第35話 再会と交渉(1)
そよぐ葦が凍って、一本の氷の道が彼を目的地へと導いた。
魔術師がその村に行き着いたのは、湖の幽霊船が金属の乗組員達を回収するという目的を遂げた後。船が湖の中程まで進んだ頃だった。
村へと続く跳ね橋を下ろす装置は壊れてしまっていたが、魔術師にはその村に入る別の手があった。
パキパキと、空気を割るような破裂の音が響く。
彼の後ろで、氷の橋は白雪となって一気に砕けていった。
散り行く冷気が黒いローブを大きくはためかせる。
それを背に受けながら、彼は元魔術師の集落の桟橋へと足を踏み出した。
その場に停滞した霧を、長靴の先が割いていく。
楓の杖と黒い衣を引き連れ、魔術師は水上の村を進み始めた。
霧に濡れた桟橋を叩く杖の音。ゆっくり運ぶ長靴の足音。
伏せていた長い睫毛をそっと上げ、己の行く先を静かに見据える。
そして一歩一歩、仮初めの静寂を破り始めた。
額縁におさまった絵画のように幽玄な湖上の村が、彼の歩いた後から色を失っていく。
景色が揺れた。滲み始めた。
立ち込める霧に溶け出すように、景観は一度ほどけて元の姿へと戻っていく。
魔術師はそれを振り返ることもなく、ただ前を目指して歩いていた。
浮き板の上の、おとぎ話から抜き出た幻想のように愛らしい小さな屋根の群れ。
そう見せかけていたすべてが、壁紙をはがすように魔術師の前と後ろで二分されていく。
滲んだ景色が再び一つになって現れたものは、この場所に訪れた凄惨なあの日を止めた地獄絵図。
潰れた屋根。折れた煙突。焦げ跡を残した壁。
魔術師の後ろに現れていくのは、湖畔にひっそり佇む、忘れ去られた静謐の空間ではない。
色濃く戦闘の爪跡を残した、水の上の墓場だ。
虚構と真実の前と後ろを、変わらず濃い霧が包む。
ある男の一言の代償に沈んだ、陰惨な怨念の溜まり場。
それを十二年隠すためだけに立ち込める霧を、魔術師の足はただ静かにかき分けて進む。
瑠璃色の瞳が見据えているのは、目の前を覆う灰色の向こう。
塗り潰せてもすすぐことは出来ない過去の記憶など、もう振り返ることもない。
すでに舟は出た。
ならば完成させなければならない。
完成させるのだ。
汚れきった魂を運ぶこの体を、果てまで動かし続ければいい。
そうすれば……。
桟橋を行く長靴を、霧の中から這い出してきた何者かの手がつかむ。
どうやらもう一つ、自分の他に村を彷徨うものがあったらしい。
この場所がそうさせたのだろうか。一瞬それは霧の中に現れた、贖罪の心が生んだ過去の亡霊のように見えた。
しかし違う。
眼窩に光の玉のような単純な目を宿した、黒い金属の骨。
湖畔に放たれた屍のような姿の魔導機構の頭が、腕に続いて霧の中から現れる。
魔術師はただ、それを凪いだ水面のような目で見ていた。
機械は、最早力の入らぬ導線剥き出しの手で、青年の足を掴み続ける。
すでに一箇所に引き上げていった仲間達から取り残され、壊れかけの体で今まで村を這いずり回っていたのだろう。
どこへも行けず、どこへ行けばいいかも知らず、ただもう少し動けるだけの動力に身を任せて。
魔術師を見上げる光の玉のような目は弱く点滅を繰り返していた。その姿はまるで魔術師を捕らえるというより、足にすがるといった格好で。
魔術師は静かに杖をついたまま、しばらくそれを青い瞳に入れていた。
しかし次の瞬間、骸は凍りついたかのようにすべての動きを止めた。
弱く点滅していた目が一度正常を取り戻したかのように強く光る。だがそれは終焉の手前の最後の輝きだった。
骸はしばらくギリギリと頭を震わせ、そして最早ただの金属にかえった体をゴトンとその場に放り出す。
