第11話 雨の日の寄り合い所
朝から、雨だった。
ロッテが屋根裏の窓を開けると、ブルンネンの街は灰色の薄い膜をかぶったようにけぶっていた。
広場の石畳が、雨粒を受けてぱちぱちと跳ねている。
井戸の屋根からは雨だれが糸のように垂れ、釣瓶の縄が黒く濡れて重そうだった。
大通りの先の岩山は、雨雲の中にすっかり溶けて、輪郭さえ見えない。
「ミケ、今日は雨だよ」
毛布の上の三毛猫は、片目だけ開けて、すぐに閉じた。
雨の日のミケは、だいたいこうだ。
*
鐘が六つ鳴って、店を開けた。
いつもなら、開店と同時に新人たちが駆けこんでくる。
けれど今日は、扉の鈴が一度も鳴らない。
窓の外を、外套のフードを目深にかぶった人が、ときどき小走りに横切っていくだけだった。
「雨の日は、潜る人が減るのよ」
マグダが、カウンターの奥で薬草を刻みながら言った。
「迷宮の中は、雨なんて降らないのに」
「ええ。でも、入口まで歩くのが億劫になるの。それに、濡れた外套のまま潜ると、一日じゅう体が冷えるわ」
なるほど、とロッテはうなずいた。
冒険者も、雨の日は布団から出たくないのだ。
ミケと同じだ。
ところが、昼が近づくにつれて、店の様子が変わってきた。
最初にやって来たのは、もちろんホルガーだった。
「ひどい降りだ。ブルンの頃から、ここの雨はしつこいと決まっとる」
ホルガーは杖で外套の雫を払い、いつもの丸椅子にどっかりと座った。
次に来たのは、ティモたち四人だった。
「潜るのやめたら、宿にいてもすることなくて」
フィネが、耳についた雨粒をぷるぷると振り落とした。
その飛沫が、ちょうど隣にいたジルケの顔にかかった。
ジルケは無言でフィネの尻尾をつまんだ。
「ひゃっ」
それから、見たことのある顔や、見たことのない顔が、ぽつぽつと増えていった。
槍を担いだ獣人の六人組。
いつも一人で来る、無口なエルフの魔術師。
傷薬を一本買ったきり、なぜか帰らない髭面の戦士。
昼休みになると、隣のギルドからイルザが、制服の上に外套をひっかけて飛びこんできた。
「ギルド、暇すぎて。換金所の人なんか、さっきから天井の染みを数えてるんですよ」
気がつくと、狭い店の中は、肩が触れ合うほどの人でいっぱいになっていた。
濡れた外套と、革と、薬草の匂い。
窓ガラスが、人いきれで白く曇っている。
そこを誰かが指でこすって、小さな丸い覗き窓を作っていた。
「マグダさん、これって」
ロッテが小声で言うと、マグダは笑って、大きな薬缶を火にかけた。
「雨の日は、いつもこうなるの。ロッテ、茶碗を全部出して」
「全部ですか」
「全部。足りなかったら、裏の鉢でもいいわ」
「鉢はだめですよ!」
*
茶が行き渡ると、店の中は、すっかり寄り合い所になった。
獣人の六人組は、床に車座になって、骨牌を始めた。
ホルガーは、ティモたちを相手に、ブルンの頃の武勇伝を語っている。
「あの頃の三階はな、そりゃあもう恐ろしい場所だった。何しろ、そこがいちばん下だったんだからな」
「三階って、俺たち、もう地図描き終わりましたけど」
「黙って聞かんか、坊主」
イルザはカウンターに頬杖をついて、マグダとギルドの愚痴をこぼしていた。
無口なエルフの魔術師は、窓際で本を読んでいる。
ミケが、その膝に乗るかどうか、少し迷ってから、やめた。
困りごとはないらしい。
ロッテは、ほっとした。
そのとき、フィネが店の奥の壁を指さした。
「ねえ、ロッテ。あの棚、なに? 前から気になってたんだけど」
カウンターの横の、壁に打ちつけた細長い棚。
そこには、ばらばらの品が、ひとつずつ札をつけて並んでいる。
「あれは、忘れ物の棚です」
ロッテは、少し得意になって言った。
この棚の帳面をつけるのは、ロッテの仕事なのだ。
「お店に忘れていったものとか、迷宮で拾ってギルドに届かなかったものとか。持ち主が来るまで、預かってるんです」
「へえ。見ていい?」
フィネが言うと、ティモもオルフもジルケも、それから獣人の六人組まで、ぞろぞろと棚の前に集まってきた。
雨の日の寄り合い所には、こういう話の種が必要なのだ。
棚には、いろいろなものがあった。
ひもの切れた、革の小銭入れ。
途中まで描かれた、二階の地図。
鍔に小さな花の彫りがある、短剣の鞘だけ。
そして、棚のいちばん端に、古い水筒がひとつ。
錫でできていて、ずいぶん凹んでいる。
胴に、かすれた字で名前が彫ってあった。
