第16話 灯りの残り
鐘が九つ鳴っても、エーリカは眠れなかった。
宿の二階の部屋。
寝台の上に、明日の荷が並んでいる。
濡らして使う麻の口布が、六枚。
油紙の包み。
マグダの店から借りた、古いランタンが三つ。
ピムが三度計算し直した荷の表は、机の上で、インクの染みだらけになっていた。
壁の向こうから、ゲルトのいびきが聞こえる。
その向こうの部屋では、ピムがまだ起きているらしく、ときどき羽根ペンを置く音がした。
残りの三人も、たぶん、それぞれの寝台で天井を見ている。
壁ぎわの台には、磨き上げた胸当てが立てかけてあった。
夕方、自分で油を引いた。
三度も引いた。
四度目を引こうとして、布を持つ手を止めたのは、ついさっきのことだ。
明日、もう一度、七十階に下りる。
エーリカは、寝台から立ち上がった。
外套を羽織り、ランタンをひとつ手に取って、そっと部屋を出た。
*
夜の大通りは、昼とは別の街のようだった。
屋台はとうに畳まれ、宿屋の看板の下で、小さな灯りがいくつか、眠たそうに揺れている。
酒場の窓から、誰かの笑い声がこぼれた。
エーリカが通りかかると、その笑い声が、ふっと止んだ。
「おい、シュトルムの」
「明日だってな」
「七十、頼むぞ」
エーリカは、いつものように片手を上げて、微笑んでみせた。
微笑むのは、得意だった。
得意になってしまった、と言うべきかもしれない。
夜風が、大通りを北から吹き下ろしてきた。
岩山のほうから来る風は、昼間でも少しひんやりしている。
夜になると、その冷たさに、かすかに湿った石の匂いが混じる。
迷宮の匂いだ、とエーリカは思った。
十年以上嗅いできた匂いなのに、今夜は、なぜか知らない匂いのように感じた。
井戸の広場まで来ると、ギルドの石段の脇で、篝火が小さく燃えていた。
その隣の店の窓に、まだ灯りがあった。
窓辺に、ランプがひとつ置かれている。
扉の鈴が、ちりん、と鳴った。
「いらっしゃい」
カウンターの奥で、マグダが顔を上げた。
驚いた様子は、少しもなかった。
「まだ、開いてたのね」
「ええ。今夜は、遅くまで開けておこうと思って」
エーリカは、それ以上、聞かなかった。
聞いたところで、はぐらかされるだけだ。
屋根裏へ続く階段の途中から、寝間着のロッテが、目をこすりながら顔をのぞかせた。
「エーリカさん……?」
「ごめんなさい。起こしちゃったわね」
「い、いえ。お茶、淹れます」
ロッテは、ぱたぱたと階段を下りてきた。
*
エーリカは、カウンターの前の丸椅子に座った。
昼間は、ホルガーの爺さんが陣取っている席だ。
ランタンを、カウンターの上に置く。
ふと、店の奥の壁に目が行った。
仲間募集の貼り紙や、落とし物の知らせに混じって、真新しい紙が一枚、いちばん目立つところに貼ってあった。
大きな字で、こう書いてある。
――シュトルム 七十階突破 祈願。
その下に、びっしりと名前が並んでいた。
上手な字も、下手な字も、字の書けない誰かが描いたらしい丸や星の印も。
ティモ、フィネ、オルフ、ジルケ。
グレタ。
イルザ。
ホルガーの名前は、なぜか二回書いてあった。
いちばん下の隅に、小さな、丁寧な字。
ロッテ。
エーリカは、しばらくその紙を見ていた。
それから、目をそらした。
「これ、返しに来たわけじゃないの。明日、使わせてもらうわ」
「どうぞ」
「油は満タン。芯も替えた。口布も、ピムが全員の顔に合わせて縫い直したわ」
エーリカは、指を折って数えた。
「解毒の薬は、前回の倍。気付けは三倍。ゲルトの盾は、グレタって子がもう一度見てくれた。あの子、いい腕ね」
「ブラントの弟子だもの」
「準備は、全部できてるの」
エーリカは、笑った。
「全部できてるのに、眠れないのよ。おかしいでしょう」
ロッテが、湯気の立つ茶碗を差し出した。
エーリカは礼を言って、両手で包んだ。
温かかった。
そのとき、膝の上に、ふわりと重さが乗った。
三毛の子猫だった。
子猫は、エーリカの膝の上で、二度、三度と足踏みをして、それから丸くなった。
ロッテが、小さく「あ」と言った。
エーリカは、首をかしげた。
「この子、いつもこうなの?」
「い、いえ、その。……ミケは、困ってる人の膝にだけ、乗るんです」
言ってから、ロッテはしまったという顔をして、両手で口を押さえた。
