第7話 小指の先ほどの魔石
一人で潜っていた二週間、ティモは一度も魔物を倒せなかった。
一階の魔物は弱い、とギルドの人は言う。
大きな鼠や、丸い粘液の塊や、ふらふら飛ぶ光る虫。
新人でも、落ち着いて剣を振れば倒せる相手だ。
けれど、一人で薄暗い通路に立っていると、落ち着くことなんてできなかった。
一階の通路は、どこまで行っても同じ灰色の石だった。
壁のランプは十歩ごとにあるけれど、そのあいだには、必ず暗がりが溜まっている。
自分の足音が壁に跳ね返って、後ろから誰かがついてくるように聞こえる。
天井から落ちた水滴の音にさえ、振り返った。
角の向こうで何かが動くたびに、心臓が跳ねた。
鼠と目が合った瞬間、体が勝手に回れ右をしていた。
そして、走った。
靴のおかげで、逃げ足だけは日に日に速くなった。
それが、ちょっと情けなかった。
*
四人で潜るようになって、三日目。
ティモたちは、初めて二階へ下りた。
二階は、一階より少しだけ天井が高く、少しだけ空気が湿っていた。
壁のところどころに、青白く光る苔が生えている。
ランプは、一階の半分ほどしかない。
その代わりに、苔の光が、通路の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
床の石は、ところどころ湿って黒ずみ、踏むとかすかに滑る。
どこか遠くで、水の流れるような音がしていた。
息を吸うと、濡れた石と、古い鉄のような匂いが鼻の奥に残った。
「右の通路、何かいる。たぶん鼠。二匹」
先を歩いていたフィネが、耳をぴんと立てて言った。
しゃべり続けているときと違って、こういうときのフィネの声は短い。
「わたしが左」
ジルケが、もう剣を抜いていた。
「じゃあ俺、右」
ティモも、ギルドの借り物の剣を抜いた。
手のひらに汗がにじむ。
後ろで、オルフが棍棒を構える気配がした。
「怪我をしたら、すぐに下がってくださいね。治しますから」
その声を聞いて、ティモは不思議と、足が地面に落ち着くのを感じた。
後ろに誰かがいる。
横に誰かがいる。
それだけで、こんなに違うのか。
角の向こうから、灰色の鼠が二匹、飛び出してきた。
犬ほどの大きさがある。
ジルケが左の一匹に踏みこみ、一太刀で斬り伏せた。
速い。
右の一匹が、ティモに向かって跳んだ。
ティモは、逃げなかった。
足を踏ん張って、剣を振り下ろした。
手応えは、思っていたよりずっと軽かった。
鼠は床に落ち、二、三度もがいて、それから、すうっと輪郭が薄れていった。
魔物は、魔素からできている。
倒されると、形を保っていられなくなって、溶けるように消える。
その話は、ギルドの講習で聞いていた。
消えたあとの床に、何か小さなものが落ちていた。
ティモはしゃがみこんで、それを拾い上げた。
小指の先ほどの、濁った赤い石だった。
光る苔の明かりにかざすと、石の奥で、ほんのかすかに何かが揺らめいた。
魔石だ。
「おお、出たね。ティモの初魔石」
フィネが覗きこんできた。
「ジルケのほうは?」
「出なかった」
ジルケは、少しだけ悔しそうに言った。
「浅い階の魔物は、落とすときと落とさないときがありますからね」
オルフが、指先で魔石の大きさを測るようにしながら言った。
「これくらいなら、ギルドの換金所で、麦粥一杯ぶんくらいでしょうか」
麦粥一杯。
ティモは、手のひらの上の石を見つめた。
小さい。
本当に小さい。
けれど、これは、自分が逃げずに剣を振った証拠だった。
「さっきの」
ジルケが、剣を鞘に納めながら言った。
「腰が引けてなかった。悪くない」
ティモは、思わずジルケの顔を見た。
ジルケはもう、そっぽを向いていた。
フィネが、ティモの脇腹を肘でつついて、にやにやしている。
帰り道、ティモは方眼紙を広げて、二階の通路を描きこんでいった。
一人のときは、地図を描く余裕なんてなかった。
曲がり角に来るたびに、フィネが「そこ、升目三つぶん」と教えてくれる。
オルフが、苔の光る壁に印をつける。
ジルケが、後ろを見張っている。
升目が一つ埋まるたびに、迷宮が少しだけ、自分たちの知っている場所になっていく気がした。
*
その日の夕方、四人はマグダの店に寄った。
ティモの初魔石の報告をするのだと、フィネが言い張ったのだ。
夕方の広場は、迷宮から戻った冒険者たちでにぎわっていた。
ギルドの換金所の前には列ができ、井戸のまわりでは、泥のついた手や顔を洗う人たちが、釣瓶の順番を譲り合っている。
屋台からは、焼いた腸詰めの匂いが流れてきた。
マグダの店の窓には、もう灯りがともっていた。
西日が棚の瓶を透かして、カウンターの上に、赤と青と緑の光を並べている。
「売らないの?」
カウンターの向こうで、ロッテが不思議そうに首をかしげた。
ティモは、手のひらに魔石を載せたまま、うなずいた。
「売りたくない。なんか、売ったら、なくなっちゃう気がして」
