第39話 湖岸の探険と踏み入る真相(2)
数々の異形との戦いを越え、一行は湖の岸に沿ってずいぶん森を歩いてきていた。
変わらず魔女が杖を持つ左手側には、葦の原の先にたたずむ暗い湖面が見えている。
盆地の要塞を出てから、どれくらい時間が経っただろう。もう正午は過ぎただろうか。
ならば真上にあるはずの太陽は、この霧にほとんど遮られているのだろう。
変わらない光量の中、終わらない同じ景色の中を歩かされているようだった。
そこへ例の金属の骨も襲いかかってくるのだから、もうこれはほとんどすべての痛覚を実感できる悪夢の中にいるのと変わらない。
しかしここまで結構歩いたはずだから、もうすぐ騎士達がテントを張っているとおぼしき森の切れ目が見えてくる頃だった。
そこを越えれば、あとは要塞まで平坦な盆地が続いているだけだ。
しかし魔女がそうやって肩を落としながら湖面に視線を注いでいると。
「新手を警戒してるのかい?」
斜め後ろから掛かった声に、ピエドラはやっと陸の方へと意識を戻した。
もうすっかりお馴染みとなった困り顔の魔術師が、霧の中から姿を現す。
ピエドラのとなりに並んだレオン青年は、魔女と同じ湖の方に穏やかな視線を投げた。
金属の異形達は水の中からも上がってくる。レオンは魔女がそれを警戒していると思ったらしい。
しかしそんなことには言われて改めて気付いた。そう言えばその心配をせねばならない。
「幽霊船にいたあの魔導機構達はどうなったの?」
「全部片付けてきたよ。だから湖に潜んでる個体はだいぶ少なくなったはずだ」
至極当然そうな答えが返ってきて、ピエドラは改めて警戒せねばならないのが湖の中だけでなく、すぐ側にいる魔術師であることを知る。
口を引き結んだ魔女の様子に気付かなかったのか、レオンは湖面の方を眺めながら黒いローブの肩をすくめた。
「突然湖からあんな船が現れて、驚いただろう?」
「まあ……少しだけね。大きな船があるってことは、この湖から海に出られるの?」
「いいや。周りの川が浅いからあの船じゃ海には出られない。……あの幽霊船は、湖の廃村に住んでた魔術師達が海洋の冒険に焦がれて作ったものだ」
意外な事実に、魔女はしばらくその場で瞠目する。
あの不思議な帆船は、かつて湖の村に住んでいた魔術師達がその技術の粋を集めて造り上げた夢の船。
だからこそ、どういう原理か知らないが湖の底から浮かび上がってくるという驚きの登場をしてくれたのだ。
そして。かつて魔術師達が海に出られぬ湖に船を浮かべるという酔狂を発揮した理由というのが……。
「村には厳しい掟があってね。住人はなかなか外の世界に出られなかった。だからこそ、彼らはまだ見ぬ広い海原に強い憧れを抱いていたんだ」
相変わらず霧深い湖の上を眺めながら、黒衣の青年は淡々と語る。
何故だろう。彼がその話をする間中、後ろから刺さる爬虫類の目の魔術師の視線が少しだけ鋭くなったような気がした。
どうやらレオン青年はこの森の実験に関わりがあるだけでなく、湖の廃村についても詳しいらしい。
村の出身者かどうかは知らないが、村に出入りはしていたのだろう。そう想像できるくらい詳細に、村が生きていた頃のことを知っていた。
だからこそピエドラは彼の言葉に、新兵器の実験以前にこの一帯が特殊な環境にあったことを知ったのだ。
同じイクリプス領にいたのに、ピエドラはそんな不思議な村があったことも滅びたことも知らずに過ごしてきた。
「魔術師……」
「え?」
深く思考に沈んでいたからか、不意に訪れた次の質問に、もう少しで魔女は不用意に顔色を変えてしまうところだった。
むしろそこからが本題だったのだ。
「その薬はあの子のために?」
薬の瓶を持つ魔女の右手に、黒衣の魔術師の視線が刺さる。
そう、ピエドラが例の湖の廃村から持ち出した特殊な薬の小瓶に、レオンはその青い瞳を注いでいた。
