「朝までに戻らなかったら、捜索を出します。でも、四階の捜索なんて、引き受けてくれるパーティがすぐに見つかるかどうか。今は、腕の立つ人たちがみんな、七十階の噂でそわそわしてて」
七十階に挑んでいるシュトルムは、まだ戻っていない。
挑戦が始まってからひと月近くたち、街は毎日その話でもちきりだった。
その陰で、新人の四人が戻らないことなど、ほとんど誰も気にしていない。
ロッテは、胸の前で両手を握りしめた。
マグダは、カウンターの奥で帳面をつけていた。
顔を上げて、イルザを見た。
「座って、イルザ。お茶を淹れるわ」
「そんな場合じゃ」
「明日の昼には戻るわ」
マグダは、静かに言った。
店の中が、しんとした。
イルザが、目を見開いてマグダを見た。
「……どうして、わかるんですか」
マグダは答えなかった。
ただ、立ち上がって、窓辺の棚から古いランプを一つ下ろした。
油を足して、芯を整えて、火を入れる。
柔らかな橙色の光が、店の中に広がった。
マグダは、そのランプを、表の窓の、いちばん外から見えるところに置いた。
「今夜は、店を遅くまで開けておくわ」
それだけ言って、マグダは台所へ湯を沸かしに行った。
イルザは、しばらくその背中を見ていた。
それから、力が抜けたように、入口脇の丸椅子に腰を下ろした。
ホルガーの椅子だ。
ホルガーは、もう家に帰っていた。
ロッテは、ふと、足もとを見た。
ミケが、いなかった。
店の中を探すと、ミケは、表の扉のすぐ内側で、丸くなっていた。
いつもなら、カウンターの下の籠で眠る時間なのに。
扉のほうを、いや、扉の向こうの、大通りの先を向いて。
迷宮の入口の方角を向いて、ミケは、じっと目を閉じていた。
*
その夜、ロッテは眠れなかった。
屋根裏の寝台で横になっても、目が冴えて仕方がない。
窓辺の夜明け草の鉢が、月明かりに白く浮かんでいた。
階下からは、ときどき、マグダが茶碗を置く小さな音が聞こえた。
イルザは、夜更けまで店にいて、それから一度ギルドに戻った。
*
真夜中のギルドは、がらんとしていた。
昼間は冒険者でごった返す広間に、今は誰もいない。
高い天井の下で、壁の大きな掲示板が、暗がりの中にぼんやりと白く浮かんでいる。
換金所の窓口には、木の格子が下ろされていた。
奥の詰め所では、夜番の職員がひとり、椅子に座ったまま舟を漕いでいる。
窓の外、篝火の燃え残る広場の向こうに、隣の店の窓の灯りが小さく見えた。
イルザは受付の机で、戻りの記帳簿を開いたまま、ぼんやりとランプの火を見つめていた。
明日の昼には戻る。
あの人は、どうしてあんなふうに言いきれるのだろう。
受付に入ったばかりの頃、先輩に言われたことがある。
――戻らないパーティが出たら、隣の店の様子を見てきなさい。
――マグダさんが窓にランプを置いていたら、たぶん大丈夫。置いていなかったら、急いで捜索を出しなさい。
冗談だと思っていた。
イルザは、記帳簿の古いページをめくってみた。
未帰還、と書かれた行の横に、ところどころ、先輩たちの字で小さな書きこみがある。
――翌日、帰還。
――翌々日、帰還。
その横に、ごく小さく、印のようなものが描かれていた。
ランプの絵だった。
イルザは、記帳簿を閉じた。
それから、明け方まで、一睡もせずに待った。
空が白むと、イルザはまた店へ向かった。
目の下に、くまができていた。
朝になった。
四人は、戻ってこなかった。
イルザは、ギルドで捜索の手配を始めた。
店は、いつもどおりに開いた。
ホルガーがやって来て、事情を聞いて、黙って丸椅子に座った。
いつもの茶を、いつもよりゆっくりと飲んでいた。
マグダは、いつもどおりに客の相手をしていた。
ランプは、昼の光の中でも、まだ窓辺で灯っていた。
ミケは、まだ扉の内側にいた。
ロッテは、何度も鐘の数を数えた。
鐘が十鳴った。
十一鳴った。
ロッテは、もう、立っていられなかった。
扉を開けて、広場に出た。
大通りの先、迷宮の入口を見つめる。
人の出入りはある。
けれど、あの四人は。
正午の鐘が、鳴りはじめた。
一つ。
二つ。
三つ。
その音の途中で、ミケが、ロッテの足もとをすり抜けて、広場へ駆け出した。
ロッテは、顔を上げた。
大通りの向こうから、四つの影が歩いてくる。
泥だらけだった。
狐の耳が、片方だけ、くたりと垂れている。
ノームの丸い影が、少し足を引きずっている。
背の高い角の少女が、茶色い髪の少年に肩を貸している。
けれど、四人とも、自分の足で歩いていた。
「ティモさん!」
ロッテは、駆け出していた。
*
「転移の罠だったんです」
店のカウンターで、オルフが説明した。
イルザが、ギルドから飛んできて、横で聞いていた。
四階の通路で、フィネが見落とした床の模様を、ティモが踏んだ。
次の瞬間、四人は知らない場所にいた。
どこまで行っても、自分たちの地図にない通路。
天井が高く、空気が冷たく、たぶん五階のどこかだった。
「壁が、上の階とは違ったんです」
オルフが言った。
「石が黒くて、濡れたようにつるつるしていて。苔もほとんどなくて、ランプもない。ジルケさんの松明だけが頼りでした」
「天井から、氷柱みたいな石がいっぱい垂れてた」
フィネが付け加えた。
「どこかで水の落ちる音がして、それがずっと反響してるの。どっちから聞こえてるのか、ぜんぜんわからなくて」
「わたし、すぐに歩いて出口を探そうって言ったの」
ジルケが、うつむいて言った。
「でも、ティモが止めた」
ティモは、泥だらけの頬をかいた。
「水が二日分あったから」
みんなが、ティモを見た。
「二日分あるなら、一晩くらい、動かずに待ってもいいかなって。暗い中で歩き回って、もっと迷うより。だから、水の湧いてる行き止まりで、四人で固まって、朝まで待った」
岩の割れ目から細い水がしみ出して、床のくぼみに小さな溜まりを作っている場所だったという。
手を浸けると、指が痛くなるほど冷たかった、とティモは言った。
「そしたら、朝になったら、魔物が急に静かになったんです」
フィネが、垂れた耳を押さえながら言った。
「夜はあんなにうろうろしてたのに。みんな、どこかに引っこんじゃったみたいに。それで、わたしが耳を澄まして、風の流れてくるほうを探して」
「僕は、靴がなかったら、歩けなかったと思います」
オルフが、自分の足もとを見下ろした。
ティモに勧められて、オルフもジルケもフィネも、この店で同じ靴を買っていた。
「階段を四つ上るあいだ、ずっと足は大丈夫でした」
イルザが、長いため息をついた。
そして、カウンターの奥のマグダを見た。
マグダは、四人の前に、湯気の立つ麦粥の椀を並べていた。
「おかえりなさい」
マグダが言った。
ティモが、椀を両手で包んで、うつむいた。
その肩が、小さく震えていた。
ロッテは、窓辺のランプを見た。
マグダが、そっと手を伸ばして、その火を吹き消した。
扉の内側で、ミケが大きく伸びをして、それから、ようやくカウンターの下の籠へ戻っていった。
2話目です。
いろいろなパターンのお話を進めていきます。
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