第1話 いちばん強い剣をください
ブルンネンの朝は、釣瓶の音で始まる。
空が白みきらないうちに、街の真ん中の井戸で、誰かが最初の水を汲み上げる。
からから、と滑車が鳴る。
その音を合図に、ロッテは目を開けた。
屋根裏の小さな窓から、薄い光が差しこんでいる。
足もとの毛布の上では、三毛の子猫が丸くなっていた。
「ミケ、朝だよ」
声をかけても、ミケは片耳を動かしただけだった。
ロッテは子猫を起こさないように寝台を抜け出し、顔を洗って、髪をひとつに結んだ。
階段を下りると、もう湯の沸く匂いがしていた。
「おはよう、ロッテ」
店の奥の小さな台所で、マグダが火の具合を見ていた。
銀色の長い髪を、ゆるく後ろでまとめている。
尖った耳の先が、窯の火を受けて少しだけ赤い。
顔立ちは若いのに、目だけがひどく古い。
ロッテはいつもそう思うけれど、口に出したことはない。
この店に来て、もうすぐ一年になる。
それより前のことを、ロッテは何も覚えていない。
「おはようございます、マグダさん」
「今日は風がないわ。埃払い、外でしても大丈夫よ」
「はい」
ロッテは羽根ばたきと布巾を持って、店のほうへ出た。
*
店は、そんなに広くない。
入って右の壁には、ポーションの瓶が色ごとに並んでいる。
赤いのは傷薬、青いのは気付け、緑に濁ったのは毒消し。
左の壁には、ロープ、松明、方眼紙、水筒、乾パンの缶。
奥のカウンターの後ろには、鑑定に使う拡大鏡と天秤と、分厚い帳面。
それから、値札のない棚がある。
ロッテは、この棚の埃を払うのがいちばん好きだった。
何に使うのかわからない道具が、きちんと並んでいるからだ。
真鍮の輪を三つ組み合わせたもの。
水を入れても重さの変わらない瓶。
片方だけの、やけに上等な手袋。
一度だけ、「これは何ですか」と聞いたことがある。
マグダは「必要な人が来たら、わかるわ」と言った。
それきり、ロッテは聞いていない。
羽根ばたきで棚をなでていると、足もとに柔らかいものがぶつかった。
ミケだった。
起きたらしい。
「ごはんでしょ。待ってて」
ミケは返事の代わりに、ロッテのくるぶしに頭をこすりつけた。
小皿に昨日の魚の残りをほぐして入れてやり、そのあいだにロッテは表の扉を開けた。
ひんやりとした空気が流れこんでくる。
店の前は、石畳の広場だ。
真ん中に、古い井戸。
井戸のまわりには、もう水汲みの人が三人ほど並んでいた。
広場の右手には、冒険者ギルドの大きな建物がある。
店はその隣に、少し遠慮したように建っている。
広場から北へまっすぐ延びる大通りの、その突き当たり。
朝もやの向こうに、迷宮ブルンの入口が黒く口を開けている。
全部で百の階層があるという。
まだ誰も、いちばん下まで行ったことはない。
ロッテは軒先の看板を見上げた。
木の板に、釣瓶の絵と、「アイマー」という文字。
これがこの店の本当の名前だ。
けれど、街でそう呼ぶ人はほとんどいない。
みんな、ここを「マグダの店」と呼ぶ。
看板を布巾でふいていると、広場の向こうから小柄な影がやって来た。
「よう、ロッテ。今日も早いな」
小人族のホルガーだった。
白い髭を三つ編みにして、杖をついている。
この街がまだブルンと呼ばれていた頃からの常連で、毎朝、開店前にやって来ては茶を一杯飲んでいく。
「おはようございます、ホルガーさん。まだ開いてないですよ」
「知っとる知っとる。わしは客じゃないからな」
ホルガーは勝手知ったる様子で店に入り、カウンター脇の丸椅子に腰を下ろした。
マグダが黙って茶を出す。
いつもの朝だった。
*
鐘が六つ鳴って、店が開いた。
その途端、扉がばんと大きな音を立てた。
「いちばん強い剣をください!」
飛びこんできたのは、ロッテより少し年上の少年だった。
十五、六歳だろうか。
日に焼けた頬に、短く刈った茶色の髪。
真新しい革の胸当てを着けているけれど、紐の結び方がおかしい。
手には、重そうな布の袋を握りしめていた。
ホルガーが茶を吹きそうになった。
マグダは、少しも驚いた様子がない。
「いらっしゃい」
「あの、俺、ティモっていいます。昨日、ギルドで登録してきました。今日から迷宮に潜ります。だから剣を。いちばん強いやつを」
ティモと名乗った少年は一息にそう言って、布袋をカウンターに置いた。
じゃら、と硬貨の音がした。
