第42話 裏切りと誓い(1)
ヒュンと、飛んできた矢が耳のそばを通りすぎていく高い音がした。
速まる胸を鎮めながら、もう何度目か、自分の命の分け目が飛来した方向を確かめるために頭を振る。
どこをどう歩いてきたかも判然としない密林のジメジメした空気の中で、どこから矢が撃ち込まれるか分からず歩き続ける恐怖。
頭の上を覆う激しい雨を降らせる雲。降り出した雨と一緒になって流れる汗。
熱さと疲れで眩む景色に、ただ前を行く他の兵士の背を見ていた。
雨に打たれ、湿気と熱で朦朧とした集団はやがて大きな沼地へとさしかかる。
そこで兵士が一人、泥沼に足をとられて動けなくなった。
動揺した彼が慌てて手足を動かすたびに、甲冑を着たその体はより深く沼へと沈んでいく。
少し離れた所から、どうすることもできずに眺めていた。
彼の動揺は当然だった。
矢を撃ち込んでくる現地の部族の中には魔術師もいた。
その場から動けなくなった彼を、その魔術師が狙い撃つのは時間の問題だったのだ。
そして。
泥沼に直立する兵士に、頭から落雷の魔術が降り注ぐ。
何もできずに、ただその様を見ていた。
沼に立った雷の柱に恐れをなした他の兵士達が、蜘蛛の子を散らすように森の中へと逃げていく。逃げていく暗がりに、何が潜んでいるとも知らないで。
生い茂る木々の間から、風に乗ってわずかに、吸い込んだ者の体の自由を奪う特殊な毒草を焚く煙の臭いが運ばれてきていた。
昼夜を問わず何度もよみがえる、その記憶のどうしようもない結末だ。
待てと掛ける声も虚しく、恐慌状態に陥った兵士達は散り散りに森へと逃げていく。
一つの部隊はそうして恐怖と混乱のうちに壊滅していった。
そして多くの兵士が、今も遠く海を越えた彼の地に骨として埋まっているのだ。
どんなカンカン照りの日にも繰り返し聞こえるあの激しい熱帯の雨の音。湿気と熱と矢の記憶。
どんなにあの場所を離れても、どんなに時が経っても、もう逃れることはできない。
……そして悪夢はさらに深く。激しい雨のその先に続く、あの獄炎の記憶まで、頭も心も正確になぞっていく。
手を伸ばし眺めていた。
甲冑の悪魔達の高笑いの先で、消えていくその土地の人々の声。
流されたものと共に始まる恐怖の支配。
真っ赤に焼けた地に伏しながら、あのとき無力な兵士は聞いていた。
……時代の幕開けの酷な音を、全身に浴びたとき。
その記憶は日常と表裏一体の、もう一つのウィンフレッドの世界になったのだ。
森を歩く兵士の目の前でガサリと茂みが鳴る。
その音にやっと現実へと帰ってきたウィンフレッドは、兜の隙間から見える目を大きく開いた。
しかし先程の音は茂みの中に木の枝でも落ちた音だったのか、恐れていたものは霧の中に飛び出てくることはなかった。
剣を退きながら、兵士はただほっと息をつく。
こんなふうに何かに追われ、過敏に周囲を警戒しながら森を歩くのは久しぶりだ。
景色が似ていればいろいろと嫌なことを思い出す。
木の幹から顔を出しながら、ウィンフレッドは兜を着けた頭を勢いよく振った。
戦地から帰ってしばらく経っても、悪夢は恐ろしいほどあっさりと、白昼にさえよみがえる。忘れられると思っていた記憶はいよいよ自分の奥まで染み込んでいる。
今に意識を戻すように、兵士は再びふうと息を吐いた。
ここで集中を欠けば終わりだ。
今まさにこの瞬間も、あのときに負けず劣らずの極限状態なのだから。
足下の泥を鉄靴で跳ね上げ前方に迫った茂みをかき分けながら、兵士は改めて己の置かれた状況に返る。
どこまで行っても森を覆う霧は途切れることがなく、太陽は一向にさまよう者を照らすことはない。
その中で、今自分は執拗に逃亡者を追ってくる金属の骨型の魔導機構と鬼ごっこしているのだ。
一応頼りにしていた魔術師達と引き離され、鉄剣一本とともに暗い森に放り出されて。
しかし。
「どうやらさっき襲ってきたやつは完全に撒けたみたいだな」
斜め後ろから掛かった男の声に、ウィンフレッドは兜の面頬を下ろしているためにくぐもった声で「ああ」と短く返す。
振り向けばそこには、先程まで異形の剣の下で斬り伏せられそうになっていた白銀騎士の姿があった。
その奥には、その騎士の前を逃げていた大柄な白銀騎士がくっついてきている。
二人はこの暗い森でできた道連れだ。
魔術師達の姿がどこかへ消えた後、なおも兵士の目の前で繰り広げられていた魔導機構と白銀騎士の逃走劇。
ウィンフレッドはその中からこの二人を救い出した。
ウィンフレッドのすぐ後ろを歩くのは、整った顔立ちだがどこか軽薄そうなブロンドの色男。その色男の後ろを付いてくるのは、大きな体格をした、いかにも真面目そうな強面の白銀騎士だ。
