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龍とたてがみとギャラクシア  作者: 雨野グッピー


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第41話 疑いと欲望

 降りしきる雨の音。


 彼女は空を見上げて言っていた。


「王城で迷子になる王女なんてびっくりでしょう? でもこの広い城には未だに慣れません。つい昨日まで、暑さも寒さも厳しい田舎で弓を担いで野を駆け回っていた身です。それが王女などと……自分でも不思議なくらいです」


 そう、宮廷にやって来たばかりの王女は呟いた。

 同じく宮廷にやって来たばかりの魔術師は、跳ね上がる髪から雨粒を垂らしながら、不思議な気持ちで聞いていたものだ。


 後に歴史に刻まれる代替えの日は、こんなふうに過ぎていくのかと妙に悟った気持ちで。




 白い石のアーチから差し込む強烈な光が、道行く者の目を眩ませる。

 手の平に小さく黄色い逃亡者をおさめながら、ダリオは昼の宮廷を歩いていた。


 視線を床に落とし、半ばうなだれるように回廊を行く。 

 胸の前に掲げる手の中で、腹を空かせた雛が絶えず鳴きわめいていた。


 しかし甲高い鳴き声は今は魔術師の耳に届かず。ダリオの頭は先のミレイア王女の言葉ばかりを繰り返していた。


『ダリオ、もしレオナルドが、あなたに……』


 雛を抱え広場を去ろうとする魔術師の背に、弱く放たれた言葉。

 レオナルドという名を口にした瞬間の、苦悩に満ちた瞳。


 久々の弓の試合に活力を取り戻していた王女の目が、その一瞬映していた光をすべて失った。


 何を言いかけたというより、何か途方もない覚悟を固めた後のように切ない瞳の陰りが、ダリオをそのときに縛り続ける。

 何を言いかけたにしても、それはきっと彼女にとって胸を裂くように辛いことだったのだと、思い至ってしまうから。


「……」


 回廊を吹き抜ける風が、ダリオの手の中でまっすぐ前を向く雛の毛を揺らしていく。

 太陽は眩しく昼の庭を照らすが、その下にいる魔術師の心はすでにその景色から離れつつあった。


 ……宮廷魔術師になった頃、ミレイア王女と初めてこの城で会ったときのことを覚えている。


 ダリオは城で迷子になっている途中だったが、ミレイア王女もまた、ダリオと同じく城で迷子になっている途中だった。


 その日は珍しく雨が降っていて、王女は不安げに周りをキョロキョロするお付きの者達と一緒に、回廊で雨宿りしていた。


 庭で迷っているときに雨に打たれたのか、その髪からは雫が垂れ、ドレスの肩は黒く濡れそぼっていた。

 それでも、同じくずぶ濡れ迷子になっていたダリオに、彼女は穏やかに微笑んだのだ。


 唐突に出会った迷子の王女に、新米宮廷魔術師は最初はひどく驚いた。


 しかし大陸中探しても類を見ないだだっ広い城に、たったの数時間しか暮らしていない身なら迷って当然だっただろう。

 ミレイア王女もダリオと同じだったのだ。


 新しい地位、新しい居所。

 その日から始まる未知の暮らし。

 彼女が王女になった日。


 そこにダリオは立ち会った。


 貴族でもないダリオは音に聞いていただけだったが、ミレイア王女が王城に来る前まで、この宮廷にはかなり厳しいときが流れていた。


 そう、先王の時代。

 彼の王の時代は大変だった。


