第19話 子猫の天気予報
最初に言い出したのは、槍を担いだ獣人の六人組だった。
あの雨の日に、店の床で骨牌をしていた人たちだ。
「この店の猫、天気がわかるんじゃないか」
六人組でいちばん大柄な熊耳の男が、カウンターに身を乗り出して言った。
「雨の前の日は、決まってカウンターの下で寝てる。晴れる前の日は、窓辺だ。三回続けて見たんだ」
ロッテは、帳面をつける手を止めて、窓辺を見た。
朝の日だまりの中で、三毛の子猫が、腹を出して寝ていた。
「じゃあ、明日は晴れ、ですか」
「そういうことになるな」
熊耳の男は、真面目な顔でうなずいた。
カウンターの奥で、マグダが、薬草を刻みながら小さく笑った。
*
次の日は、雲ひとつない晴れだった。
その日の午後、ミケは、カウンターの下の、薬缶を置く台の陰で丸くなっていた。
翌朝、ブルンネンの屋根を、細い雨が叩いた。
噂は、井戸の水より速く街をめぐった。
三日もすると、朝いちばんに来る冒険者たちは、扉の鈴を鳴らすなり、品物の棚より先に、店の中をきょろきょろ見回すようになった。
「猫は、どこで寝てる?」
「窓辺です」
「よし」
それだけ聞いて、傷薬を一本買って出ていく人もいた。
何も買わずに、ミケの寝顔だけ拝んでいく人もいた。
「拝むのは、やめてください」
ロッテが言っても、誰も聞かなかった。
マグダの店の朝は、いつも同じ順番で始まる。
マグダが湯を沸かし、ロッテが棚の埃を払う。
窓から差しこむ光が、棚に並んだ薬瓶を透かして、赤や青や緑の影を床に落とす。
カウンターの横の忘れ物の棚では、ひもの切れた小銭入れや、途中まで描かれた二階の地図が、まだ持ち主を待っている。
奥の壁には、仲間募集の貼り紙と、落とし物の知らせと、「シュトルム 七十階突破 祈願」の紙が、隙間なく並んでいる。
店の中には、いつも薬草と蜜蝋の匂いがしていた。
その順番に、このごろ、ひとつ増えた。
ミケがどこで寝ているかを、確かめること。
肝心のミケは、どこ吹く風だった。
日だまりの中で、ころりと寝返りを打つ。
すると、見ていた冒険者が「お、今のは?」と身を乗り出す。
「寝返りは、関係ないと思います」
「わからんぞ。わしらが知らんだけかもしれん」
入口脇の丸椅子で、ホルガーがもっともらしく髭をなでた。
隣の丸椅子には、このごろヴィルマが座っている。
ヴィルマは、ふん、と鼻を鳴らした。
「猫に天気を聞くくらいなら、自分で空を見な」
「おまえさんは、空を見ても外しとったろう」
「あんたよりは当てたよ」
二人の言い合いは、毎朝の茶と同じくらい、店の決まりごとになりかけていた。
*
いちばん張りきったのは、フィネだった。
「ロッテ、記録つけよう! ちゃんと数えたら、どれくらい当たるかわかるでしょ」
ロッテは少し迷ってから、帳面のいちばん後ろのページを開いた。
日づけ。
ミケの昼寝の場所。
次の日の天気。
三つの欄を、定規で引いた。
帳面をつけるのは、ロッテの仕事だ。
数えるのは、得意だった。
フィネはその日のうちに、店の壁の掲示板に、大きな字で「ミケの天気予報」と書いた紙を貼った。
毎日、閉店前に、ロッテがそこへミケの昼寝の場所を書きこむ。
朝になると、屋根裏の窓から空を見て、帳面に天気を書き足す。
窓辺なら、晴れ。
カウンターの下なら、雨。
ところが、十日目のことだった。
ミケが、そのどちらでもない場所で寝ていた。
戸口だった。
扉のすぐ内側で、迷宮のある北のほうを向いて、前足を胸の下にしまいこんでいる。
ロッテは、帳面を持ったまま、どきりとした。
前にも、ミケがこうしていたことがある。
ティモたちが、日帰りの予定を過ぎても戻らなかった夜。
それから、シュトルムが七十階から帰ってくる直前。
「……迷宮の、ご機嫌が悪いのかな」
ロッテがつぶやくと、店にいた冒険者たちが、いっせいに戸口を振り返った。
マグダは、何も言わなかった。
ただ、その日の閉店のとき、戸口のミケをまたがずに、わざわざ裏口から回って、井戸の水を汲みに出ていった。
*
その話は、天気予報よりも速く広まった。
