第3話 ミケが選ぶ膝
ミケには、好きな膝と、そうでない膝がある。
ロッテがそれに気づいたのは、店に来て三ヶ月ほどたった頃だった。
ミケは、たいていの客には見向きもしない。
棚の上で丸くなっているか、窓辺で日なたぼっこをしているか、カウンターの下の籠で眠っているか。
どんなに猫好きの冒険者が「おいでおいで」と手招きしても、尻尾の先をちょっと動かすだけだ。
ところが、ごくたまに、ミケが自分から客の膝に乗ることがある。
音もなく近づいて、ひょいと飛び乗り、くるりと回って、そのまま丸くなる。
そういう客は、なぜかたいてい、何か困りごとを抱えていた。
傷薬を買いに来たはずなのに、仲間と喧嘩をしていた若い戦士。
地図を買いに来たはずなのに、故郷の母親が病気だという手紙を握っていた魔法使い。
ミケが膝に乗ると、マグダは決まって、その客に茶を出す。
頼まれてもいないのに。
そして、客はぽつりぽつりと、本当の用件を話しはじめるのだ。
ロッテは一度、マグダに聞いたことがある。
「ミケって、わかるんでしょうか」
マグダは少し考えてから、言った。
「わかっているのは、ミケじゃなくて、膝のほうかもしれないわね」
ロッテには、やっぱりよくわからなかった。
*
その日の午後は、ひどく暇だった。
朝のうちに、新人たちがそれぞれの装備を買いそろえて迷宮へ出ていき、昼過ぎの店には誰もいなかった。
ティモも、今朝は靴ひもを結び直して、元気に入口のほうへ走っていった。
二回目の朝から、もう五日になる。
マグダは裏の作業場で、ポーションを煮詰めている。
甘いような苦いような匂いが、店の中まで漂ってくる。
ロッテはカウンターで帳面をつけていた。
傷薬が六本、気付けが三本、方眼紙が四束。
数字を書きこむのは好きだ。
書いたとおりに、ちゃんと合うから。
扉の鈴が、ちりんと鳴った。
入ってきたのは、ずんぐりとした体つきのドワーフだった。
栗色の髭を、胸のあたりで太い一本にまとめている。
肩幅が、扉の幅とほとんど同じだった。
旅装でも鎧姿でもない、ごくふつうの麻のシャツを着ている。
けれど、その腕の太さと、手の甲に残った古い傷あとで、ロッテにも冒険者だとわかった。
「いらっしゃいませ」
ドワーフは軽く会釈しただけで、何も言わなかった。
棚の前をゆっくりと歩き、ポーションの瓶を一本手に取っては、また戻す。
ロープの束を持ち上げては、戻す。
何かを探しているようには見えなかった。
しばらくすると、ドワーフは入口脇の丸椅子に腰を下ろした。
ホルガーがいつも座っている椅子だ。
そして、そのまま黙って、自分の膝の上の手を見つめていた。
ロッテは、どうしたらいいのかわからなかった。
「何かお探しですか」と聞くべきだろうか。
でも、なんとなく、聞いてはいけない気がした。
そのときだった。
窓辺で寝ていたミケが、ぱちりと目を開けた。
伸びをひとつして、床に降りる。
とと、と小さな足音を立てて、まっすぐドワーフのほうへ歩いていく。
ロッテは息を止めた。
ミケは、ドワーフの足もとで一度だけ立ち止まり、見上げた。
それから、ひょいとその膝に飛び乗った。
くるりと一回転して、丸くなる。
ドワーフの太い指が、宙で止まった。
「……おい」
低い、かすれた声だった。
ミケは気にせず、もう目を閉じている。
ドワーフは困ったように眉を寄せ、それから、そろそろと、壊れものに触るような手つきで、ミケの背中をなでた。
ロッテは、カウンターの奥の作業場を振り返った。
マグダは鍋の前にいて、こちらには気づいていない。
呼びに行こうか。
でも、そのあいだに、このお客さんは帰ってしまうかもしれない。
ロッテは、胸の前で両手をぎゅっと握った。
わたしなんか。
いつもの言葉が、頭の中に浮かぶ。
わたしなんかが、話を聞いたって。
けれど、ミケは、膝に乗ったのだ。
ロッテは台所に入り、湯を沸かし直して、マグダがいつもするように茶を淹れた。
手が少し震えて、茶碗の縁に雫がこぼれた。
布巾でふいて、盆に載せて、ドワーフの前に運ぶ。
「あの、どうぞ」
ドワーフは顔を上げ、驚いたようにロッテを見た。
「頼んじゃいないが」
