第5話 唱えない鑑定
ベルントは、自分の目に自信があった。
魔術師になって二十年。
アルカナの第六階梯まで修め、パーティでは五十階台まで潜っている。
ギルドに頼まれて、週に二度、新人たちに呪文の基礎を教えてもいる。
なかでも得意なのが、真贋の瞳だった。
第四階梯の、品物を簡易に鑑定する呪文だ。
深い階層で出たドロップ品は、正体がわからないまま持ち帰られることが多い。
ギルドの鑑定所に回せば確実だが、順番待ちで十日はかかる。
だから、パーティの中に真贋の瞳を使える者がいるかどうかで、稼ぎが変わる。
ベルントは、ブルンネンでも五本の指に入る使い手だと言われていた。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
その日、ベルントは宿の部屋で、小さな銀の鈴を前に、首をひねっていた。
五十二階の宝箱から出たものだ。
親指の先ほどの大きさで、表面に細かな唐草の彫りがある。
振っても、鳴らない。
中に玉が入っているのは、透かして見ればわかる。
なのに、どう振っても、音がしないのだ。
ベルントは息を整え、真贋の瞳を唱えた。
呪文の最後の一語を結ぶと、目の奥がじんと熱くなり、鈴の上に、ぼんやりとした文字の像が浮かぶ。
ふつうなら、そこに品の名と、おおよその効き目が読み取れる。
ところが、像はぼやけたままだった。
水の底の字を読むように、輪郭が揺れて、形を結ばない。
読み取れたのは、ひとつだけ。
――帰。
それきり、像は消えた。
ベルントは額の汗をぬぐった。
第四階梯の使用回数を、ひとつ無駄にした。
もう一度唱えるか。
いや、同じことだろう。
こういうことは、ごくたまにある。
品のほうが、術者より格が上なのだ。
ギルドの鑑定所に回すしかないか、と思いかけて、ふと、宿の主人の言葉を思い出した。
――わからない品なら、マグダの店に持っていくといい。
新人向けの店だ。
ポーションと方眼紙と、安い靴を売っている。
ベルントが新人の頃にも、もうあった。
鑑定もしている、とは聞いていた。
けれど、自分の真贋の瞳でわからないものが、あんな小さな店でわかるとは思えなかった。
それでも、十日待つよりはいい。
ベルントは鈴を布に包み、宿を出た。
*
店には、先客がいた。
入口脇の丸椅子に、小人族の老人が座っている。
カウンターの向こうには、十歳くらいの女の子。
その足もとに、三毛の子猫。
「いらっしゃいませ」
女の子が、少し緊張した声で言った。
「鑑定を頼みたい。店主は」
「はい。マグダさーん」
奥から出てきたのは、銀髪のエルフだった。
ベルントは、少しだけ姿勢を正した。
この女主人のことは、もちろん知っている。
知っているが、まともに話したことはなかった。
年齢のわからない顔だ。
エルフはたいていそうだが、ベルントが新人の頃から、この顔は少しも変わっていない気がする。
二十年前。
まだブルンが今ほど大きくなかった頃、ベルントは一度だけ、この店で買い物をしたことがある。
魔術師になったばかりで、立派な杖が欲しくてたまらなかった。
けれど、あのとき、このエルフは杖を売ってくれなかった。
代わりに渡されたのは、厚手の外套だった。
「詠唱は、寒いと舌が回らなくなるのよ」
そう言われて、ずいぶん腹を立てたのを覚えている。
その外套は、結局、五年着た。
深い階の冷えこむ通路で、仲間の誰より早く呪文を結べたのは、たぶんあの外套のおかげだった。
そのことを、ベルントは誰にも話したことがない。
自分の腕だと思っていたかったからだ。
女主人は、ベルントのことなど覚えていないだろう。
二十年のあいだに、この店の扉をくぐった新人は、数えきれないほどいるはずだ。
「ちょうどお茶を淹れたところなの。どうぞ」
マグダはカウンターに茶碗を並べはじめた。
ベルントは、勧められるまま腰を下ろし、布をほどいて鈴を置いた。
「五十二階の宝箱から出た。真贋の瞳を使ったが、像が結ばなかった。読めたのは、帰、という字だけだ」
「そう」
マグダは、急須を傾けながら、鈴のほうに目をやった。
ほんの一瞬だった。
茶が、白い茶碗の中に、とくとくと注がれていく。
その音が止むより先に、マグダは言った。
「帰り鈴ね」
「……は?」