その背には一本の光の矢が、背から胸へと深々と突き立てられていた。壊せぬはずの胸の装甲を、それでも高温の楔が貫いていたのだ。
機械に最後を与えた灼熱の矢を放った男は、ただ凪いだ瞳で動かなくなった金属の塊を見下ろす。
そして一筋、淡い色の髪を揺らすように吹いてきた風にふっと目を細めた。
見はるかす湖の向こう。そこで停滞した霧が大きく動くのが分かった。
霧を動かし、流れてきた魔力の気配は……。
この物語の結末を、終焉がどこかを、この願いにかけたあの日から疑ったことなどない。
人一人の力ではどうしたって変えようもない最後を、この瞳は知っている。
ならば毎度驚くような場所で出会う、あの不思議な魔術の使い手もこの物語に予定された端役。取るに足らない数行を埋めるためだけに用意された人物のはずだ。
ゆっくりと、魔術師は魔力の流れてくる方に目を凝らす。
単純な好奇心だ。彼女がこの物語にどう関わる端役か知りたいだけ。それさえ知っていれば、もう伝承に欠けた所はなくなる。
軽く杖をつき、魔術師は再び湖に氷の橋を架けた。
変わらず濃い霧の向こうには、未だ姿の見えないその船が浮かんでいる。
それが運ぶ運命の行く末をすでに知る青い瞳は、後ろに残す無惨な村の様子も振り返らぬまま。自らの作り出した氷の橋を渡り始めた。
森の際の天幕の中で、二人の男はチェス盤を前にして向き合っていた。
黒銀騎士団の紋の入った旗が頂点に飾られた、その陣営の中で一際大きな天幕。その入り口には、黒い甲冑を着た精悍な顔付きの騎士が二人警備に立っている。
それがこの騎士団の団長のため用意された特設の天幕である故の警備だ。
しかし精悍な騎士達の守る、その白い幕の中に響くのは……。
「白銀騎士で新兵器のテストができるとは、愉悦の極み! 戦果も上々だ! これならいつでもどこの国でもすぐに戦場に投入できるぞ!」
長いローブを着たモノクルの男の、爆発するような歓声。
それに加えて声の主はにんまりと顔を上気させると、肩まで上げた手で空気を揉むように指を忙しく動かす。
興奮の坩堝にいるモノクルの奥の目が、天幕の内部を照らすランプの明かりを増幅させるようにギラギラ輝いていた。
その男の奇妙な動作を前に、正面に対する黒銀騎士の長は顔色一つ変えずに目の前の盤面を見下ろし続ける。
「最初は少し疑いもあったが、大したものだな。前線に出た兵器に遠くから指示が送れるとは、一体どのような仕組みだ?」
いかにも素人を装っておだてる言葉に、しかしモノクルの男は興奮気味に鼻の穴を膨らませた。
「これが新しい時代の戦い方さ」
騎士団長の言葉には正面切って答えず、にんまりと怪しい笑みを浮かべる。
あからさまに秘密をちらつかされても騎士団長は特に憤慨する様子も見せず、淡々と盤面に手を伸ばした。
「この任が終わればイクリプス公も貴殿にそれなりの地位を用意されるだろう。今年の獅子の魔術大会は、対戦表のいい所から出られるんじゃないか?」
「ふん。そんな便宜を図られずとも、卑怯な手を使う魔術師と当たりさえしなきゃ俺は本戦まで進める腕があるんだ」
言いながら勝手に思考の澱に沈んだのか、モノクルの男はだんだん機嫌を悪くしていく。
先程の喜色満面から一転、何か心に刺さる記憶を思い出したのか、額に浮かんだ青筋がはち切れんばかりに顔面に怒りをあらわにした。
「ああ、忌々しいダリオ・アンヘル! 魔術師貴族の血統もない卑しい奴め! イクリプス公の世の完成のあかつきには、ああいう輩はまとめて縛り首だ!」