「なくなるのは、そりゃそうだろう。売るんだから」
丸椅子のホルガーが笑った。
ティモは、困ったように頭をかいた。
「村に送ろうかとも思ったんです。父ちゃんたちに。でも、こんな小さいの送っても、なんだこれって言われそうで」
「言われるでしょうね」
オルフが、穏やかにうなずいた。
「送料のほうが高いです」
「オルフ!」
フィネが笑った。
ジルケも、口の端を少しだけ上げていた。
「そういえば、パーティの名前はもう決めたのか」
ホルガーが聞いた。
とたんに、フィネの耳がぴんと立った。
「それが聞いてくださいよ、ホルガーさん。わたしは『銀狐団』がいいって言ってるのに、みんな反対するんです」
「おまえさんしか狐がおらんからだろう」
「じゃあ『四つの靴ひも』は?」
「長い」
ジルケが、短く言った。
「『麦粥』はどうでしょう」
オルフが言った。
三人が、そろってオルフを見た。
「おいしいですよ」
「そういう問題じゃない!」
フィネの声が、店じゅうに響いた。
ロッテが、カウンターの後ろで肩を震わせて笑っていた。
結局、名前はその日も決まらなかった。
マグダは、そのあいだに、何も言わずに奥へ引っこんでいた。
しばらくして戻ってきたとき、手には裁縫箱と、小さな布の切れ端を持っていた。
深い緑色の、厚手の布だった。
マグダは、カウンターの端に腰かけると、布を二つに折って、針を通しはじめた。
ちくちく、ちくちく。
ティモたちは、黙ってその手もとを見ていた。
針の動きは、迷いがなかった。
縫い目が、まるで定規で測ったように揃っていく。
ほんの少しのあいだに、親指ほどの小さな袋ができあがった。
口のところに、細い革ひもが通してある。
「入れてごらんなさい」
ティモは、魔石を袋に入れた。
ちょうど、ぴったりの大きさだった。
「ロッテ」
マグダが呼ぶと、ロッテは慌てて奥へ走り、小さな乾いた葉っぱを一枚、指でつまんで持ってきた。
銀色がかった、細長い葉だった。
ほのかに、すっとする香りがした。
「これ、裏の庭の薬草です。乾かしたの。あの、お守りっていうか、虫除けっていうか、その」
ロッテはもごもごと言いながら、葉っぱを袋の中に、魔石と一緒にそっと入れた。
「わたしなんかが乾かしたので、効くかわからないですけど」
「ありがとう」
ティモは言った。
ロッテは、真っ赤になってカウンターの後ろに隠れた。
マグダが、革ひもの端を結んで輪にした。
「首から下げておきなさい。いつか、もっと大きな魔石を手に入れたときに、これを見るといいわ」
「見ると、どうなるんですか」
「どうもならないわ」
マグダは、針を裁縫箱にしまった。
「ただ、最初の日のことを思い出すだけ」
ティモは、袋を首から下げた。
胸当ての上で、小さな袋が、かすかに揺れた。
袋のお代を聞くと、マグダは、
「麦粥一杯ぶん」
と言った。
ティモは、ちょっと考えてから、ポケットの硬貨を数えて、カウンターに置いた。
魔石を売っていれば、ちょうどそれくらいになるはずの額だった。
*
その夜、ティモは宿の寝台で、ぐっすりと眠った。
迷宮の中でどれだけ戦っても、それはまだ、体の中に「積もっている」だけなのだという。
迷宮の外で一晩眠って、初めて、それが自分の力になる。
ギルドの講習で、魔術師のベルント先生がそう言っていた。
翌朝、目を覚ましたとき、ティモは、なんだか体が軽いと思った。
寝台から起き上がると、腕が、いつもより少しだけ思いどおりに動く。
ギルドの建物は、広場に面して、灰色の石で建てられている。
正面の石段を上がって、重い樫の扉を押すと、天井の高い広間に出る。
朝の広間は、潜る前の冒険者たちの声で、いつも少しうるさい。
受付の並びのいちばん奥に、鑑定所の小さな窓口があった。
そこで調べてもらうと、係の人が、帳面に何か書きこんで言った。
「レベル二。おめでとう」
たった一つ。
たった一つだけれど、ティモは、ギルドの石段を駆け下りながら、思わず胸の袋を握りしめていた。
今夜、村に手紙を書こう、と思った。
魔石は送らない。
送るのは、手紙だけだ。
剣は、まだ買っていない。
代わりに、いい靴を買った。
入口で一度弾かれたけれど、二回目の朝に通れた。
仲間が三人できた。
狐の斥候と、ノームの癒し手と、ドラゴニートの剣士。
初めて魔物を倒して、麦粥一杯ぶんの魔石を拾った。
それは売らずに、首から下げている。
父ちゃんは、きっと「なんだそりゃ」と笑うだろう。
兄ちゃんたちは、剣はまだかとからかうだろう。
それでいい、とティモは思った。
広場の井戸のそばで、フィネが手を振っている。
オルフも、ジルケもいる。
ティモは、走った。
逃げるためではなく、仲間のところへ。
新しい靴は、もうすっかり、ティモの足になっていた。
本日、2話目。
いろんな風味の話を書きたいと思っています。
コージーファンタジー、まずは自分の好みで
書きますが、皆さんのリクエストもお待ちしています。




