第14話 ひとりの店番
「今日は、出かけるわ」
朝ごはんの麦粥を食べ終えたとき、マグダがさらりと言った。
ロッテは、匙をくわえたまま固まった。
「……お店は、お休みですか」
今日は、定休日ではない。
定休日は、月に二度。
その日、マグダは朝早くに出かけて、夕方に帰ってくる。
どこへ行くのかは、誰も知らない。
「お休みにはしないわ」
マグダは、空になった椀を重ねながら言った。
「ロッテ、店番をお願い」
匙が、ロッテの口から、ことんと落ちた。
*
「むりです」
ロッテは、三回言った。
「むりです、むりです、むりです」
「四回目ね」
マグダは、外套を羽織りながら笑った。
「傷薬と毒消しと気付けの値段は、帳面に書いてあるでしょう。方眼紙も、ロープも、水筒も。値札のない棚の品は、売らなくていいわ」
「鑑定は」
「明日にしてもらって」
「お、お客さんが、怒ったら」
「お茶を出して」
マグダは、ロッテの頭をぽんとなでた。
「大丈夫よ。この店のことは、あなたがいちばんよく知ってるもの。帳面をつけてるのは、あなたなんだから」
そう言って、マグダは表の扉を開けた。
朝の光が、店の中に流れこんだ。
まだ低い日差しが、広場の石畳を斜めに照らして、井戸の影を長く伸ばしている。
水汲みのおばさんたちの釣瓶が、からから、と鳴っていた。
マグダは振り返らずに、大通りのほうへ歩いていった。
銀色の髪が、朝の人波に紛れて、すぐに見えなくなった。
ロッテは、扉の前に立ちつくした。
足もとで、ミケが、にゃあと鳴いた。
「……ミケ。店番、手伝ってくれる?」
ミケは、尻尾をひと振りして、窓辺の日だまりに寝そべった。
手伝う気は、まったくないらしかった。
*
最初の客は、もちろんホルガーだった。
「なんだ、マグダはおらんのか」
「出かけました」
「ほう」
ホルガーは、丸椅子に座って、ロッテを見上げた。
「じゃあ、今日はお嬢ちゃんが店主か」
「店主じゃないです! 店番です!」
ロッテは、震える手で茶を淹れた。
いつもマグダがやっているとおりに。
湯を少し冷まして、茶葉を蒸らして。
ホルガーは、一口すすって、片眉を上げた。
「うまいな」
「ほんとですか」
「マグダのより、ちょっと薄い。わしは、こっちのほうが好きだ」
ロッテは、ほんの少しだけ、肩の力が抜けた。
それから、ホルガーは、ふと思い出したように言った。
「マグダが定休日にどこへ行くのかは、ブルンの頃からの謎でな。わしらの若い頃は、よく賭けをしたもんだ」
「賭け、ですか」
「マランの古本屋に入り浸っとる、という説。山の向こうの湖で、一日じゅう釣りをしとる、という説。実は双子の妹がいて、入れ替わっとる、という説」
「最後のは、さすがに」
「わしも、そう思う」
ホルガーは、くっくっと笑った。
*
鐘が六つ鳴ると、客がやって来はじめた。
最初の何人かは、うまくいった。
傷薬を二本。
毒消しを一本。
方眼紙を一束。
ロッテは、帳面の値段を指でなぞりながら、慎重にお釣りを数えた。
一枚、二枚、三枚。
「ありがとうございました」
声が、少しだけ大きくなった。
それから、ティモたち四人が、潜る前に顔を出した。
「マグダさん、いないの?」
フィネが、きょろきょろと店を見回した。
「今日は、わたしが店番です」
ロッテが言うと、四人は顔を見合わせた。
それから、なぜか、四人そろってカウンターの前に一列に並んだ。
「水筒、ひとつください」
ティモが、真面目な顔で言った。
「方眼紙、一束」
フィネ。
「傷薬、一本」
オルフ。
「……毒消し」
ジルケ。
ロッテは、ぽかんとした。
ティモの水筒は、まだ新しいはずだった。
「あの、ティモさん、水筒、この前も」
「いいの。予備」
ティモは、にっと笑った。
四人は品物を受け取ると、そろって手を振って出ていった。
ロッテは、帳面に書きこみながら、なんだか胸のあたりが、くすぐったくなった。
*
昼前に、困った客が来た。
真新しい鎧を着た、ヒューマンの青年だった。
いかにも、昨日登録してきました、という顔をしている。
青年は、店の奥の壁に掛かった剣を指さして言った。
「いちばん強い剣をください!」
ロッテは、どこかで聞いたことのある台詞だと思った。
