第12話 見たことのない傷
七十階から戻って、三日。
ピムは、まだ地図が描けずにいた。
宿の部屋の机に方眼紙を広げ、羽根ペンをインク壺に浸す。
六十九階までは、すらすら描ける。
階段を下りて、七十階。
広い部屋だった。
それは覚えている。
天井がやけに高くて、壁がざらざらしていた。
それも覚えている。
けれど、その先がない。
気づいたら、床に倒れていた。
隣でエーリカが、青い瓶の封を歯で噛みちぎっていた。
覚えているのは、それだけだ。
「斥候が、見張ってた場所の地図を描けないなんてな」
ピムはペンを置いて、天井を仰いだ。
窓の外では、ブルンネンの朝が始まっている。
宿の前の通りを、荷車ががらがらと通りすぎる。
向かいのパン屋から、焼きたての匂いが二階まで上ってきた。
腹は減る。
こういうときでも、腹は減るのだ。
*
「店で会議をするわ」
エーリカがそう言い出したのは、その日の昼だった。
「会議? ギルドの部屋を借りればいいだろ」
「ギルドだと、聞き耳を立てる人が多すぎるの」
それに、とエーリカは付け加えた。
「文句の続きも、言い足りてないし」
というわけで、シュトルムの六人は、また井戸の広場を横切った。
昼の広場は、日差しが白くて、まぶしかった。
井戸のまわりでは、近所のおかみさんたちが洗濯物を絞りながら、何やら熱心にしゃべっている。
ピムたちが通りかかると、話し声がぴたりと止まり、それから、さっきの倍の勢いで再開した。
聞かなくてもわかる。
七十階の話だ。
マグダの店の扉を開けると、カウンターの女の子――ロッテが、ぱっと顔を上げた。
「い、いらっしゃいませ」
それから、店の奥のほうを、おろおろと振り返った。
そこには、すでに先客がいた。
入口脇の丸椅子に、例の小人族の爺さん、ホルガー。
カウンターの端に、ギルドの受付のイルザ。
棚の前に、新人の四人組。
そして、なぜか、ギルドで新人に呪文を教えている魔術師のベルントまでいた。
「……なんで、いるんだ」
ピムが言うと、狐耳の娘が、元気よく手を挙げた。
「シュトルムが会議するって、ギルドで聞いたので!」
「聞き耳を立てる人が多すぎるから、ここに来たのよね」
エーリカが、天井を仰いだ。
カウンターの奥で、マグダがくすくす笑っていた。
*
結局、会議はそのまま始まった。
追い返す気力が、誰にもなかったのだ。
ゲルトが、背中の盾を下ろして、カウンターの上に置いた。
前に継いだ、稲妻の形の銀色の線。
その横に、新しい傷があった。
細い溝が、三本。
まっすぐ平行に、盾の表を斜めに走っている。
「爪痕か」
ホルガーが、身を乗り出した。
「爪にしちゃ、浅い」
ゲルトが言った。
「受けたとき、重さがなかった。羽根で撫でられたみたいだった。それなのに、盾が鳴った」
店の中の全員が、盾をのぞきこんだ。
ピムも、のぞきこんだ。
三本の溝は、どれも同じ深さで、同じ幅だった。
こんな傷をつける魔物を、ピムは知らない。
六十八階まで潜ってきて、魔物の図鑑なら頭の中に一冊ぶん入っているのに。
「はい、はい! わたし、七十階の中ボスの噂、十五通り知ってます!」
狐耳の娘――フィネが、また手を挙げた。
「言ってみなさい」
エーリカが言った。
半分は、やけになっていた。
「一つ目、見えない大蛇! 二つ目、影に隠れる黒豹! 三つ目、実は中ボスなんかいなくて、七十階そのものが眠り薬の霧でできてる!」
「最後のは、ちょっと面白いな」
ホルガーが髭をなでた。
「四つ目、透明な巨人の――」
「フィネ」
ノームの青年が、穏やかに言った。
「十五通りは、たぶん時間が足りません」
フィネは、しゅんと耳を垂れた。
それから、ベルントが咳払いをした。
「爪痕の三本が平行ということは、少なくとも、指のある魔物ではないだろう。指なら、開き方に癖が出る」
「さすが先生」
イルザが言った。
ベルントは、少し得意そうに胸を張った。
それから、ちらりとマグダのほうを見て、なぜか胸を張るのをやめた。
この二人のあいだに何があったのか、ピムは知らない。
*
話は、なかなか進まなかった。
窓から差しこむ光が、カウンターの上をじわじわと移っていく。
棚の瓶が、赤や青の影を、盾の表に落としていた。
ピムは、その光の中で、ふと目を細めた。
溝の底が、かすかに光っている。