翌朝、店は、雨でもないのに人でいっぱいになった。
「戸口だったって、本当か」
「今日は潜るのやめたほうがいいのか」
ロッテは、カウンターの陰で小さくなった。
わたしなんかが、余計なことを言ったから。
そのとき、マグダが、棚の奥から平たい缶をいくつも出してきて、カウンターに並べた。
蓋を開けると、甘い匂いが広がった。
いつもの店の匂いが、少しだけ濃くなった。
「靴に塗る蜜蝋よ。今日は、ひと缶、安くしておくわ」
熊耳の男が、缶とマグダの顔を見比べた。
「猫の予報を、信じてるのか」
「どうかしら」
マグダは、窓の外の空を見上げた。
「晴れでも、雨でも、迷宮の機嫌が悪くても。靴が濡れなければ、困ることは少ないもの」
それだけだった。
冒険者たちは顔を見合わせ、それから、一人、また一人と、缶を買っていった。
ティモたち四人も、カウンターの前に並んで、ひと缶ずつ買った。
ティモは、すっかり足になじんだ焦げ茶の靴に、指で丁寧に蜜蝋をすりこんだ。
*
夕方、潜っていた冒険者たちが、ぞろぞろと戻ってきた。
みんな、膝から下が濡れていた。
「二階の水場が、あふれてたの!」
フィネが、尻尾の先から雫を垂らしながら言った。
「通路が一本、靴の甲が隠れるくらい水に浸かってて。ギルドの人も、こんなの初めてだって」
けれど、靴の中は、濡れていなかった。
蜜蝋を塗った革が、水をはじいていたのだ。
店の中に、どよめきが広がった。
「猫の言うとおりだった」
「いや、マグダさんの蜜蝋が」
「どっちでもいい。とにかく、すごい」
その夜、ロッテは帳面に、新しい欄をひとつ増やした。
迷宮の機嫌。
戸口の日の横に、小さく書いた。
二階の水場、あふれる。
*
ところが、次の日。
ミケは窓辺で寝ていたのに、昼過ぎから、どしゃ降りになった。
晴れると思って外套を置いていった人たちが、ずぶ濡れで店に駆けこんできた。
ティモも、その一人だった。
雨粒が、窓ガラスをばたばたと叩いている。
マグダは黙って大きな薬缶を火にかけ、ロッテは、乾いた布を棚から抱えられるだけ下ろした。
入口の床には、濡れた靴の跡が、いくつも重なっていった。
「外れたな」
ティモは、濡れた髪をかき上げて笑っていた。
怒ってはいなかった。
けれど、ロッテはすっかりしょげてしまった。
毎日、掲示板に書きこんでいたのは、ロッテだった。
カウンターの奥の丸椅子に座りこんで、帳面を開く。
十二日。
当たったのは、八日。
八を十二で割ろうとして、指が止まった。
そのとき、膝の上に、ふわりと重さが乗った。
ミケだった。
ミケは、ロッテの膝の上で二度、三度と足踏みをして、それから、ゆっくりと丸くなった。
困っている人の膝にだけ、乗る猫。
「……ずるいよ、ミケ」
ロッテは、ミケの背中に顔をうずめた。
お日さまと、ほんの少し、蜜蝋の匂いがした。
*
「七割ね」
いつの間にか、マグダが、帳面をのぞきこんでいた。
「わたしの天気見より、ずっと当たるわ」
「マグダさんも、外すんですか」
「ええ、よく」
マグダはさらりと言って、ロッテの茶碗に湯を注いだ。
丸椅子のヴィルマが、ふふん、と笑った。
「七割当たれば上等だよ。ブルンの頃の天気見の爺さんなんか、五割だった」
「あれは、ただの勘だったからな」
ホルガーが言った。
「勘のくせに、自信だけはあった」
二人の昔話を聞いているうちに、ロッテの胸のつかえは、少しずつほどけていった。
閉店のあと、ロッテは、掲示板の紙の下に、小さな字で書き足した。
――当たるのは、だいたい七割です。残りの三割は、空を見てください。
それから、端っこに、蜜蝋の缶の絵をひとつ描いた。
*
その夜、ロッテは屋根裏で、帳面を開いたまま眠ってしまった。
翌朝、目を覚ますと、ミケが、帳面のページの上で丸くなっていた。
窓辺でも、カウンターの下でも、戸口でもない場所。
起こしに上がってきたマグダが、それを見て、くすりと笑った。
「あら。今日は、どうなるのかしら」
ロッテは、帳面の上から、ミケをそっと抱き上げた。
屋根裏の窓の外では、井戸の屋根の向こうを、まだ決めかねたような薄雲が流れていた。