剣は、値札のない棚の品だ。
売らなくていい、とマグダは言った。
でも、それをどう言えばいいのだろう。
ロッテは、深呼吸をした。
それから、カウンターを回って、青年の前に立った。
「あの。迷宮でいちばん長く使うのは、足、なんです」
青年は、目をぱちくりさせた。
「剣を振るのは、一日に何回か。でも、歩くのは何千歩で。だから、最初は、剣より、靴が」
ロッテは、青年の足もとを見下ろした。
そして、言葉に詰まった。
青年は、いい靴を履いていた。
かなりいい靴だった。
「……靴は、いいですね」
「母さんが、出発の日に買ってくれたんだ」
「そ、そうですか。えっと」
ロッテは、目を泳がせた。
それから、左の壁の棚に目が留まった。
「じゃあ、方眼紙を! 地図を描くと、迷子になりません!」
青年は、なぜか感心したようにうなずいて、方眼紙を二束買っていった。
扉が閉まると、丸椅子のホルガーが、腹を抱えて笑っていた。
「ホルガーさん!」
「いや、いや。立派な店主だった。立派な店主だったぞ」
*
昼過ぎ、店の裏口を叩く音がした。
出てみると、荷車を引いた行商人のおじさんが、汗を拭きながら立っていた。
「マグダさんに頼まれてた、薬草の苗だ。傷薬のやつ。三十株」
荷車の上の木箱には、丸い葉の苗が、ぎっしりと詰まっていた。
けれど、どれも少しぐったりしている。
マランからの道中、日差しにやられたのだと、おじさんは申し訳なさそうに言った。
「今日中に土に下ろさねえと、だめになるかもしれねえ」
ロッテは、裏庭を見た。
建物と建物のあいだの、細長い日だまり。
石積みの壁の隙間から、羊歯が顔を出している。
三つの畝のうち、三つ目は、ずっと土を休ませていた。
今朝、マグダが、そこの土をふっくらと掘り返していたのを、ロッテは思い出した。
「わたしが、植えます」
気がつくと、そう言っていた。
ロッテは、袖をまくって、畝の前にしゃがみこんだ。
午後の光が、壁の上から斜めに差しこんで、掘り返された黒い土を温めていた。
指で穴を掘って、苗をひとつずつ下ろしていく。
根を広げて、土をかぶせて、そっと押さえる。
井戸から汲んできた水を、柄杓で、根もとに、静かに。
三十株。
最後の一株を植え終えたとき、ロッテの膝は泥だらけで、手の甲には汗が光っていた。
「ゆっくりでいいからね」
ロッテは、並んだ苗に向かって、小さく言った。
それから、店番を思い出して、慌てて裏口に駆けこんだ。
*
夕方、マグダが帰ってきた。
扉の鈴が鳴った瞬間、ロッテはカウンターから飛び出した。
「おかえりなさい!」
「ただいま」
マグダは、外套を脱ぎながら、店の中を見回した。
棚の瓶の数。
帳面の上の、ロッテの字。
丸椅子で居眠りしているホルガー。
窓辺で丸くなっているミケ。
それから、裏口のほうへ歩いていった。
ロッテは、どきどきしながらついていった。
夕方の裏庭は、もう影の中に沈みかけていた。
その三つ目の畝に、三十株の苗が並んでいた。
昼間はぐったりしていた丸い葉が、どれも、ぴんと空を向いていた。
マグダは、しばらく黙って、畝を見ていた。
「上手に植えたわね」
「あの、勝手に植えて、ごめんなさい。行商人さんが、今日中にって」
「ええ。今日中で、よかったのよ」
マグダは振り返って、ロッテの泥だらけの膝を見て、くすりと笑った。
「今日の店番は、わたしがやるより、上手だったかもしれないわ」
「そ、そんなこと、ないです! わたし、剣を買いに来た人に、方眼紙を売っちゃったし」
「あら。それは、いい買い物をさせたわね」
ロッテは、それ以上、何も言えなかった。
顔が、夕焼けみたいに熱かった。
「マグダさんは、今日、どこに行ってたんですか」
聞いてから、ロッテはしまったと思った。
けれど、マグダは、いつものようにはぐらかさなかった。
「昔の知り合いのところよ」
それだけ言って、マグダは台所に入り、湯を沸かしはじめた。
ロッテは、それ以上は聞かなかった。
帳面を開いて、今日のいちばん下に、小さな字で書き足した。
店番、一日。
傷薬の苗、三十株、三つ目の畝。
窓辺で、ミケが、大きく伸びをした。
今日も2話投稿。一話目です。