ピエドラの足が、一際緩い地面を踏んでボチャッと音を立てる。
流石、前を行くウィンフレッドはレオンの言う『あの子』がソルのことだと分かっただろうが無反応だった。変わらず先頭を歩きながら、黙々と茂みをかき分けていく。
だからピエドラがここで変なボロを出すわけにもいかなかった。
「城で一緒にいた縮れ髪の女の子のことを言ってるんでしょ? あの子は偶然同じときに魔女狩りに遇って、偶然同じ方向に逃げた赤の他人で、それ以外のことは何も知らないわ。今は一緒にいないし、どこへ行ったのかも分からない」
「……」
「この薬は、高く売れるって聞いて廃村から持ち出しただけよ」
咄嗟に絞り出したピエドラの言葉を彼が信じたかどうかは知らない。しかし黒衣の魔術師は「そうか」と言ったきり、それ以上何も聞いてはこなかった。
その様子に、ピエドラはほっと心の中で息をつく。
彼のことを、信用が置けない人間とは思わない。しかし明確に何者か分からない限りは、ソルが臥せっていることは口外しない方がいい。
悪魔の城では油断してしまったが、聖典が関わる以上、どんな些細な情報の流出が大惨事につながるか分からないのだ。
それにソルはこの青年を避けていた。
そんな人物に、弱った彼女の所在を知られるわけにはいかないだろう。
しばらく魔女と魔術師の間に沈黙が落ちる。それでその会話は完全に打ち切りだった。
それ以上の追及が止んだことに改めてほっとしながら、魔女はその存在を確かめるように、片手に持つ薬品の瓶を己の目線まで掲げる。
液面を絶えず七色に変えていく解毒薬は、いまだピエドラの手の中で、灰色の景色にその存在をはっきり浮かび上がらせるように薄っすら光輝いていた。しかし。
あれ……そう言えばこの薬の瓶なんか変だ。
村の薬師の家から持ち出したとき、こんなにラベルがボロボロだったか?
少し見ない内に急に経年劣化の跡が浮かび上がってきたみたいに、描かれた文字や魔法陣がかすれ、瓶に巻き付いたラベルの端が茶色く剥がれかかり始めている。
いやそもそも、十何年も放置されている場所に置いてある薬を、何故一目見たとき古いと思わなかった? あの薬師の家……いいやあの村自体が昨日まで人がいたかのように綺麗だったからか?
そして。薬を掲げながら一人混乱するピエドラの様子を斜から眺めていた青年は……。
「こういう霧の出ているときは、真実と嘘が混じりやすい」
「え?」
「何が本当に自分の見ているもので、何が本当にそこにあるものか、分からなくなるんだ。感覚さえ、意識が滲んで潰れるように閉じていく」
脈絡のない突然の話題に、ピエドラは瞳を瞬く。
「霧の中だと、幻覚を見やすいって言いたいの?」
「ああ。通常では考えられないような高次の幻覚に陥ることが多い。そしてその高次の幻覚は視覚だけでなく、五感を支配する。記憶だって書き換えられるんだ」
「……」
そこで初めて、青い瞳とまっすぐ見つめ合っていることに気付いた。
気付いた瞬間、葦の向こうに広がる遠い水面が小さく波立ったことにも。
そして忘れかけていた感覚が、再び魔女の足下をとらえたのだ。
引き潮に足を浸しているみたいに、体がその力の流れてきた方へ持っていかれそうになる、あの不思議な感覚が。
そう、あの幽霊船の甲板で味わったのと同じ。その魔術師の前に立ったときだけ現れる得体の知れない線の上に、ピエドラは再び立たされていた。
そして。
「こんな実験に巻き込んで、本当に申し訳ないと思う。でもこの実験場を騎士以外の人間が生き残ってるなんて、俺も予想外だったから」
何故、青年は今そんな話をするのだろう。
理解の追い付かない内に、淡々と語る一言一言が、やけに重く空気を揺らす。
視界の奥にいる爬虫類の目の人物が、幽霊船の甲板にいたときと同じように、青年の後ろで身構えるのが分かった。
その間にもじっと、青い瞳はこちらを捉え続ける。