「ヴィ……ル、マ? 読めないや」
ティモが目を細めた。
「それ、いつからあるの?」
「わかりません。わたしが来たときには、もうありました」
ロッテが答えると、カウンターの奥から、マグダが言った。
「それは、ブルンの頃からよ」
店の中が、ちょっとだけ静かになった。
ホルガーが、丸椅子の上で背中を伸ばした。
水筒をじっと見て、それから、ふん、と鼻を鳴らした。
何か言いかけて、やめたように見えた。
*
棚の品の持ち主当てが始まったのは、骨牌に飽きた獣人の誰かが言い出したからだった。
「この小銭入れ、絶対あいつだ。三軒先の宿の、いつも金がないって言ってる奴」
「花の鞘は、きっと恋人からの贈り物よ。それで、中身だけ持って潜ったの」
「なんで中身だけ」
「ロマンでしょ」
フィネの推理は、だいたいロマンに寄っていた。
そのとき、扉の鈴が、ちりんと鳴った。
入ってきたのは、天井に角が届きそうな、大柄なドラゴニートの戦士だった。
鎧の上から外套を羽織り、雨でずぶ濡れになっている。
いかにも歴戦という顔つきで、店じゅうの視線が、自然とそちらに集まった。
戦士は、店の中の人の多さに一瞬たじろいでから、カウンターの前に来て、低い声で言った。
「……水筒を、忘れていかなかっただろうか。先月」
ロッテは帳面をめくった。
先月の水筒。
あった。
棚の真ん中に、青く塗った新しい水筒がある。
ロッテはそれを手に取って、札の字を確かめた。
胴には、刺繍の布が巻きつけてあった。
そこに、可愛らしい赤い糸で、こう縫いとってある。
――ちびすけへ。かあさんより。
ロッテは、戦士を見上げた。
天井に届きそうな、角。
「あの、これ、ですか」
「…………そうだ」
戦士は、雨のせいだけではなく、首まで赤くなっていた。
店の中に、誰かがこらえきれずに噴き出す音が響いた。
フィネだった。
それを合図に、獣人の六人組が床を叩いて笑い出し、ホルガーが茶を吹き、イルザが慌てて口を押さえた。
「笑うな!」
戦士が吠えた。
けれど、その声は、ちっとも怖くなかった。
「母が、十年前に縫ったんだ。外すと、なんだか、潜るのが怖くなる気がして」
戦士は、ぼそぼそと言った。
すると、ジルケが、ひとことだけ言った。
「わかる」
戦士は、驚いたようにジルケを見た。
同じドラゴニートの、まだ若い剣士を。
ジルケは、自分の長靴のひもを、指先でちょんと示した。
それだけで、何かが通じたらしかった。
戦士は水筒を大事そうに外套の内側にしまい、なぜかそのまま、店の隅に腰を下ろした。
ロッテが茶を出すと、戦士は小さく「すまん」と言った。
ミケが、その膝に、ひょいと乗った。
ちびすけさん、何か困ってるのかな。
ロッテは、そう思いかけて、首を振った。
たぶん、ただ、雨宿りがしたかったのだ。
*
雨が上がったのは、夕方近くだった。
雲の切れ間から、斜めの光が差しこんでくる。
濡れた石畳が、いっせいに金色に光った。
井戸の屋根の雨だれが、ひとつ、またひとつと間遠になっていく。
大通りの先、雲の中から、岩山がゆっくりと姿を現した。
その上に、薄い虹がかかっていた。
「おお」
店じゅうの人が、窓に押しかけた。
曇ったガラスを、何人もが袖でこすった。
「明日は潜れるな」
獣人の誰かが言った。
「明日は潜れる」
ティモが、うれしそうに繰り返した。
客たちは、一人、また一人と、外套を羽織って帰っていった。
ちびすけさんは、帰りぎわに、ジルケに向かって軽く拳を上げた。
ジルケも、ほんの少しだけ、拳を上げ返した。
最後に残ったのは、ホルガーだった。
ホルガーは、なかなか丸椅子から立たなかった。
忘れ物の棚の、いちばん端。
古い錫の水筒を、じっと見ていた。
「ホルガーさん?」
ロッテが声をかけると、ホルガーは、はっとしたように杖をついて立ち上がった。
「いや、なに。雨の日は、昔のことを思い出すもんだ」
それだけ言って、ホルガーは扉を開けた。
外から、濡れた石と、雨上がりの土の匂いが流れこんできた。
ロッテは、茶碗を洗いながら、帳面に今日の分を書きつけた。
茶、三十一杯。
水筒、ひとつ、持ち主へ。
それから、少し迷って、書き足した。
錫の水筒、まだ棚に。
足もとで、ミケが大きなあくびをした。
日々、2話投稿の2話目です。
コージー感、出すのが難しい。
この方向性で良いのかって・・・(笑)
ぜひ、感想もお願いします。