「……何か、入ってる」
ピムは、盾に顔を近づけた。
三本の溝の底に、ほんのわずか、灰色がかった粉のようなものが残っていた。
角度を変えると、光を受けて、銀色にちらちらと瞬く。
「粉、ですね」
いつの間にか、ロッテが隣に来ていた。
小さな体で背伸びをして、盾をのぞきこんでいる。
そして、首をかしげた。
「これ、裏庭に来る蛾の、羽の粉みたいです」
店の中が、しんとした。
「夏の夜に、ランプのそばに来る大きな蛾がいて。触ると、指にこういう粉がつくんです。銀色っぽくて、きらきらしてて」
ロッテは、そこまで言って、急に全員の視線に気づいたらしかった。
みるみる顔が赤くなっていく。
「あ、あの、わたしなんかが、すみません。蛾なんて、関係ないですよね」
「いや」
ピムは、ゆっくりと言った。
頭の中で、七十階の部屋が、少しずつ形を取り戻していく。
ざらざらした壁。
高い天井。
そして、気を失う直前。
松明の光の中に、空気がちらちらと光っていた気がする。
埃だと思っていた。
「壁が、ざらざらしてたんだ」
ピムは言った。
「灰色で、まだらで。……あの壁に、羽を広げて張りついてたら」
「見えないな」
ゲルトが、低く言った。
「羽ばたいて、粉を撒く。粉を吸えば眠る。傷に入れば毒が回る」
エーリカが、ひとつずつ確かめるように言った。
「姿が見えなかったのも、眠りと毒が同時に来たのも、それなら説明がつくわね」
「蛾なら!」
フィネが、勢いよく立ち上がった。
尻尾が、ぴんと逆立っている。
「蛾なら、灯りに寄ってくるよね!」
一瞬の沈黙のあと、店じゅうが、どっとわいた。
獣人の勘を馬鹿にしてはいけない、とピムは心の中で思った。
ホルガーが、膝を叩いて笑っていた。
イルザが、なぜか拍手をしていた。
ベルントは、腕を組んで、ううむとうなっていた。
*
その騒ぎのあいだに、マグダは何も言わず、カウンターの下から品物を出して並べていた。
目の細かい麻の口布が、六枚。
油を引いた、薄い紙の包み。
それから、ふだんは店の奥に吊るしてある、古いランタンを三つ。
ランタンの真鍮の枠が、窓の光を受けて鈍く光った。
エーリカは、並んだ品を順番に見て、それからマグダを見た。
「理由は、聞かないほうがいいのかしら」
「品物を出しただけよ」
マグダは、茶を淹れながら言った。
「口布は、水で濡らしてから使うの。乾いたままだと、細かい粉は抜けてしまうから」
エーリカは、ふっと笑った。
それから、ランタンのひとつを持ち上げて、ゆらゆらと揺らした。
「ピム。荷の計算、やり直しよ」
「了解」
ピムは、帳面を取り出した。
それから、方眼紙を一枚、カウンターの上に広げた。
七十階。
広い部屋。
高い天井。
ざらざらした、灰色の壁。
今なら、描ける気がした。
ピムは羽根ペンを走らせて、部屋の輪郭を描いた。
その壁ぎわに、小さな字で書きこむ。
――壁に注意。何かいる。
カウンターの向こうで、ロッテが、まだ赤い顔のまま、そわそわとこちらを見ていた。
ピムは、ペンの先で、その子を指した。
「おい、店の子」
「は、はいっ」
「お手柄だ」
ロッテは、目をまん丸にした。
それから、どうしていいかわからないというように、カウンターの後ろにしゃがみこんで隠れてしまった。
その足もとで、三毛の子猫が、満足そうに尻尾を揺らしていた。
*
店を出ると、空はもう茜色に染まりはじめていた。
井戸のまわりの洗濯物は取りこまれ、代わりに、迷宮から戻った冒険者たちが、泥のついた顔を洗っている。
ギルドの石段の脇では、夜番の職員が、篝火の薪を積み上げていた。
大通りの屋台に、ぽつりぽつりと灯りが入っていく。
その灯りに、小さな羽虫が、もう何匹か寄ってきていた。
ピムは、足を止めて、それを眺めた。
ちらちらと、光のまわりを回る、小さな影。
「なるほどな」
ピムは、つぶやいた。
隣を歩いていたゲルトが、髭の奥で、ふっと鼻から息をもらした。
「次は、殴られる前に見つけろよ、斥候」
「言われなくても」
ピムは、ランタンをひとつ、ゲルトの背中の荷に押しこんだ。
大通りの突き当たりで、夕日を背にした岩山が、黒く静まりかえっていた。
七十階は、まだ、その奥にある。
けれど、もう、白紙ではなかった。
2話投入、1話目です。