その視線の先で、何故か魔女の心の内も、水面に小さく泡が浮かび上がってくるように静かに沸き立ち始めていた。
……ああ。もう少しで、この暗い森を無事に抜けられたのにな、と。
二人の間を風が吹き抜けた。
静かに見つめ合ったまま、緊張はいよいよ極限へと高まっていく。
霧の中では嘘と真実が混じる……。
それなら今まさにピエドラの前で、一つの虚構が崩れ去ろうとしているのだろうか。
親切な青年が隠していた本当の目的に、足を踏み入れようとしているのだろうか。
青い瞳をぼんやり見つめ返しながら、魔女は心のどこかでそう感覚していた。
そして――。
「おい、ちょっと待て」
声を発したのは、レオンではなくウィンフレッドだった。
何かを発見したらしい兵士が、魔女と魔術師の会話を片手で制する。
一行の先頭に立つ彼は、周りより少し土が盛り上がった、小さな丘のようになっている場所に立っていた。
そしてその上に生えた木の影で背を低め、丘の下から聞こえてくる音に耳を澄ましているのだ。
「誰か来る。追われてるぞ……」
木の影で身をかがめる兵士の後ろまで駆けていって、ピエドラもやっとそれを視認する。
霧が動いた。
その向こうに、暗い森の中から湖の方へと、ひたすら息を切らして走ってくる者達が見え始めていた。
ガシャガシャと音を立てる骸に追われながら濃霧をかき分ける、白銀の鎧をまとった二人の騎士達だった。
……そして。その姿に気をとられていたピエドラは、また『彼』の細かい挙動に気付かなかったのだ。
逃げてくる者達を見守る魔女の後ろで、黒衣の魔術師がそっと森の影に身を引くのを。
その瞳が、去り際に自分の背を射貫いていたことも。
逃げてくる騎士を眺めていた魔女の後ろで、ピシリと何かが割れるような音がする。
続いて一帯を飲み込むような光の爆発が起こったとき、ピエドラはまだこの森に隠された真相に自分が触れてもいなかったということに、やっと気付かされたのだった。
カビ臭い倉庫の一角で、ランプの炎が瞬く。
その揺らめきに、ソルはそっと琥珀色の瞳を開けた。
横たわる敷布の上で軽く指を動かしてみる。
黒衣の魔術師が処方した痛み止めの薬が効いたのだろう。体が軽くなり、かなり気分も良くなってきていた。
すっきりした頭で、ここまで流れてくる魔力の気配を感じ取ることができるくらいに。
遠くから伝わる極めてかすかな、それでもその強さ故にこの要塞の地下まで届く膨大な魔力。
今世紀最大級、いいや史上最大級とも言える、あの黒衣の魔術師の魔力が、天井から舞い落ちるほこりと共にソルの鼻先まで降ってきていた。
その魔力が流れてくる方角というのが一体どこに当たるか思い至って、ソルは再び瞳を閉じる。
そしてつい先ほど『彼』を介して見た光景を思い浮かべながら、ほこりを運ぶ空気に向けて独り言のように呟いた。
「彼は、ピエドラ達の行った廃村に関わりがある」
『あのとき記憶を見たのか』
「……魔術師同士の接触は気をつけなきゃいけない。向こうも何か私の記憶を見たかもしれないけど」
寝転がりながらも年端のいかぬ少女の見せる強かさに、聖典の番人の老人はフサフサの眉を静かに上げた。
老人の言うあのときとは、黒衣の魔術師がソルに痛み止めを飲ませようと彼女を抱き上げたときのことだ。
圧倒的な魔力で圧す彼にされるがままになりながら、ソルは彼の持つ『あるもの』を狙っていた。
近付けば近付くほど、狙いやすくなるあるものを。
「多分お互いそのつもりだった。……悪どいもんだね。どっちもそれとなく相手の頭の中をのぞこうとしたんだから」
向こうは毒に臥せる少女の記憶を、こちらは自分を介抱しようとする男の記憶を抜き出そうとした。
それが罪でも悪でも、そうと知りながらどちらも自分のできる全力を尽くしたのだ。
……魔力を介した記憶の共有。
