第10話 迷宮が伸びた夜
最初は、夢かと思った。
宿の寝台の上で、ティモは、体の下から何かに押し上げられるような感覚で目を覚ました。
暗い。
真夜中だ。
窓の木枠が、かたかたと鳴っている。
棚の上の水差しが、ことことと揺れて、縁から水がこぼれた。
ごう、という低い音が、床の底から響いてくる。
遠くで、雷が地面の下を転がっていくような音。
ティモは、跳ね起きた。
隣の寝台で、オルフが、丸い目をさらに丸くしていた。
廊下の向こうから、フィネの悲鳴のような声が聞こえる。
音と揺れは、百を数えるくらいのあいだ続いて、それから、ふっと止んだ。
宿じゅうの扉が、いっせいに開いた。
寝間着姿の冒険者たちが、廊下に顔を出し、口々に何か言い合っている。
「なんだ今の」
「地震か?」
「この辺で地震なんて、聞いたことないぞ」
ティモは窓を開けて、外を見た。
井戸の広場にも、街の人たちが集まりはじめていた。
寝間着の上に毛布を羽織った人、片手にランプを提げた人、泣く子どもを抱いた人。
ギルドの石段の上では、夜番の職員が、篝火に慌ただしく薪を足している。
屋台の天幕がひとつ、さっきの揺れで斜めに傾いていた。
みんな、同じ方向を見ている。
大通りの先。
迷宮の入口のある、岩山のほうだ。
月明かりの下で、岩山は、いつもと同じように黒く静まりかえっていた。
ふと、ティモは広場の向こうに目をやった。
ギルドの隣の、小さな店。
その窓に、灯りがともっていた。
扉の前に、細い人影が立っている。
銀色の髪が、月の光を受けて、白く光って見えた。
マグダだ。
マグダは、騒ぐ人たちのほうを見ていなかった。
ただ、大通りの先を、じっと見ていた。
驚いているようにも、怖がっているようにも見えなかった。
遠くから来る誰かを、待っているみたいな立ち方だった。
やがて、マグダは店の中へ戻り、窓の灯りが消えた。
ティモは、その夜、明け方まで寝つけなかった。
*
翌朝、マグダの店は、開店前から人でいっぱいだった。
いつもの丸椅子に座ったホルガーのまわりに、街の古い住人たちが集まっている。
「ブルンの頃にも、一度だけあった」
ホルガーは、いつになく真面目な顔で言った。
「わしがまだ若かった頃だ。夜中に、今みたいに地面が鳴った。翌朝、潜ってみたら、迷宮の階が、ひとつ増えとった」
店の中が、ざわついた。
「それから、ブルンはどんどん深くなった。十三年前のあの年に、一気に今の大きさになった。あれは、その前触れだったのかもしれん」
「じゃあ、また増えたってことですか」
ティモが聞くと、ホルガーは髭をなでた。
「さあな。行ってみんことには、わからん」
「マグダさんは、そのときのこと、覚えてますか」
フィネが、カウンターの奥に声をかけた。
マグダは、いつもどおりに茶を淹れていた。
「わたしより、ホルガーのほうが詳しいわ。あの頃、毎日潜っていたのはホルガーだもの」
「マグダさんは、潜らなかったんですか」
「わたしは、店番」
マグダは、それだけ言って、フィネの前に茶碗を置いた。
フィネは、何か言いたそうに口を開けて、それから閉じた。
しゃべりだすと止まらないフィネが黙るのを、ティモは初めて見た気がした。
*
わかったのは、昼前だった。
ティモたちは、ギルドの許しを得て、浅い階を確かめに潜った。
転移の罠のことがあったばかりなので、四階より下には行かないと決めていた。
一階は、何も変わっていなかった。
二階も、何も変わっていなかった。
三階は、二階よりさらに通路が細かく折れ曲がっている。
光る苔は、ここでは壁の下のほうに、帯のように群れて生えていた。
足もとを照らすには十分だけれど、顔の高さは暗い。
ところどころ、天井から細い根のようなものが垂れ下がっていて、フィネはそれをくぐるたびに耳を伏せた。
ティモたちが描いた地図のとおりに通路を進んでいったとき、先頭のフィネが、ぴたりと足を止めた。
「……ない」
「何が?」
「ここ、行き止まりだったよね。わたしたち、ここで引き返したよね」
フィネが指さした先に、通路が続いていた。
石の壁の、その向こうに。
ティモは、方眼紙を広げた。
自分の字で、確かに「行き止まり」と書いてある。
けれど、目の前には、まっすぐに延びる通路があった。
四人は、顔を見合わせて、そろそろと進んだ。
通路の先に、部屋がひとつあった。
四角い、天井の低い部屋。
壁の石は、ほかの場所よりも少しだけ白く、まだ苔も生えていない。
床には、削りたての石のような細かい粉が、うっすらと積もっていた。
空気はほかの通路よりもひやりとして、雨が降りだす前のような匂いがした。
魔物も、いなかった。
ただ、がらんとした空気が、そこにあった。
まるで、昨日の夜に、できあがったばかりのように。
「迷宮が、伸びたんだ」
ジルケが、小さな声で言った。
誰も、何も言わなかった。