「迷宮の中で、帰り道のほうを向いたときにだけ鳴る鈴。持ち主が道に迷っているときだけ。迷っていないときや、迷宮の外では、どんなに振っても鳴らないわ」
マグダは茶碗をベルントの前に置いた。
「いいものを拾ったわね。深い階では、ときどき出るの。でも、ちゃんと鳴るものは、なかなかないのよ」
ベルントは、茶碗に手を伸ばしかけて、止まった。
いま、何が起きた。
唱えていない。
唇も、動いていなかった。
指先で印を結ぶこともなく、目の色が変わることもなく。
ただ茶を注ぎながら、ちらりと見ただけだ。
それで、ベルントの真贋の瞳でも読めなかった像を、読んだ。
いや、それ以上だ。
鳴る条件まで言い当てた。
簡易鑑定では、そこまではわからない。
ベルントは、自分の手が冷たくなっていくのを感じた。
「今」
声がかすれた。
咳払いをして、言い直す。
「今、唱えましたか」
マグダは、自分の茶碗に口をつけていた。
「何を?」
「真贋の瞳を。あるいは、それに類する何かを」
「いいえ」
マグダは、あっさりと首を振った。
「長く店をやってると、目が慣れるのよ。たくさん見てきたから」
ベルントは、何も言えなかった。
目が慣れる。
そんなことで、第四階梯の呪文を越えられるはずがない。
では、唱えずに使ったのか。
無詠唱で第四階梯を。
それも、茶を注ぐ片手間に。
そんなことができる術者を、ベルントは知らない。
ギルドの講習で、新人たちに何度も言ってきた。
呪文は、唱えて、結んで、初めて形になる。
唱えずに形にできるのは、伝説の中の大魔導師くらいのものだ、と。
「おーい、どうした、魔術師さん。茶が冷めるぞ」
小人族の老人が、のんきな声で言った。
「マグダの鑑定は早いだろう。ブルンの頃から、ずっとこうさ。この人は目がいいんだ」
女の子も、こくこくとうなずいている。
「マグダさん、いつもお茶を淹れながら見てくれるんです。だから、お客さん、みんな驚くんですよ。早すぎて」
二人とも、何がおかしいのか、少しもわかっていない顔だった。
ベルントは、ゆっくりと茶碗を持ち上げた。
茶は、ほどよく温かかった。
「……お代は」
「鑑定は、お茶と同じ値段よ」
「それは、つまり」
「ただ、ってことだ」
老人が笑った。
「その代わり、その鈴がちゃんと鳴ったら、また茶を飲みに来いってことさ」
ベルントは茶を飲みほし、鈴を布に包み直して立ち上がった。
扉に手をかけたところで、背中に声がかかった。
「そういえば、あの外套、まだ持ってる?」
ベルントは振り返った。
マグダは、空になった茶碗を盆に集めているところだった。
こちらを見てもいない。
「……五年着て、擦り切れた。今は、弟子にやった」
「そう。よかったわ」
それだけだった。
ベルントは、何か言おうとして、結局、黙って頭を下げた。
外に出ると、広場を渡る風が、ひどく冷たく感じられた。
*
翌日。
ベルントは一人で迷宮の一階に入り、わざと地図を見ずに、知らない角をいくつか曲がった。
三つ目の角を曲がったところで、ポケットの中で、ちりん、と小さな音がした。
鈴を取り出して、体の向きを変える。
入口のほうを向いたときだけ、鈴は澄んだ音で鳴った。
ちりん。
ちりん。
ベルントは、薄暗い通路に立ったまま、しばらく動けなかった。
*
その日の夕方、ベルントはギルドの講習室で、新人たちに真贋の瞳の唱え方を教えていた。
「いいか。呪文は、唱えて、結んで、初めて形になる」
いつもと同じ言葉を口にしながら、ベルントは窓の外に目をやった。
ギルドの隣の、小さな店。
釣瓶の絵の看板。
「先生?」
最前列に座っていた、真新しい靴の少年が、不思議そうにこちらを見ていた。
「……なんでもない。続けるぞ」
帰り道、ベルントは店の前で足を止め、看板を見上げた。
アイマー。
釣瓶。
井戸の街で、必要なものを汲み上げる店。
窓の向こうで、銀髪のエルフが、女の子と並んで帳面をのぞきこんでいた。
三毛の子猫が、カウンターの上で大きなあくびをしている。
どこにでもある、小さな店の夕暮れだった。
「何者なんだ、あの人は」
誰にともなくつぶやいて、ベルントは歩き出した。
ポケットの中の鈴は、迷宮の外では、もう鳴らなかった。
初回投稿、5話目です。
次回から、一日一話か二話のペースで投稿します。
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