それはその場に残された魔力の残滓によらずとも、生きた魔術師同士の魔力でも可能だ。むしろそちらの方が詳細な記憶が見やすい。
もちろん、これも相当に修練を積んだ魔術師にしかできない技だし、これができる魔術師は簡単に相手に記憶を読ませぬ術も身に付けている。
現にソルが彼から抜き出せた記憶は一瞬のものだけだった。
特殊な毒に倒れたソルを見て、彼の中にたまたまその思い出が強く浮き出ていたのかも知れない。
――ソルが今まさに冒されている、魔力に干渉する強力な毒。
青年から抜き出せたのは、その解毒薬が彼の目の前で作られたときの記憶だった。
七色に光る液面。薬瓶を差し出す丸眼鏡をかけた小心そうな幼い顔立ちの薬師。受け取る白い手……。
確証はないが、それは今、魔女と兵士が薬を探しにいっている村で起きた過去の記憶に間違いないだろう。
兵士ウィンフレッドの話では、その村は今、誰も住まない廃村になっているとのことだった。
ということはこれはまだその村が、その住人達がそこで生きていた頃の記憶ということになる。
この要塞まで来て、黒衣の魔術師はその過去の記憶に苛まれていたということだ。
「問題は、その廃村の方から今、彼の魔力を感じるってこと……」
『……遭遇したかもな』
番人の老人の言葉が、カビ臭い空気に静かに落ちていく。
ソルはただ暗い天井に目を向けたまま、敷布の上で静かに小さな拳を握っていた。
……魔女と兵士をとんでもない場所に向かわせてしまった自分の軽挙に、唇の端を結びながら。
そして。
これは多分彼がわざとソルに見せた記憶だろう。
解毒薬の記憶の他に、鮮明に彼から見えた別の記憶があった。
それを頭に浮かべて、ソルは半ば自棄になったように吐き捨てる。
「……彼は盤上に乗ってるわけじゃない。盤面を上から見てる」
この盆地で起きることはすべて、彼の手の平の上だ。
いくら盤上に乗って勇ましく戦いに挑んだところで、最初から存在する次元を超越している者に勝てるわけがない。
だから……。
数時間前にここを出た、街頭警備の下級兵士とみすぼらしい魔女。
彼にとってあの二人は、完璧に整えられた盤上に現れた異物だろうか。そうだとしたら、彼は二人を……。
そっと瞳を閉じて、ソルは再びこの辺りを流れる魔力の気配に集中する。
まだあのみすぼらしい魔女の命があるかどうか、探し始めた少女は深い眠りに落ちるように、固く目蓋を閉じていた。
「何だ……これは……」
分厚いモノクルの側を、脂ぎった額から落ちた汗が横切っていく。
天幕の隅の卓に置いたランプの明かりが、男の焦りを煽るように大きく瞬いた。
彼が前にする、その卓を覆うほどの巨大な紙の上には、蛍の光のような淡い光の点が現れたり消えたり細かく点滅している。
その点滅が紙の至る所に点在したまま動かないのを見て、モノクルの男は勢いよく卓に頭を突っ伏した。
「何故だ! 何で急に……!」
光の点滅に頭を突っ込むように目を近付けて、男は両腕でがっと頭を抱える。
撤収を命じたはずの機械の集団が、その所在を表す光の点が、未だに森深くとどまっているのを、男は大いなる混乱と共に眺めていた。
ほんの数分前までは意のままだった魔導機構達が、今や全く言うことを聞かないのだ。
しかも搭載されている魔石から発される魔力の数がどんどん減っていく。
つまり機構達が自分の制御を逃れ、どこかで壊れていっている。もしくは……。
「まずい。まずいまずいまずい……」
弱く唇から声を漏らす男は、卓から頭を上げその場を行ったり来たりする。
ほんの一瞬前まで歓喜に震えていた手は、今や底のない絶望に突き落とされた衝撃に絶えず震え続けていた。
……モノクルの奥の見開いた目は、いまだたった一人の魔術師による盤上の支配を知らず。
そしてその支配者が愚かな死霊使いを潰しに来たことを、沸き上がる焦燥ゆえに思い至ることさえ出来ずにいた。