それが前年の大会で自分を負かした魔術師の名なのか、歪んだ唇で何度もその名を口に出す。
モノクルの男が興奮してしゃべる度に、幾何学的な木の模様を刻んだその腕のバングルがバンバン卓を打った。
「王に気に入られようと必死の青二才め! あろうことか女を大会に招き入れるような愚かな真似をしやがって! 見ていろ、いつかその身に今までの愚行の代償を刻んでやるからな!」
卓を殴る感触に酔う、その男の起こす振動をものともせず、騎士の長は彼の前で優雅に腕を組む。
獅子の魔術大会での女子への出場制限の撤廃は、騎士の長ももちろん知る所だった。
「それなら今度の獅子の魔術大会で、そのダリオ・アンヘルと女魔術師達をもろとも負かしてやればいいだろう? そうすればお前の強さも正しさも証明されるはずだ」
「ぐっ……! ま、まあそのつもりだが……」
痛い所を突かれたとばかりに言葉に詰まった男は、少しだけ顔を伏せて盤面に集中するふりをする。
自分の手駒を動かすと、話の中心も一緒にそらした。
「そもそもだ。王が女の魔術師の登用など始めるから、貴族の女は『魔術師の妻』ではなく、自分を魔術師にする方を選ぶようになった。結果、連綿と続く魔術の世界は揺らぎ始めている」
「世の中ってのは絶えず変わるもんだ。女の魔術師だって戦の役に立つだろう」
「馬鹿を言え! そもそも女に魔術師になる権利などないんだ! 魔術師になるかならないか、女が自由に生き方を決めるのか? そんなことを許せば国はどうなる?」
モノクルの男……導師アラリコがほぼ癇癪と言っていい語気とともに話す間に、騎士の長は静かに自分の駒を動かす。
その駒の着地点を見て、アラリコは再びぐっと言葉を飲んだ。
構わず、騎士の長は挑むようにモノクルの奥の目をのぞきこむ。
「今度は俺の逆転勝ちだな、アラリコ。この盤面みたいに、白銀騎士狩りだけはひっくり返されないといいが」
「はは、馬鹿な! この惨状を誰が救えるものか! 古の大魔術師でも伝説の聖騎士様でも無理だね。あの魔導機構達は誰にも止められない」
アラリコは敗けの盤面の前に拳を叩き付けると、さっさと掛けていた椅子から立ち上がる。
そして天幕の中を照らす明かりに、ギラリとモノクルを光らせた。
「さて、可愛い魔導機構達は、そろそろお目当ての騎士を全員狩り終えた頃だ」
「それならさっさと撤収をかけてくれ。いくら最新鋭の兵器を投入してるとはいえ、向こうの全滅は困る。白銀騎士にもこっちの内通者がいるからな」
「安心しろ。あの魔導機構達は、敵味方の識別は完璧にこなす。兜の下の顔まで完璧にな」
語る内に機嫌を直したのかまた顔をほころばせると、モノクルの男はお決まりの手を上に上げる動作と同時に胸を張った。
「この狩りは、最新兵器がどれだけ正確に敵味方を識別できるかの実験も兼ねているのだ。我々の手を借りるからには、我々の目的もつつがなく達成させてもらおう。よろしいかな? ヴィクトル殿」
自分の頭上から放たれた不遜な言葉に、黒銀騎士団団長・ヴィクトルは、ふんぞり返って座る椅子の上で微笑むばかりだった。
装飾の多い黒銀の鎧を着た背が、優雅にマントをはためかせながら天幕を出ていく。
天幕の入り口まで来たところで、即座にその副官が彼の歩みに付き従った。
「二勝三敗一分け……。ずいぶん手心を加えてやりましたな」
「言ったろ? ご機嫌さえとってやれば扱いやすい男だと」
騎士団長が出てきた天幕を振り返りながら眉をひそめる部下ドン・クラーロに、その上司は余裕たっぷりに返した。
どこまでも泰然と構えるその姿に、ドン・クラーロはふうと一つ息をつく。