 猜疑心の強い王は、自らの血縁も外戚も玉座を狙うハイエナとしか考えられないような疑り深い性格をしていたという。


 そのために、自分の周りを絶えず『浄化』していたのだ。

 度重なる粛清で、王弟も王子もずいぶん死んだ。王家の血を引く娘は遠く国外へ嫁がされた。


 すべては、彼の玉座への執着に漬け込んで操り続けた宰相の手の平の上だったという。


 そしてその宰相というのは、先王亡き後もこの城に堂々と居座り宰相を続けているのだ。

 イクリプス。血で血を洗う王位争いの本当の勝者は、王族でもないその人だったのだから。


 何にせよ、先王の『浄化』の結果、王の血縁はずいぶん数を減らした。

 そしてその争いの末、最後に残されたのが現国王と一人娘のミレイア王女だったのだ。


 現国王と王女が即位のためにこの城に入ったのは三年前。ダリオが宮廷魔術師として抱えられたのとほぼ同じ時期だった。


 つまり二人は元々その地位に就くべき者としてかなり遠い場所にいた。

 現国王は、兄弟の多かった先王の末の弟。

 王位継承順が低い故に、王城に入る前は内陸の片田舎の王領を与えられ、半ば島流しのような扱いを受けていたという。

 ミレイア王女もまた、父と共に厳しい環境で暮らしていた。


 しかしその不遇の生活の末に玉座を得たとはいえ、新しい王と王女を取り巻く環境は決して易しいものとはならなかった。


 人々は口に戸を立てず言う。

 レオナルドが銀河の魔術師になれば、この国は宰相イクリプスのものになる。そうすれば現国王の地位はいよいよ脅かされると。

 宰相はこのときのために、気の優しい王を仮初めの玉座に座らせ時間を稼いでいたのだと。


 そう、貴族達は楽しそうに舞踏会の余興の合間を埋める。


 正直その類いの話には辟易していた。そんなわけないと耳を塞いでいた。

 しかし……。


 回廊を叩く杖の音が、コツンコツンと力を失くしていく。

 うつむきながら肩を落とし、ダリオは半ば立ち止まりそうなほどのろのろと足の運びを緩めた。


 ミレイア王女のあの目と、あの日睡蓮の池のほとりで暗殺を逃れたときのダフネの瞳が重なる。


 聖典ギャラクシア。

 まさに天下の分け目となる魔導書。世間一般には、未だどこを探しても発見できないということになっている遺物。


 しかし聖典は今まさにこの国のどこかにある。そして宮廷に暗殺者を放てるだけの力を持った権力者が隠している。


 あの日のダフネの言葉はダリオの胸にしまわれたまま。他の誰にも不用意に漏らすことができない。

 ……誰が敵か味方か、知らない内は。


 聖典の存在を知るダフネに刺客を送っている人物と、聖典を隠している者は恐らく同一人物だろう。

 それならダフネを守るためにその暗殺者と戦っているレオナルドは、聖典を隠している黒幕の正体を知っているはずだ。


 それがもし……。


 考えてみれば、その人が黒幕ならすべて辻褄が合う。


 聖典の存在を手柄にせず隠しておきたい人物。銀河の魔術師の誕生を阻みたい者。

 そしてレオナルドが今まで表沙汰に出来ず、影で対処するしかなかったほどの権力者。


 つまり、表沙汰になってしまえばこの国の根幹が揺らぎかねない人ということ。それはすなわち……。


『……レオナルドが聖典ギャラクシアを手にすれば、いよいよイクリプス公の天下になる。可哀想だが、陛下とミレイア様はすぐにでも追い落とされるだろう。それを厭って、陛下とミレイア様がギャラクシアを隠しているという噂もあるくらいだ』