この辺りを哨戒する際は下級兵士としてよく騎士達の後ろを歩かされるが、まさか白銀騎士を後ろにくっ付けて森をさまよう日が来るとは思わなかった。
しかしせっかく奇妙な森で三人寄り集まったのだ。
森を闊歩するあの魔導機構とやり合うには、一人よりは三人固まっていた方がいい。
他の二人も腐っても騎士だ。ウィンフレッドが前を開けば自然と後について援護してくれた。
だからこそ彼らと出くわしたとき襲ってきていた骸は何とか撒くことができたのだ。
未だ消えてしまった魔術師達の行方は分からないが、とりあえず騎士二人を連れて森を抜けるために、ウィンフレッドは前に進み始めた。
今は湖岸に沿って森を歩いているが、一体どこへ行ってしまったのか、あの魔女も黒衣の魔術師も一向に見当たらない。
森を抜けるまでに彼らと再会できなければ、そのときはまたどうするか考えなければならないが、今は一刻も早く脅威の外に出なければ。例え剣士が三人寄り集まっていようと、鉄剣で魔導機構とやり合うには限界がある。
「厄日だな……」
擦り傷だらけの兜の中で、ウィンフレッドは一人呟く。
消えた魔術師達、襲ってくる骸、出会った白銀騎士……。
まるで夢か幻の中にいて化かされてるみたいだ。
異大陸にいたとき、幻覚を誘発する毒草の焚かれた森を歩いたときの記憶がちらつくが、あれよりもっと覚めた状態で鮮明に幻を見させられているようだった。
これが現実と見分けがつかないほどの悪夢なら、もうそろそろ覚めてもらいたいところだが……。
「……」
しかし夢から覚められない兵士は、自分の背中に刺さる視線に改めて眉根を寄せる。
後ろを歩く白銀騎士の視線が、前を歩く自分の背をじっととらえているのだ。
森を逃げる騎士を助けに、突然異形の前に躍り出た甲冑の男。
そりゃ何者かと色々勘繰らない方がおかしいだろうが……。
「どこの誰かなんて今は聞かないでくれ。お互いそれどころじゃないだろ? 安心してくれ、俺はあんた達と同じただの森の遭難者だからよ」
未だ兜で顔を覆ったまま、気だるげにくぐもった声を出すウィンフレッドに、すぐ後ろを歩くブロンドの騎士はばつが悪そうに答えた。
「別に何も疑ってなどいない。……その格好、人員補充のために街から徴集された街頭警備兵と同じだと思っただけだ」
「そういう回りくどい詮索を止めてくれさえすればさっきの助太刀の褒美はいらないぜ、騎士様。……俺が街頭警備兵だっていうのは正解だ。あんたらの帰りが遅いから、退屈しのぎにわざわざここまで様子を見にきてやったのさ。狩りを羨ましがってた他の兵士にこの惨状を聞かせてやったら、要塞警備で時間を潰せる自分の幸運に咽び泣くだろうぜ」
「……」
どんな皮肉を言われても今は返す言葉がないのか、ブロンドの白銀騎士は少しだけうつむく。
皮肉は止まらないが、それでも自分達を見放さずに淡々と前を歩くウィンフレッドのことは信頼しているのか、己の抱えた事情を素直に話し始めた。
「確かに要塞に留まった者達が聞いたらお笑い種だろうな。呑気に天幕まで持ち出して狩りに出た騎士達が、そろって森で異形に襲われ死にかけて……。浮かれながら天幕を張った陣地は今やほぼ壊滅状態だ。何人死んだか分からない」
陣地を襲われ、さらに骸に行く手を塞がれ森の外へ逃げることもできず、こうして彼らは霧の中をさまよっているのだという。
そして、
「我々の指揮をとっていたネバード隊長も亡くなられた……」
茂みの間を抜けながら、前を行く兵士は思わず肩をこわばらせていた。
兜で顔を隠していたから、ウィンフレッドはその瞬間大きく見開いた目を見られずにすんだのだ。
騎士が口にしたその名と、その名の人物の末路に対して浮かべた表情を。
兜の中でウィンフレッドが浮かべた顔など知るはずもなく、ブロンドの騎士は悲しげに言葉を続ける。
「君の言う通り。無様なものだな。今まで騎士だと名乗っていた自分が恥ずかしい。隊長はその身を挺して、我々を守って下さった。そして今は君に守られている。これのどこが白銀騎士だ……」
それきり彼は肩を落としたまま口を閉ざした。
骸の正体が何なのか伝えるべきか、ウィンフレッドはしばらく迷った。
しかしそれがさらに自分の正体を勘繰らせる引き金になることを厭って口を閉ざす。
どっちにしろ、もうすべて取り返しがつかない。
彼らの仲間と上司は死んだ。
せめて彼らだけは無事に森を抜けられればいいとは思うが……。
霧のかかる暗い森の中。その薄闇を越えて背中に感じる気配に、兵士は再び意識を集中する。