「まあ性格はどうあれ、やつの言う最新兵器だけは素直に褒めてやってもいい。直接手を下さずとも遠隔で敵を潰せるなら、これ以上のことはありませんからな」
「それならその評は今から脆くも崩れ去ることになるな。……今、森で白銀騎士どもを狩ってるあれは、やつの開発した兵器じゃない」
「は?」
「あいつは魔導機構を貸し与えられてるだけの、『落ちこぼれ魔術師』だ」
件の魔術師のもとから十分離れたとは言え容赦のない言葉に、それまでのおべっかを忍んで聞いていた副官は目を丸くする。
そんな副官の様子に構わず、ヴィクトルは前を向いたまま言葉を続けた。
「すべての魔術師が『レオナルド』になれるわけじゃない。……鮮烈に差す光の影には、必ず濃い闇が生まれるもんだ。イクリプス公はそういう日陰者の魔術師の扱いをよく心得ておいでだ」
上司の言う『日陰者の魔術師』がどういう存在かはドン・クラーロにも覚えがあった。
魔術師貴族に生まれながら魔力が弱く、獅子の魔術大会で入賞すらできない半端者達のことだ。
魔術師貴族の世界は魔力の強さが物を言う世界。
団長の言葉通り、その弱肉強食の世界では魔力の弱い者は一生家族から疎まれ続ける日陰者でしかない。
「近頃狩りに遇ってる女達は、ああいう奴らのもとへ送られていくのさ。落ちこぼれ魔術師の魔力を補填する『材料』としてな。……売る方も売る方だが、吸血目的の人買い市場が商売として成り立つのは、買い手である魔術師貴族どもの欲望の故だ」
「まさかその人買い市場の提案者というのは……」
「昔から、閣下は売れるものがあれば何でも商売にするお方でな。自分の体以外は何でも商品になさる」
「……」
「導師アラリコのあの顔を見てみろ。本人にさしたる実力がなくとも、ちょっとした指揮権を与えてやるだけでまるで自分が天に届いたかのような喜びよう。導師なんて大層な身分をひけらかしているが、あれはあいつらを飼い慣らすためにイクリプス公が与えた空の地位だ。適当な餌と狩ってきた平民の女……それであいつらはイクリプス公の忠実な下僕になるのさ」
「お互い、悪趣味なものですな……」
長年黒銀騎士団長の片腕として働いていてもまだ良心の欠片が残っているのか、ドン・クラーロは心の底からの嫌悪を浮かべた。
立派な髭の下の口元を引き結ぶ部下に、上司はただ肩をすくめてみせる。力さえあれば何でも許される世の中だ、と。
「では、実際あの兵器を開発しているのはどこの何者なのです? イクリプス公の傘下の組織ですか?」
「傘下というか、閣下の出世を支えてきたというか。……言うなれば、すべての権力者に夢を見せてくれる組織だな」
「は?」
「落ちこぼれ魔術師どもの使い方を閣下に提案したのもその組織だ。つまりは閣下より悪趣味な連中ってことだよ」
言いながら騎士の長は一枚の銀のメダルを指先で弾いて宙に放り投げる。
空中で裏表を返しながら回転するメダルには、アラリコの腕輪に刻まれていたのと同じ、幾何学的に左右をそろえた一本の木の模様が刻まれていた。
それが男の手に落ちたのと同時に、
「ご報告! 例の兵器の襲撃により、隊長格ネバードが白銀騎士陣地内にて討ち死に! 白銀騎士達は散り散りに森を彷徨っている模様!」
自身のもとへ滑り込むように駆けてきた伝令に、その報告を受けた騎士団長はただ泰然と腕を組む。
となりでドン・クラーロは大きく目を見開いた。
「色々言ったが、少しだけならアラリコを褒めてやってもいいかもな。確かにこの盤面は誰にもひっくり返せない」
高貴な身分に野生を添える顎の髭に手を当てながら、騎士は勝利を目前にした肉食獣の笑みをこぼした。