 何だかんだであの大臣補佐の言葉はダリオの心を縛り続けている。


 ギャラクシアが見つかって一番困る者は、現国王とミレイア王女だと言うこと。

 あの男に言われる前から理解はしていた。

 穏やかな王が、それを実行に移すとは思えなかっただけで……。


 それならダフネの命を狙っている相手と言うのはおのずとその人ということになる。


「……」


 光差す回廊で、ダリオは今度こそ立ち止まって目を伏せる。


 政争という壁の前では、どんな思い出も無意味だ。人情を捨てなければ、どちらかがとって食われる。

 もし王女が、涙を飲んでそれを実行していると言うのなら……。


 そこまで考えて、ダリオは大きく頭を振る。ただの憶測と現実を振り分けるように。


 レオナルドが帰ってきたら、これからどうするか話し合わなければ。


 そうだ。何も知らず一人妄想にふけったところで何もできない。今は……。


「いてッ」


 ふいに指先に走った痛みに、魔術師はようやく現実へと帰る。


 立ち止まったダリオの指に、腹を空かせた雛が食いついたのだ。

 物思いに沈んでいた魔術師の指は、いつの間にかオレンジ色のくちばしの中に三分の一ほど飲み込まれていた。





 黒銀騎士の団長は一人、ランプの明かりを灯した天幕の中でチェスの駒をもてあそんでいた。


 勝利が確実になるそのときが近付いている。それまでの怠惰な時間が過ぎていっていた。


 これが戦場なら同胞と共に馬を駆り勝利を告げて回るところだが、表沙汰にできない隠密の勝利ではそうもいかない。


 暗殺に成功したときは、ただ一人酒杯を傾けて祝うのだ。


 自分の胸の内にだけ留めた悦び。しかし他の誰にも味わえぬ愉悦。

 それによってまた一歩、より大きな栄光への道を進んだことを噛みしめながら。


 一人の宰相を天の頂へと押し上げる。

 易い道ではなかったが、確かに階《きざはし》をのぼれば見えてこない道でもなかった。


 政敵を潰す、邪魔を排除する。

 今日もまた一つそれを完遂したのだ。


 貴族達の旗は今や完全にイクリプス公の方になびいているが、愚かな白銀騎士達はそうではない。


 あの気の優しい王がうまく懐柔したものだ。

 慣習で縛ったか褒美で釣ったか知らないが、弱りきった玉座の主が未だに国一の精鋭達に忠義を捧げさせているのだから。


 特にネバード。古くさい騎士道とやらに固執する王の犬。

 上にも下にも影響力のあるあの男に、いつまでものさばってもらうわけにはいかなかった。


 新兵器の実験にかこつけて王を擁護する白銀騎士を消す。

 『組織』から提案されたときは正直半信半疑だったが、これほど上手くいくとは思わなかった。


 もともと狩りという遊戯は、浮かれた連中に手を下せるまたとない機会だ。

 武器を持ちながら消したい者と共に暗い森に入り、ことが終わればすべてを隠せる絶好の仕事場。


 現に今まで幾人か、邪魔者を事故に見せかけこの湿地に沈めてきた。

 その度密かに傾けた酒杯は何杯になるか。もうよく覚えていない。


 そして、今度の狩りの成果はそれ以上だ。


 玉座への道を確かなものにする勝利は、白銀騎士達の屍の先に確実に近付いてきている。


 長い道のりだった。しかし重ねた苦労の末、日食の王を戴いて催される宴は、それまでの密かな祝杯を忘れさせるような絢爛なものになるだろう。


 しかし……。


『今年は狩りにちょっとした余興をもうけられたとか。新兵器を試されるそうですね』


 記憶の底からよみがえってきた言葉に、黒銀の騎士は思わず手にする駒を握り潰しそうになる。


 そうだ。この狩りが始まる前に自分を訪ねてきたあの黒衣の魔術師。

 その言葉がどうしても頭を離れない。


『魔術も通らないし、剣で断つこともできない不死身の兵士達。しかもそれを一人の人間の意思で一括して動かすことができる。まさに完全無欠の兵器。……しかしどんな優秀な兵器を用いたとしても、それを使う頭が愚鈍ならそれこそが最大の脅威になる。大振りな刃は、それを正しく使える力のある者が振るわなければ自らを断つだけ……』