ティモは、方眼紙の「行き止まり」の文字を消して、新しい升目に、部屋を一つ描き足した。
鉛筆を持つ手が、少しだけ震えていた。
*
その日の午後、ギルドの掲示板に、注意の貼り紙が出た。
――浅層の構造に一部変化あり。既存の地図を過信せず、慎重に探索すること。
広間の掲示板の前には、いつになく人だかりができた。
うろこのように重なった紙のいちばん真ん中、いつもなら深層の募集が並ぶ場所に、その一枚は貼られていた。
その写しが、マグダの店の掲示板にも貼られた。
ロッテが、フィネの仲間募集の紙の隣に、丁寧に鋲で留めた。
夕方。
夕暮れの大通りは、ちょうど一日でいちばん人の多い時刻だった。
屋台に灯りが入り、宿屋の呼びこみが声を張り上げ、潜り終えた冒険者たちが換金所へ向かって流れていく。
その流れが、迷宮のほうから、ふいに左右へ割れた。
大通りが、急に騒がしくなった。
迷宮の入口のほうから、六人の冒険者が歩いてくる。
鎧は傷だらけで、足取りは重かった。
けれど、六人とも、自分の足で歩いていた。
シュトルムだった。
沿道の人たちが、口々に声をかける。
七十階は。
中ボスは。
先頭を歩くエーリカが、短く首を振った。
「引き返したわ。また行く」
それだけ言って、エーリカは、まっすぐ井戸の広場へ歩いてきた。
ギルドではなく、その隣の小さな店の扉を開けた。
ティモは、ちょうど店の中にいた。
エーリカは、カウンターの前に立つと、マグダを見て言った。
「約束どおり、文句を言いに来たわ」
「ええ」
マグダは、茶碗を出しながら言った。
「どうぞ」
エーリカは、しばらく黙っていた。
それから、腰の袋を外して、カウンターの上で逆さにした。
空の瓶が、ころころと転がり出た。
青い瓶と、緑に濁った瓶。
「毒消し三十、気付け三十。一本も、余らなかった」
エーリカの声は、静かだった。
「七十階の中ボスは、姿が見えなかった。気づいたら、仲間が眠っていて、毒が回っていた。業火弾を三本持っていっていたら、撃つ前に全員眠っていたわ」
ゲルトが、その後ろで、背中の盾を下ろした。
継ぎ目の銀色の線の横に、新しい傷が増えていた。
けれど、ひびは、広がっていなかった。
「文句は、それだけよ」
エーリカは、マグダの前の茶碗を取って、一息に飲みほした。
「次の準備も、ここでするわ」
マグダは、微笑んだ。
「おかえりなさい」
エーリカは、少しだけ顔をそむけた。
ティモは、そのとき初めて、トップパーティのリーダーの目が、赤くなっているのを見た。
帰りぎわ、小人族の斥候が、ティモの手もとの方眼紙をのぞきこんだ。
ピム、と仲間から呼ばれていた人だ。
「三階が伸びたって?」
「はい。行き止まりだったところに、部屋が一つ」
ピムは、ティモの地図をしばらく眺めて、それから、にやりと笑った。
「いい升目だ。ここの紙だな」
「はい」
「地図はな、一度描いたら終わりじゃない。潜るたびに、描き直すんだ。迷宮のほうが、こっちの地図に合わせてくれるわけじゃないからな」
ピムは、ティモの肩をぽんと叩いた。
「描き直せる奴が、深くまで行ける」
ティモは、方眼紙を胸に抱えて、何度もうなずいた。
*
その夜、ロッテは、また眠れなかった。
地鳴りのことも、シュトルムのことも、頭の中でぐるぐると回っていた。
明け方近く、ロッテは寝台を抜け出して、屋根裏の窓から外を見た。
井戸の広場は、まだ青い薄闇の中に沈んでいた。
石畳は夜露に濡れて、白みはじめた空の色を、うっすらと映している。
ギルドの石段の篝火は燃えつきて、細い煙だけが立ちのぼっていた。
大通りの両側の家々は、どの窓もまだ暗い。
その井戸のそばに、誰かが立っていた。
銀色の長い髪。
マグダだった。
マグダは、井戸の縁に片手を置いて、大通りの先を見つめていた。
迷宮の入口のある、岩山のほうを。
ロッテは、窓を少しだけ開けた。
冷たい朝の空気と一緒に、マグダの声が、かすかに聞こえてきた。
「あなた、まだ大きくなるつもりなのね」
誰に向かって言ったのか、ロッテにはわからなかった。
迷宮に向かって言ったようにも聞こえた。
けれど、迷宮が、返事をするはずがない。
マグダは、しばらくそこに立っていた。
それから、最初の釣瓶を落として、水を汲み上げた。
からから、と滑車が鳴った。
ブルンネンの朝が、始まる音だった。
ロッテは、窓を閉めようとして、手を止めた。
窓辺の、夜明け草の鉢。
昨日の夜、寝る前に見たときより、茎が、指一本ぶんほど伸びていた。
白い蕾が、ほんの少しだけ、ほころびかけていた。
ロッテは、首をかしげた。
一晩で、こんなに伸びるものだろうか。
足もとで、ミケが、にゃあと鳴いた。
ロッテは、鉢を見つめたまま、しばらく動けなかった。
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