「父ちゃんと兄ちゃんたちが持たせてくれたんです。これで、いい剣を買えって」
マグダは袋に目を落とし、それからティモの顔を見た。
少しのあいだ、何も言わなかった。
ロッテは知っている。
これは、マグダが客の顔を読んでいるときの間だ。
「剣なら、あそこにあるわ」
マグダが指したのは、店の奥の壁だった。
剣が三本だけ掛かっている。
ティモの目が、いちばん右の一本に吸い寄せられた。
鞘に銀の細工が入った、見るからに立派な長剣だ。
「あれ! あれください!」
「持ってごらんなさい」
ティモは壁から剣を下ろし、両手で構えた。
切っ先が、ふらふらと揺れた。
「……ちょっと、重い、ですけど。慣れます」
「そう」
マグダはうなずいて、言った。
「じゃあ、戻して」
「え」
「棚に戻して。それから、こっちに来て座って」
ティモはぽかんとした顔のまま、言われたとおりに剣を壁に戻した。
マグダは丸椅子をひとつ引き寄せてティモを座らせ、カウンターの下から一足の靴を取り出した。
焦げ茶色の、くるぶしまでの革靴だった。
飾りは何もない。
靴底が厚く、縫い目が細かい。
「履いてみて」
「靴? いや、俺は剣を」
「履いてみて」
同じ言葉を同じ調子で言われて、ティモは渋々、自分の靴を脱いだ。
村から歩いてきたのだろう、その靴は底がすり減って、つま先に穴があいていた。
新しい靴に足を入れたティモが、「あ」と声をもらした。
「どう?」
「……ぴったり、です」
「立って、歩いてみて」
ティモは店の中を一往復した。
床板を踏む音が、さっきまでと違う。
「迷宮でいちばん長く使うのは、足よ」
マグダは言った。
「剣を振るのは、一日に何回? 十回? 二十回? 歩くのは何千歩。走って逃げるのも足。仲間を担いで帰ってくるのも足」
ティモは自分の足もとを見下ろした。
「最初の一月は、剣より靴。剣は、その靴が擦り切れる頃にまた見に来なさい。そのときは、ちゃんとあなたの腕に合うのを選んであげる」
「でも、強い剣がないと、魔物に」
「浅い階の魔物なら、ギルドで貸してくれる剣で足りるわ。足りないのは、逃げ足のほう」
カウンターの横で、ホルガーがくっくっと笑っている。
ティモは顔を赤くして、しばらく黙っていた。
それから、小さな声で聞いた。
「……いくらですか」
この靴には、値札がついていない。
ロッテは帳面を開きながら、どきどきしてマグダの顔を見た。
マグダは布袋の口を開けて中身をちらりと見ると、三分の一ほどの硬貨を数えて取り、残りを袋ごとティモに返した。
「これで」
「え、それだけ?」
ロッテも同じことを思った。
あの靴の革なら、ふつうは倍はするはずだ。
「残りは、宿代と食べ物に使いなさい。それから、水筒をひとつと、方眼紙を一束。……ロッテ、持ってきてあげて」
「はいっ」
ロッテが棚から水筒と方眼紙を取ってきて前に置くと、ティモは、それとマグダの顔とを何度も見比べた。
「なんで、こんな」
「なんででしょうね」
マグダは笑っただけだった。
*
ティモは新しい靴を履いたまま、古い靴を手に提げて出ていった。
扉の前で一度振り返り、ぺこりと頭を下げる。
その顔は、まだどこか不満そうだった。
剣のことを、あきらめきれていないのだろう。
扉が閉まると、ホルガーがようやく声を立てて笑った。
「いやあ、いい坊主だ。あいつ、明日も来るぞ」
「どうしてわかるんですか」
ロッテが聞くと、ホルガーは髭をなでた。
「ブルンの頃から、ああいうのを何十人も見てきたからな。最初の日に剣を欲しがる奴は、たいてい次の日、泣きそうな顔で戻ってくる」
「泣きそうな顔で?」
「入口で弾かれるのさ」
ロッテは、ティモの出ていった扉を見つめた。
迷宮の入口は、初めて挑む人を、三人に一人か四人に一人くらいの割合で押し返す。
ロッテもそれは知っている。
理由は、誰にもわからない。
「マグダさん、あの人、大丈夫でしょうか」
マグダは、ティモが座っていた丸椅子を元の場所に戻していた。
「大丈夫よ」
それから、手を止めずに言った。
「靴が、ちゃんと合ってたもの」
ロッテには、それがどういう意味なのか、よくわからなかった。
足もとで、ミケがにゃあと短く鳴いた。
連日、投稿予定です。
まずは5話までの予定。
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