 そこでやつの言葉を遮った自分を今は少しだけ恨めしく思う。


 聞き出さなければならなかった。 

 何をするつもりなのか、徹底的に読まなければならなかった。


 あの男には、いくらでもこの狩りの邪魔ができる。


 どういうつもりかは知らないが、あの魔術師は昔からネバードと懇意にしていた。

 それこそやつが獅子の魔術師になる前からの付き合いだという。

 多くの貴族のもとを養子として転々としていたレオナルドに、足りない作法や剣術を教えてやっていたのがネバードだったとか。

 ネバードはレオナルドにとっての、魔術の外での師だと言えるだろう。


 その師弟関係を保持するためにレオナルドがこの狩りの邪魔をしたとしても、イクリプス公は易々あの男を罰したりはできない。

 それを笠に着て、レオナルドは今まで散々好き放題やってきた。


 だから今度も何かしてくる。そう思っていたが……。


 しかしやつが庇うと踏んでいたネバードは、兵器の襲撃にあってあっさり死んだ。

 つまり老騎士は、今まで散々世話をしてやってきたレオナルドに見放されたのだ。


 黒き魔術師は、単純に一人の恩人の死を見てみぬふりしたわけではない。

 白銀騎士達の敬意を集める老騎士の死は、それだけで王にとって大きな痛手となる。

 それをレオナルドは看過したのだ。


 頭が愚鈍なら云々の発言はまだ引っ掛かるが、この狩りにやつが手を出してくるというのは、今の時点ではただの杞憂かも知れない。


 そうだ。今さらどんな横槍を入れてきても遅いのだ。それはやつも分かっているはずだ……。


 一つ頭を振って、騎士はその手の中の駒を卓の上へ放り出した。


「そのまま素直にイクリプス公の覇道に従え、レオナルド。この争いの前に人情など無意味。イクリプス公も俺も今回は本気だ。……王は落ちるぞ、黒き魔術師」


 一人呟きながら、騎士は卓の上に伏せて置かれていた小さな額縁を静かにひっくり返す。

 そしてただその場の空気に吐き出すように、どこにいるか分からぬ黒衣の魔術師に向けてこう囁いた。


「お前もあのとき思い知っただろう、獅子の魔術師よ? 情で繋がり半端に自分のものにしたところで、相手の思惑にお前が沿わねばいつかは裏切られる。欲しいものは完全に征服しなければ意味がないと」


 表に返った額縁の中には、古風な深緑のドレスを着た若い女性の肖像画がおさめられていた。


 そして。

 黒銀の鎧の騎士団長の指は、その絵画の女性の輪郭をゆっくりとなぞり始める。

 絵の中の彼女の頤を持ち上げようとするかのように、その顎に筋張った指を沿わせた。


 その姿を天幕の端からじっとりと眺めている副官に、その上司は絵から目を離すことなく呟く。


「下衆を見る目だな」

「いえ。……何年経ってもお変わりがなく何よりです」


 絵の人物が何者か、すっかり承知の彼は言葉と裏腹に今にもため息をつきそうな声音で上司に返す。


 騎士団長ヴィクトルはその言葉にさえ歓喜を感じるとばかりに、野生的な髭の囲む口元を緩めた。


「そう蔑むな、ドン・クラーロ。夢がある話だろ? 長年ただの騎士だった男が、王族の娘を妻にするんだ。元王族の娘を、な」

「……」

「今度こそ得るべきものを得るだけだ。……海を渡ってまで俺の邪魔をしたあの男にも、俺の勝利を見せつけてやるときが来た」


 そのままヴィクトルは肖像画を両手で抱え、完全に絵の中の人物に神経を注ぎ始める。


 最早言葉の届かぬ上司に背をむけ、副官ドン・クラーロは今度こそため息混じりに彼の天幕を出た。


 しかしそのとき、


「あれは、アラリコ……?」


 与えられた自分の天幕から出て、何やら慌てた様子で森の中へと走っていく魔術師の姿に、ドン・クラーロは即座に目をつける。


 焦る後ろ姿を騎士に目撃されていることにも気付かず、モノクルの男は灰色の霧の中へと大急ぎで消えていった。





 垂れ込めた霧がのろのろと湖面を動いていく。

 魔法陣を抱く洲の境界で、魔女と老騎士はそれぞれまったく異なる表情を浮かべながら向かい合っていた。


「この森の中で唯一、ここは現実の世界。いや正確に言えば、限りなく現実に近い幻覚の中だ」


 魔法陣の前に立つ老騎士が、白い髭を揺らしながらそう呟く。

 どこまでも落ち着いたその言葉に、ピエドラはひたすら戸惑っていた。


 森の中で唯一の現実の世界? しかし正確に言えば幻覚の中って……。


 そしてその誰にも見えない現実な幻覚の世界で、この男性は他の白銀騎士から姿を隠しているのだという。自らを死んだと思わせるために。


「ここは何なの? あたしは、どうしてそんな場所に……」

「この森に、いいやこの一帯に踏み込んだ時点で、すべての人が深い幻覚に陥る。この霧が見せる幻惑は五感を支配し、人々の記憶を操る」


 その一言に、目の奥が開いていく感じがした。

 あのとき、あの黒衣の魔術師はピエドラにこう言ったではないか。


『――高次の幻覚は視覚だけでなく、五感を支配する。記憶だって書き換えられるんだ』


「……」

「君は今まで見ていた幻覚から抜け出して、この場所へとつながる道を進んだのだろう。ここへ来る前と後で変わったことはなかったかな?」


 騎士の言葉を受けながら、ピエドラは手の中の薬瓶を持ち上げる。

 相変わらずそのラベルはボロボロになったままだった。いや、ボロボロになったというか、元からこうだったのか。


 ようやく自分の前に姿を現した時間の経過を眺めながら、魔女はふと直感する。


 これがこの瓶の本来の姿。

 湖上の村で見ていた真新しい姿こそ虚構だったのだと。

 深い霧が、ピエドラの五感を見事に書き換えていたのだと。


「幻覚を見せる……記憶を操ることで、人々は同じ場所にいながらまったく異なる道を歩む。それこそ世界を隔てるように。この霧の中にいる者達は、それぞれ別の世界を見ているのだ」