エーリカは、しばらく、膝の上の子猫を見下ろしていた。
それから、声を立てずに笑った。
「そう。見抜かれちゃったのね」
*
「七十階で、わたしだけ、起きていたの」
エーリカは、茶碗の縁を指でなぞりながら言った。
誰に話すつもりでもなかった。
けれど、言葉は勝手にこぼれた。
粉が舞って、ピムが倒れた。
後ろの三人が倒れた。
ゲルトが、盾を構えたまま、膝をついた。
エーリカは息を止めて、青い瓶の封を歯で噛みちぎった。
五人分の気付けを片っ端から口に流しこんで、引きずるようにして階段まで戻った。
「みんなは、エーリカのおかげだって言うわ。街の人も、さすがシュトルムのリーダーだって」
エーリカは、茶をひと口飲んだ。
「でもね。階段を上りきったとき、わたし、ほっとしたのよ」
マグダは、黙って聞いていた。
「七十階を越えられなかったことより、帰る理由ができたことに、ほっとしたの。……それが、ずっと、言えなくて」
窓辺のランプの炎が、かすかに揺れた。
ロッテは、カウンターの端で、息をひそめていた。
「明日も、きっと、どこかで決めなきゃいけない。進むか、戻るか」
エーリカは、膝の上の子猫の背中をなでた。
「そのとき、わたしが戻るって言ったら。それは六人のためなのか、わたしが怖いからなのか。自分でも、わからなくなりそうで」
*
マグダは、何も言わなかった。
慰めの言葉も、叱る言葉も。
代わりに、カウンターの上のランタンに手を伸ばした。
真鍮の蓋を開けて、油壺をのぞきこむ。
それから、棚から細い錐を一本取ってきて、油壺の内側に、すっと一本の線を引いた。
ちょうど、半分の高さだった。
「この線まで減ったら、帰る時間よ」
マグダは、蓋を閉めた。
「このランタンは、七十階の階段からつけるといいわ。油が半分になったら、残りの半分で、ちょうど地上まで戻れるから」
エーリカは、目を瞬いた。
それから、ランタンを持ち上げて、窓辺のランプの灯りに透かした。
硝子の奥で、油の面と、刻まれた細い線が、並んで揺れている。
「……つまり、戻るかどうかを決めるのは、わたしじゃなくて」
「ランタンよ」
マグダは、茶を注ぎ足した。
「灯りは、怖がらないもの」
エーリカは、しばらく黙っていた。
それから、肩の力が抜けたように、ふう、と長く息を吐いた。
「ずるいわね、その品物」
「売り物じゃないわ。貸しているだけ」
「なお、ずるいわ」
ロッテが、くすりと笑った。
慌てて口を押さえたけれど、エーリカは、もう一緒に笑っていた。
膝の上の子猫が、ひとつ大きく伸びをして、床に飛び下りた。
そのまま、窓辺のランプのそばで丸くなる。
もう、困っている人の膝ではない、ということらしかった。
エーリカは立ち上がって、外套を羽織り直した。
ランタンを、そっと持ち上げる。
来たときより、少しだけ、重く感じた。
戸口で、エーリカは振り返った。
「ロッテちゃん。あの貼り紙、あなたが?」
ロッテは、ぶんぶんと首を振った。
「わ、わたしじゃないです。フィネさんが。わたしは、名前を書いただけで」
「そう」
エーリカは、もう一度だけ、壁の紙を見た。
今度は、目をそらさなかった。
「いってらっしゃい」
マグダが言った。
明日の朝ではなく、今夜のうちに。
エーリカは、小さくうなずいて、扉を閉めた。
*
店を出ると、夜はさらに深くなっていた。
井戸の屋根の上に、こぼれそうなほど星が出ている。
大通りの先の岩山は、黒い影になって、静かにうずくまっていた。
その奥の、ずっと下に、七十階がある。
宿に戻ると、ピムの部屋の灯りが、まだついていた。
エーリカは、扉を軽く叩いた。
「ピム。もう寝なさい」
「エーリカこそ。……どこ行ってたんだ」
「ちょっと、買い物」
エーリカは、ランタンを掲げてみせた。
「明日は、これの油が半分になったら戻るわよ。わたしが何を言っても、ね」
ピムは、きょとんとしてから、にやりと笑った。
「了解。荷の表に書いとく」
部屋に戻って、エーリカは寝台に横になった。
枕もとに、ランタンを置く。
油壺の内側の細い線が、窓の星明かりを受けて、かすかに光っていた。
膝の上に、まだ、子猫の重さが残っている気がした。
エーリカは、目を閉じた。
今度は、すぐに眠れた。
今回の更新も2話です。
まずは1話目でした。




