第15話 もう一度だけ三階へ
その婆さんは、ホルガーが茶の二杯目に口をつけたところで、店の扉を開けた。
背筋の伸びた、ヒューマンの老婆だった。
白い髪を、きっちりと頭の後ろでまとめている。
旅装の外套は古いが、よく手入れされていた。
手には、樫の杖。
けれど、その杖に体を預けている様子はない。
ホルガーは、茶碗を持ったまま、固まった。
婆さんは、店の中をぐるりと見回して、最後に、丸椅子の上のホルガーで目を止めた。
「なんだい」
婆さんは、鼻を鳴らした。
「まだ生きてたのかい、ちびホルガー」
「……そっちこそ。ヴィルマ」
カウンターの向こうで、ロッテが、目をまん丸にしていた。
*
ヴィルマは、ブルンの頃の仲間だった。
まだ迷宮が三階までしかなかった頃。
ホルガーと、ヴィルマと、あと二人。
四人で、毎日のように穴に潜った。
ヴィルマは、癒し手だった。
口が悪くて、手当てが乱暴で、そのくせ誰よりも仲間の怪我に早く気づいた。
地鳴りの夜に四階が見つかった、その次の年に、ヴィルマはマランの寺院に移って、それきりだった。
四十年ぶりになる。
「マグダ。相変わらず、同じ顔だね」
ヴィルマは、カウンターの奥のマグダに言った。
「ええ。あなたは、いい顔になったわ」
「皺が増えただけさ」
ヴィルマは笑って、それから、カウンターの横の棚を見た。
忘れ物の棚。
そのいちばん端に、古い錫の水筒がある。
凹んで、くすんで、胴にかすれた字で名前が彫ってある。
ヴィ、ル、マ。
「……まだ、あったのかい」
ヴィルマの声が、少しだけ小さくなった。
「持ち主が取りに来るまで、預かるのが決まりだもの」
マグダは、棚から水筒を下ろして、ヴィルマの前に置いた。
ヴィルマは、しばらくそれを見つめていた。
それから、ぽつりと言った。
「頼みがあるんだよ、マグダ。もう一度だけ、潜りたい」
*
「三階まででいい」
ヴィルマは言った。
「昔、いちばん下だったところ。あそこを、もう一度見ておきたいんだ。足が動くうちにね」
ロッテが、心配そうにマグダを見た。
ホルガーも、マグダを見た。
止めるだろう、と思った。
ヴィルマは七十を越えている。
いくら浅い階でも、魔物は出る。
けれど、マグダは、止めなかった。
「靴を見せて」
それだけ言って、カウンターの下から、靴の箱をいくつか出しはじめた。
ヴィルマは、にやりと笑った。
「やっぱり、あんたは変わらないね」
マグダが選んだのは、柔らかい鹿革の、くるぶしまでの靴だった。
それから、薄手の外套と、小さな水筒。
「水は、二日分」
「三階までだよ?」
「それでもよ」
ホルガーは、その横で、自分の杖を握りしめていた。
「わしも行く」
気がつくと、そう言っていた。
「わしがおらんと、どこが昔の最下層か、おまえさん、わからんだろう」
「あたしが忘れると思ってるのかい」
「忘れとるさ。おまえさん、昔から地図だけは描けんかった」
ヴィルマは、言い返さなかった。
代わりに、少しだけ、目尻を下げた。
*
年寄り二人では、さすがに心もとない。
そこで、マグダがギルドのイルザに頼んで、護衛の仕事を一件出してもらった。
引き受けたのは、もちろん、あの四人組だった。
翌朝。
鐘が五つ鳴った。
大通りの石畳は、朝露で薄く濡れていた。
パン屋の窓から湯気が流れ、屋台の主人たちが、まだ眠そうな顔で板を上げている。
路地の奥から、かん、かん、と槌の音が聞こえてきた。
最近、ヨッヘンの古い鍛冶場に、若いドワーフの娘が住みついたのだ。
ヴィルマが、その音に、ふと足を止めた。
「……ヨッヘンの音がする」
「似てるだけだ」
ホルガーは言った。
「似てるだけだが、悪くない」
入口の前には、いつものように列ができていた。
ホルガー、ヴィルマ、ティモ、フィネ、オルフ、ジルケ。
ちょうど六人だった。
迷宮は、一度に六人までしか通さない。
ティモたちは、列に並ぶと、そろってしゃがみこんで靴ひもを結び直した。
それを見たヴィルマが、面白そうに、自分の新しい靴のひもを、きゅっと引いた。
若い係員が、六人を見て、それから年寄り二人を見て、目を丸くした。
「……ゆっくりな」
「言われなくても、ゆっくりしか歩けないよ」
