第18話 灯りの線
二日目の朝、ロッテは、いつもより早く目が覚めた。
屋根裏の窓を開けると、広場の井戸のまわりには、もう人がいた。
水を汲むわけでもなく、洗濯をするわけでもなく。
ただ、大通りの先の岩山を、ちらちらと見ている。
その中に、ティモとジルケの姿があった。
昨日、パーティの名前が決まったばかりの二人だ。
モルゲン。
朝。
二人とも、その名前のとおり、朝いちばんにやって来たらしかった。
「ミケ。今日、帰ってくるんだよ」
毛布の上の三毛猫は、返事をしなかった。
けれど、いつもなら丸まったまま動かないのに、今朝はもう、窓枠の上に座って、岩山のほうを向いていた。
*
店の中は、いつもどおりだった。
マグダは、いつもどおりに湯を沸かした。
いつもどおりに、薬草を刻んだ。
いつもどおりに、棚の瓶を並べ直した。
あまりにも、いつもどおりすぎて、ロッテは、かえって落ち着かなかった。
「マグダさん。シュトルムの人たち、何時ごろ戻ってきますか」
「さあ。油が半分になったら、かしらね」
マグダは、それだけ言って、刻んだ薬草を鍋に入れた。
ロッテは、カウンターの帳面を開いた。
あのランタンの油は、おとといの夜、エーリカが満タンにしたと言っていた。
あの油壺なら、満タンで、まる一日と少しは燃える。
七十階の階段からつけたとして、半分になるのは――。
ロッテは、指を折って数えかけて、やめた。
迷宮の中で、何が起きているかなんて、わからない。
数えたところで、何も変わらない。
それでも、鐘が鳴るたびに、つい、数えてしまった。
*
昼前には、店はいつもの倍の人でいっぱいになった。
ホルガーは、茶を三杯おかわりした。
イルザは、昼休みでもないのに、ギルドから二度も顔を出した。
「まだ、ですよね」
「まだよ」
マグダが答えると、イルザは、うなずいて、また戻っていった。
路地の奥からは、グレタの槌の音が聞こえていた。
かん、かん、かん。
いつもより、少し速い。
「グレタのやつ、手斧一本に、えらく熱が入っとる」
ホルガーが、窓の外を見て言った。
「落ち着かんのは、みんな同じだ」
壁の祈願の紙には、昨日のうちに、また名前が増えていた。
いちばん新しいのは、カスパーたちアイマーの四人の名前だった。
その下に、ちびすけさんの、大きくてぎこちない字。
ロッテは、それを見るたびに、胸のあたりがきゅっとなった。
昼過ぎ、ロッテは、茶を二つお盆に載せて、井戸の広場に出た。
ティモとジルケは、朝からずっと、井戸の縁石に並んで座っていた。
フィネとオルフは、交代で宿に戻って、また戻ってくる。
二人だけは、一度も動いていなかった。
「お茶です。マグダさんが、持っていきなさいって」
「ありがとう」
ティモは、湯気の立つ茶碗を受け取って、岩山のほうを見たまま、ひと口すすった。
ジルケは、黙って受け取った。
それから、ぽつりと言った。
「待つのは、潜るより疲れる」
ロッテは、思わずうなずいた。
ティモたちが日帰りの予定を過ぎても戻らなかった、あの夜のことを思い出した。
窓辺のランプ。
眠れなかった、長い夜。
「わたしも、そう思います」
ロッテが言うと、ジルケは、ちらりとロッテを見た。
そして、ほんの少しだけ、口の端を上げた。
ティモが、空になった茶碗を返しながら言った。
「戻ってきたら、いちばんに、おかえりって言うんだ」
「わたしも、言います」
ロッテは、お盆を抱えて、店に戻った。
*
午後の鐘が三つ鳴って、四つ鳴った。
日差しが傾いて、窓の影がカウンターの上を斜めに渡っていく。
マグダは、大きな鍋で、何かを煮はじめた。
麦と、根菜と、干し肉と、香草。
湯気が、店じゅうにやさしい匂いを広げていく。
「マグダさん、それ」
「夕ごはんよ。たくさん作っておくわ」
「たくさん、ですか」
「ええ。六人分、多めにね」
ロッテは、マグダの顔を見た。
マグダは、いつもどおり、鍋をかき混ぜていた。
そのとき、窓辺のミケが、すっと立ち上がった。
耳を、ぴんと前に向ける。
それから、ひと声も鳴かずに、扉のほうへ歩いていって、その前にちょこんと座った。
広場の向こうで、誰かが叫んだ。