一つ、気になっていることがあった。
背に感じる黒い気配は、森の禍々しさや異形に追われる恐怖心が生み出すものではなく……。
思えばその格好をしているからウィンフレッドは彼がそうだと信じたが、その人はこの森で出くわしたあのとき、その格好にふさわしい挙動をしてはいなかった。
だから……。
ふと、一行の前で森が切れる。
目の前には、何とか流れに足を浸けずに跳び越えられるくらいの細い小川が流れていた。
勢いをつけて、大柄な騎士がウィンフレッドとブロンドの騎士の先に立って川を跳び越える。
ウィンフレッドは兜の中で眉を寄せながら、その光景を見ていた。
大柄な騎士に続いて、ブロンドの騎士が小川を跳び越える。
しかしその鉄靴が向こう岸を踏むと同時に、
「おっと、すまない。足が泥にはまった」
どうやら彼の足は、岸のように見えていた川辺のぬかるみの中にとられたようだった。
中々深く足が泥に刺さったのか、埋まった鉄靴を引き抜こうと騎士はその場にかがみ込む。
大柄な騎士はただ静かにその様を見下ろしていた。
「うおっと。俺もやっちまった」
ブロンドの騎士のとなりに飛沫を上げて跳びながら、ウィンフレッドもそのままそこで立ち止まる。
「俺も足がはまった。ちょっと待っててくれ」
言いながら岸に届かず川の中に浸かった己の片足を指し示す。そしてブロンドの騎士と同じくその場に腰を折った。
それを見下ろす人間の周囲の空気が瞬時に変わったのを、兵士は兜の奥で確かに感じていた。
「……すまない」
小さな呟きと共に、すらりとその人物の腰の剣が抜かれる。
同僚の変化に気付かなかったのか、ブロンドの騎士は足を引き抜こうとそのままそこにかがんでいた。
それに構わず、大柄な騎士はさらに己の剣を斜めに高く振り上げる。
さながら二人は、首を落とす処刑人と差し出す罪人の位置にいた。
そして。
大柄な騎士の剣が、空気を裂いて一気に下方へと振り下ろされる。
足が動かせぬブロンドの騎士の、うつむいた瞬間できた鎧と兜の隙間。その首筋を狙って。
ガキンと、金属と金属が激しくぶつかり合う音がした。
「……!」
振り下ろされた剣は、描こうとしていた軌道の途中で止まっていた。
獲物の首を切り落として止まったのではなく、横から伸びてきた別の者の剣によって、ギチギチとその場に押さえられている。
目の前で散った剣劇の火花に、顔を伏せていたブロンドの騎士は驚いたようにばっと頭を上げた。
事を成そうとしていた者は、冷静ながらも瞳孔の開いた目で己の業に割り込んだ者の姿を見つめる。
その刺すような視線の先にいる者。
先程まで川の中で足が泥にはまったふりをしていた兵士は、相手の剣を押さえながら、その先にいる大柄な騎士にこう言葉で返した。
「どっかでうまくいかないって悟ったんだろ? 手つきに迷いがあったぞ」
振り下ろそうとしていた剣とそれを下から押さえる剣。つばぜり合いになっていた二つがお互い弾き合う。
剣を交えていた二人はそのまま距離を取り睨み合う格好になった。
未だ事態が飲み込めないとばかりに、ブロンドの騎士はその場で頭を巡らせる。
同僚の狼狽に構わず、大柄な騎士は淡々とウィンフレッドに切り返した。
「ああ。お前が私達を助けに入ったときだ。余計な邪魔が入ったと思った」
立派な剣を構え直しながら、絞り出すように放たれた言葉に、ウィンフレッドは半ば呆れたような、それでいて冷静な視線を相手に向ける。
「ただでさえ奇抜な鬼ごっこの途中なんだ。この色男にどんな恨みがあるのか知らないが、復讐は森を出るまで後回しに出来なかったのか?」
「……」
「決闘は正面から正々堂々と。それが騎士道ってもんだろ?」
二人の間で、ようやくぬかるみから足を引き抜いたブロンドの騎士が立ち上がる。
その顔は青白く、異形に襲われていたとき以上の驚愕を刻んでいた。
「どうして……」
剣を構えたままの大柄な同僚の姿を放心したように眺めながら、やっと喉から声を出す。
大柄な白銀騎士は、その言葉に数秒固く目をつぶって。しかし真顔になって頭を上げると、同僚ではなくウィンフレッドの方に視線を向けた。
「騎士道か……。そう言うそちらも騎士道を学びながらその道を踏み外した裏切り者だろう? 顔を隠していてもその剣筋ですぐ分かったぞ。異大陸で我が国の兵を三十人も斬った大罪人よ」
目を見開いたまま、ブロンドの騎士が今度はウィンフレッドの方に驚愕の視線を向ける。
「……」
自分を見つめる二人の騎士の視線に黙したまま。兵士はただ街頭警備の兵卒に与えられる質の悪い鉄剣の柄を握り直した。