 淡々とした言葉を聞きながら、魔女は薬の瓶から顔を上げ、改めて周りの景色と目の前にいる騎士の姿を見る。


 現れた浮き島。少しだけ変わった景色。消えた自分以外の人々。出会った立派な騎士。その背にある魔法陣。


 後ろから自分を飲み込んだあの目映い光が、ピエドラをこの世界に振り分けた。


 正直未だ信じがたいが飲み込むほかない。

 それが出来る人物が、自分の背にぴったりくっついて歩いていたのだ。

 今から考えれば、彼は言葉の端々で十分前フリしてくれていた。


 騎士が背にするあの魔法陣は多分、その幻覚を作り出すための装置の一部だろう。

 魔女は誰かの作り出した……誰かというか、多分あの黒衣の魔術師が作り出した幻影の中にいた。

 何も知らず、彼が見せる幻影の森の中を歩いていたのだ。


「その幻覚の中から、あたし達だけは現実に帰ってきてるってこと……?」

「ああ。より深い幻覚から覚めて、真実の世界を見ている。……と言っても、ここはほぼ現実の世界ではあるが、より深い幻覚を見ている他の者の姿を見ることはできない。そういう点でいくとここもまた幻の中なのだろうな」


 これまた飄々とした答えに、魔女はただ眉間のシワを深くする。


 つまり姿の見えなくなったウィンフレッド達は別の幻覚の中にいて、ここからは交信がはかれないということだ。

 故にどれだけこの『世界』の森に入ったところで、別の幻覚の世界にいる彼らと出会うことはできない。


 途方もない話に、ピエドラは今度こそその場にへたり込みそうになる。


 しかしまだそうすることはできないと思い直して、再び足に力を入れた。

 魔女の瞳にはもう一つ、この状況と同じくらいの怪異が映っているのだから。


 そう。出会った老騎士の異様な落ち着きっぷりだ。


「しかし一人で退屈していた所に魔女の道連れができるとは、これは僥倖。お嬢さん、退屈しのぎに私の若い頃の武勇伝でもいかがかな?」


 表情を険しくさせていくピエドラの視界の隅で、腕を組んだ老騎士は呟く。

 気の抜けるようなその態度に、魔女はますます眉間のシワを深めた。


 この怪異を押し固めたような異様な世界に、彼はどこまでも馴染んでいたから。


 変わらず濃く垂れ込める霧が、湖の上を暗い灰色に染めている。浮き島の両脇を埋める黒い水面には、波一つ立つことはない。


 その中で、ただ目の前の騎士の声だけが弾んでいる。

 自分が幻覚を見せられていると知っているのに、彼はまるで何かを悟っているかのように穏やかで。


 ……つまり彼は、この霧の中で何かを仕掛けている側の人間なのだろう。


 単純に事に巻き込まれたピエドラと、彼の立っている場所は同じではない。

 だからこそまだ油断できないのだ。


 騎士の後ろの魔法陣は、相変わらず涼しい気を霧の中に放っている。


 彼……老騎士ネバードは、新兵器の実験とやらが行われているこの森で、その上を行く何かに関わっているのだ。

 恐らくこの騎士は魔術師レオンの仲間だ。


「君も早く森から出たいだろうが、どうかしばらくここで待っていてほしい。ことが終われば必ず無事に帰れるよう手配しよう」


 格好からピエドラをただの森の遭難者と思ったらしい騎士は、出会ったばかりの魔女にそう提案してくれる。


 そしてもう一つ、そこに気になる脚注をつけてくれたのだ。


「もう少しの間、この霧が見せる虚構が必要なのだ。……私が『死んだ』ことで、ようやく炙り出せるものがある。森を闊歩する兵器などより恐ろしいものが、もうすぐ見えてくる」

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