「出てきたぞ!」
*
ロッテは、店を飛び出した。
大通りを、人が北へ走っていく。
ロッテも走った。
人垣のあいだから、背伸びをして、入口のほうを見た。
夕日に赤く染まった岩山の、暗い口から。
一人、また一人と、人影が出てきた。
ピム。
ゲルト。
名前を知らない三人。
最後に、エーリカ。
六人。
ちゃんと、六人いた。
みんな、泥と、灰色の粉にまみれていた。
ゲルトの盾には、新しい傷がいくつも増えていた。
けれど、六人とも、自分の足で歩いていた。
人垣から、どっと声が上がった。
それから、その声が、少しずつ、迷うように小さくなった。
誰も、聞けなかったのだ。
越えたのか、と。
エーリカは、人垣を見回した。
それから、まっすぐに、はっきりと言った。
「七十階の中ボス、正体はわかったわ。今回は、ここまで。戻ってきたの」
一瞬、広場が、しんとした。
その静けさを破ったのは、最前列のホルガーだった。
「おかえり!」
杖を振り上げて、ホルガーが叫んだ。
それにつられたように、ティモが、フィネが、カスパーたちが、口々に叫んだ。
おかえり。
おかえり。
ロッテも、気がつくと、叫んでいた。
「おかえりなさい!」
*
日が暮れてから、シュトルムの六人は、マグダの店にやって来た。
店の中には、まだ人がいっぱいだった。
マグダが、鍋のスープをよそうと、六人は、何も言わずに、むさぼるように食べた。
ピムが、空になった椀を置いて、方眼紙を一枚、カウンターの上に広げた。
七十階の、広い部屋。
その壁ぎわに、大きな絵が描きこまれていた。
羽を広げた、蛾の絵だった。
羽の差し渡しは、部屋の壁の半分ほどもある。
灰色の、まだらな模様。
頭のところに、硬貨のような丸い目が二つ。
絵の横に、ピムの字で、こう書いてあった。
――灰鱗の大蛾。灯りに寄る。羽の粉、濡れ布で防げる。
「ランタンを床に置いたら、壁から剥がれて寄ってきたんだ」
ピムが言った。
「フィネって子の言ったとおりだった」
フィネが、耳を真っ赤にして、尻尾を抱きしめた。
ゲルトが、低い声で続けた。
「羽を一枚、裂いた。粉は、布で止まった。今度は、誰も倒れなかった」
「いけそうだったんですか」
ティモが、身を乗り出した。
ゲルトは、少し考えてから、うなずいた。
「いけそうだった」
店の中が、ざわりとした。
そのとき、エーリカが、腰のランタンを外して、カウンターの上に置いた。
ことり、と小さな音がした。
ロッテは、思わず、ランタンをのぞきこんだ。
硝子の奥の、油壺。
その内側の、細い線。
油の面は、ちょうど、その線のところで止まっていた。
「線まで来たから、戻ったの」
エーリカは言った。
「大蛾は、羽を裂かれて天井に逃げた。もう少しで、届きそうだった。みんなも、まだやれるって顔をしてた」
エーリカは、ランタンの硝子を、指でそっとなぞった。
「でも、灯りがここまで来てたから。帰るわよって言ったの。誰も、文句を言わなかった」
ピムが、肩をすくめた。
「荷の表に書いてあったからな」
エーリカは、マグダを見た。
「今度は、ほっとしなかったわ」
マグダは、黙って、エーリカの椀にスープを足した。
「悔しかったの。すごく。階段を上りながら、ずっと、悔しかった」
エーリカは、笑った。
ロッテが見たことのない、悔しそうで、でも、どこか晴れ晴れとした笑い方だった。
「悔しいって思えたのは、久しぶり」
「いい顔になったわ」
マグダが言った。
それだけだった。
*
客が帰ったあと、ロッテは、ランタンの手入れをした。
煤を拭いて、芯を整えて、油壺に、新しい油を注ぐ。
内側の細い線が、満ちていく油の下に、ゆっくり沈んでいった。
「マグダさん。この線、消しておきますか」
ロッテが聞くと、マグダは、首を振った。
「エーリカが、残しておいてって。次も、使うそうよ」
ロッテは、うなずいた。
それから、帳面を開いて、今日の分を書きこんだ。
シュトルム、六人、帰還。
ランタン、ひとつ、返却。
油、ちょうど半分。
少し迷って、ロッテは、もう一行だけ書き足した。
七十階、次こそ。
窓辺で、ミケが、満足そうに大きなあくびをした。