「はい。あの、うちでは、ミケが膝に乗ったお客さんには、お茶を出すことになってて」
言ってから、ロッテは顔が熱くなった。
そんな決まりはない。
マグダが勝手にそうしているだけだ。
ドワーフはしばらくロッテの顔を見ていたが、やがて、ふっと鼻から息をもらした。
笑ったのだと、ロッテは少し遅れて気がついた。
「そうか。じゃあ、いただこう」
ドワーフは茶碗を受け取り、一口すすった。
ミケが、膝の上で喉を鳴らしはじめた。
*
「ゲルトだ」
茶を半分ほど飲んだところで、ドワーフは名乗った。
「盾を持ってる。……持ってた、と言うべきか」
「盾、ですか」
「ああ」
ゲルトは、膝の上のミケから目を離さずに言った。
「二十年、使ってきた盾がある。親父が打ったものだ。こないだ、それにひびが入った」
ロッテは、ゲルトの手の甲の傷を見た。
「直せないんですか」
「街の鍛冶屋に持っていった。どこも、継ぐより新しく打ったほうが早いと言う。それは、そうなんだろう」
ゲルトは茶碗を置いた。
「だが、あの盾じゃなきゃ、だめな気がする。おかしな話だ。盾は盾だ。新しいほうが、硬いに決まってる」
ゲルトは、自分の左腕をさすった。
盾を構える側の腕だ。
「ひびが入ったときな、何に殴られたのか、わからなかったんだ」
「わからなかった?」
「見えなかった。気づいたら、腕がしびれて、盾が鳴ってた。二十年、前に立ってきて、そんなことは初めてだ」
ゲルトは、そこで言葉を切った。
茶碗の中の茶を、じっと見つめている。
「仲間には言ってない。リーダーは、もうすぐ次の壁に挑むつもりでいる。その前に、盾役が、怖いなんて言えるか」
ロッテは、小さく息をのんだ。
怖い。
こんなに大きくて、こんなに強そうな人が。
ゲルトは、はっとしたように顔を上げた。
「……なんで、こんな話をしてるんだろうな。こんな小さい子に」
「わたしなんか、あの、聞くことしかできないので」
ロッテが慌てて言うと、ゲルトは首を振った。
「いや。聞いてもらうのが、要ったんだろう」
膝の上で、ミケが寝返りを打った。
ゲルトの太い指が、またゆっくりと、その背中をなでた。
ロッテは、何と言えばいいのかわからなかった。
けれど、ひとつだけ、思い浮かんだことがあった。
値札のない棚。
必要な人が来たら、わかる。
「あの、少しだけ待っていてもらえますか」
ロッテは作業場に駆けこんで、マグダの袖を引いた。
小声で事情を話すと、マグダは鍋の火を落とし、手をふいて店に出てきた。
ゲルトを見て、膝の上のミケを見て、それからロッテを見た。
その目が、ほんの少しだけ細くなった。
笑ったのだと、ロッテにはわかった。
「その盾、いま持ってるかしら」
「宿にある」
「明日、持ってきて。知り合いに、継ぐのが上手な職人がいるの。新しいのより硬くはならないけれど、あなたの盾のままでは返せるわ」
ゲルトは、しばらく黙ってマグダを見ていた。
それから、膝の上のミケを、そっと両手で抱き上げて床に降ろした。
ミケは不満そうに一声鳴いた。
「頼む」
ゲルトは立ち上がり、マグダに、それからロッテに、深く頭を下げた。
扉の前で振り返る。
「明日、仲間を連れてくる。どうせ、あいつらの買い物もあるからな」
「お仲間さんも、冒険者なんですか」
ロッテが聞くと、ゲルトはまた、鼻から息をもらした。
「まあな。六十八階まで、一緒に潜ってる」
鈴が鳴って、扉が閉まった。
ロッテは、その場に立ちつくした。
六十八階。
それは、この迷宮で、いま誰かがたどり着いているいちばん深いところだ。
「マグダさん、今の人」
「お茶、上手に淹れられたわね」
マグダはそれだけ言うと、ゲルトの使った茶碗を盆に載せて、台所へ戻っていった。
ロッテは、自分の手のひらを見た。
まだ少し、震えていた。
帳面の続きをつけようとして、羽根ペンを持ち直す。
傷薬が六本、気付けが三本、方眼紙が四束。
その下に、何と書けばいいのかわからなくて、ロッテはしばらく迷った。
それから、小さな字で書き足した。
お茶、一杯。
足もとで、ミケがロッテを見上げて、にゃあと鳴いた。
まるで、ほらね、と言っているみたいだった。
3話目です。
初回投稿は、あと2話つづきます。