ヴィルマが言うと、係員は吹き出した。
*
一階の通路は、ホルガーの知っている一階ではなかった。
壁には十歩ごとにランプが掛かり、床は大勢の冒険者に踏まれて、すべすべに磨かれている。
「昔は、真っ暗だったんだよ」
ヴィルマが、ランプの明かりを見上げた。
「松明を一本ずつ持って、それが消えたら、手探りで帰った」
「手探りで帰ったのは、おまえさんが松明を落としたからだ」
「あれは、あんたがつまずいてぶつかってきたからさ」
フィネが、後ろでくすくす笑っていた。
二階に下りると、壁の青白い苔が、通路をぼんやりと照らしていた。
苔だけは、昔と同じだった。
濡れた石の匂いも、どこか遠くの水音も。
ヴィルマは、苔の壁に、そっと手のひらを当てた。
「あんたたちの地図は、きれいだね」
ヴィルマは、ティモの手の中の方眼紙をのぞきこんだ。
「升目が揃ってる。マグダの紙だろう」
「はい」
「あたしたちの頃もそうだった。……その紙で、ちびホルガーだけが地図を描いてたんだよ」
ホルガーは、聞こえないふりをした。
三階は、通路が細かく折れ曲がっていた。
壁の下のほうに、苔が帯のように生えている。
天井から垂れた細い根を、フィネが耳を伏せてくぐった。
一度だけ、灰色の大鼠が二匹、角から飛び出してきた。
ジルケとティモが前に出て、あっという間に片づけた。
その後ろで、ヴィルマは杖を構えたまま、一歩も下がらなかった。
「いい前衛だ」
ヴィルマがつぶやいた。
ジルケが、少しだけ胸を張った。
*
「ここだ」
ホルガーは、ある角を曲がったところで、足を止めた。
通路の突き当たり。
壁が、ほかの場所よりも少しだけ黒ずんでいる。
四十年前、ここが行き止まりだった。
この先には、何もなかった。
ここが、迷宮ブルンのいちばん下だった。
今は、壁の脇に、四階へ下りる階段が口を開けている。
ヴィルマは、黒ずんだ壁の前に立った。
杖の先で、壁の低いところを、こつこつと叩く。
それから、しゃがみこんで、指で苔をそっと払った。
苔の下から、刻まれた字が現れた。
かすれて、ほとんど読めない。
けれど、ホルガーには、全部読めた。
ホルガー。
ヴィルマ。
クルト。
エマ。
最下層まで来た記念に、四人で、短剣の先で刻んだ名前だった。
「……あったね」
ヴィルマが言った。
ホルガーは、何も言えなかった。
杖を握る手が、ほんの少し震えていた。
ティモたちは、少し離れたところで、黙って待っていた。
フィネでさえ、何もしゃべらなかった。
やがて、ヴィルマが、ゆっくりと立ち上がった。
膝についた土を払って、ふん、と鼻を鳴らした。
「クルトの字が、いちばん下手だね」
「あいつは、字が書けんかったからな。おまえさんが手を添えたんだろう」
「そうだったかね」
ヴィルマは、笑った。
四十年前と、同じ笑い方だった。
*
帰り道、別の通路で、フィネが白っぽい壁の部屋を指さした。
「あそこ、この前、迷宮が伸びた夜にできた部屋なんです」
ヴィルマは、その部屋の入口で立ち止まって、まだ苔も生えていない白い壁を眺めた。
それから、肩をすくめた。
「相変わらず、落ち着きのない穴だね」
夕方、六人は地上に戻った。
入口を出ると、西日が岩山を赤く染めていた。
大通りの屋台に灯りが入りはじめて、焼いた腸詰めの匂いが漂ってくる。
店の前では、マグダとロッテとミケが、並んで待っていた。
「おかえりなさい」
マグダが言った。
ヴィルマは、腰に提げた古い錫の水筒を、ぽんと叩いた。
中身は、一滴も減っていなかった。
「重かったよ。二日分は」
「ええ。でも、持っていって、よかったでしょう」
ヴィルマは、答えなかった。
ただ、店の中に入って、ホルガーの隣の丸椅子に、どっかりと座った。
「茶をおくれ、マグダ。それから、この子の名前を教えておくれよ」
ヴィルマは、ロッテを手招きした。
ロッテは、慌ててカウンターから出てきた。
ホルガーは、いつもの茶をすすった。
いつもより、少しだけ、うまい気がした。
2話投稿の2話目です。
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