第34話 花園の影と船上の戦い(2)
夜明けの窓の外から吹き込む風が、窓辺でうつむく者の髪を揺らす。
七色に輝く薬品の小瓶だけが、殺伐とした魔術師の部屋の片隅に彩りを与えていた。
その瓶の下敷きになった紙の束が、風に吹かれてパタパタと音を立てる。
その様子を視界に入れて、ダリオはやっと重い頭を上げた。
……我ながら、途方もない根性をしていると思う。
大臣補佐に絡まれ高貴な令嬢と喧嘩しイクリプス公に目を付けられ年下の少年魔術師からは呆れ顔でたしなめられて……。
しかしそれでも、誰に何を言われたって退くということを知らない。これはもう愚か者の領域だ。
そうだ。だからあの後調べ始めたのだ。
机の上にあるのは、この間完成させた解毒薬の瓶の列。
そしてその下には、ルナにも極秘で集めた、誰にも見せられない秘密の資料が置かれている。
睡蓮魔術師団所属の令嬢達の出身、魔術の指導を担当する貴族。
彼女達の、魔術師団脱退後の嫁ぎ先。そしてその後の……。
とにかくあの魔術師団に関する、表沙汰になっていない情報をかき集めた。
そしてそこまで調べて改めて思い知ったのだ。
あの魔術師団は、やはりダフネを置いておける場所ではない。
というより、あそこは普通の魔術師が身を置いていられる組織ではないということを。
……ダリオに絡んできた、あの変わった首飾りの令嬢。
多分彼女は『一人』ではない。何か巨大な影の『一端』だ。
睡蓮魔術師団を超えた、もっと大きな組織の諜報役……。
その推測を裏付けるように、ダリオはあの日から彼女と一切顔を合わせていない。
彼女はあの後、急に嫁ぎ先が決まったとかで、すぐに宮廷から姿を消してしまったのだ。
……ダリオが、彼女を『失敗』させてしまったのだろうか。
結局あの人はダリオからレオナルドのことを聞き出すことができなかった。
取り入るどころか言い争いになって、そして多分余計なことを喋り過ぎたのだ。
だから影に座す何者かによって、用済みだと判断されたのかも知れない。
故に、彼女が所属する組織がダフネを狙う暗殺者達と直接繋がりがあるかどうか、もう調べることは困難だ。
窓から入る風に吹かれながら、ダリオは静かに瞳を伏せる。
……任を仕損じたために消される。
ダリオが知らずに過ごしてきただけで、睡蓮魔術師団の中では多分、こうしたことが今まで何度も起こっている。
睡蓮魔術師団は、魔力の強い令嬢を集めただけの、ただの後方支援組織ではない。
底無しの闇と直結した……諜報機関だ。
魔術師達の詰める塔の周りの森から、朝を告げる小鳥の声が響き始める。
ダリオは開け放した窓辺から離れ、少し早いがその日の身支度を始めた。
着古したローブを肩に引っ掛けながら、彼女と交わした最後の言葉を思い出す。
……一体誰が宮廷を変えられるのか。
この頭の中を未だに大鐘楼の鐘のように打ち続けるその言葉に、答えられるただ一人の人物をダリオは知っている。
宮廷筆頭魔術師レオナルドだ。
この世界にまばゆく輝く、史上最高峰の奇跡の魔術師。
彼の杖の一振りに戦の優劣は別れ、諸侯は身振りを変え、交易が左右される。
そのレオナルドがイクリプス公の手中に収まっているから、イクリプスの権勢は常に安泰なのだ。
そこまで思い至って、魔術師は再び深くうつむく。
宮廷筆頭魔術師代理。その肩書きを与えられても、ダリオは本当の意味でレオナルドを代わることはできない。
彼はこの世に唯一無二。
最大最強の魔力を持った魔術師なのだ。
イクリプスの勢力に陰りがないのは、レオナルドという最大の盾を得ているから。
その盾に、宮廷筆頭魔術師代理の力では傷一つ付けることができない。
……まだ部屋の中にいるのに、何故かすぐ側でピッピッと高い声が響く。
見れば何の気まぐれか、朝の空を舞っていた小鳥がダリオの部屋の窓辺に降りてきていた。
その姿にようやく口元を緩めて、ダリオは手に馴染む樫の杖を手にとる。
……夢の中のあの女性は、深い闇に捕らわれてもとうとう声を上げることすらできなかった。
ダリオの中に消えない言葉を残した、あの令嬢は今頃どうしているだろうか。
「もう後戻りできない。僕も彼女と同じ所に立ってるんだ……」
バリーン、バリンと、幽霊船の上では氷の魔術の撃ち合いが続いていた。
自分の方に槍の先のように伸びてくる巨大な氷柱を、魔女は何とかそれと同じ形の氷の塊を作り出して崩壊させる。
自分の魔術が盛大に防がれる様をそれでも冷静に眺めながら、骸に囲まれたローブの人物は落ち着いた声音でこう呟いた。
「まさかこの船に乗り込んでくる人間がいるとはな」
「それはこっちのセリフよ。まさか水から上がってきた船に人が乗ってるなんてね」
船尾の方から声を張り上げて、ピエドラは相手の次なる魔術に備えた。
――霧深い湖上の村に突如として現れた、巨大な幽霊船。
縄梯子を這い上がる骸達に続いてその甲板へと乗り込んだピエドラとウィンフレッドを待ち受けていたのは、すでに船に乗り込んだ数十体の骸達と、その先に佇む怪しいローブの人物だった。
……そう。人が乗っていたのだ。
その姿を甲板の骸達の向こう側に見つけた魔女も兵士も、最初は思わず目を点にしていた。
その後その人物に魔術で襲われさえしなければ、もっと目を点にしていられただろう。
魔女と例の怪しい人物の会話の間に、砕けた氷柱を踏み散らしながら例の骸型の魔導機構達がものすごい勢いで斬りかかってくる。
細い腕から放たれる力強い一閃を、魔女の目の前でウィンフレッドの剣が火花を散らしながら受け止めた。
……どうやらあのローブの怪しい人物、この骸型の魔導機構達を操って何かしているらしい。
だから今こうしてピエドラとウィンフレッドを排除しようと躍起になっているのだ。
船に乗り込んできた二人と目が合って早々、骸達に命じて侵入者を攻撃させ、自らも杖を振り上げて魔術を放ってきた。
あんな得体の知れない魔導機構を操っているし、何か相当、人に見られると困ったことの最中だったらしい。
その怪しい人物が握る、黒々とした大振りな杖が再び容赦なく振りかざされる。
ピエドラもまた、再度杖を握る手に力を込めていた。
……刃物を持った骸達に近距離で侵入者を襲わせ、自分はその後ろから魔術で攻撃する。
その何とも華麗な連携に、魔女と兵士は終始圧されっぱなしだった。
向かってくる屍の集団の隙間から、ピエドラは改めて骸達の主の姿を観察する。
口元まで覆う首の長いローブに、そこから突き出た細い面、艶のない長い髪。
くたびれたローブはあちこち引き裂かれたように破れ、それが所々細い体の線を露出させている。
ここまで魔術を受けた感じ、中々腕の立つ高位の魔術師のようだが、その風貌はどこか長い旅の末の放浪者を思わせた。
霧がかかっているせいかも知れないが、その顔色も杖を握る手も、ほとんど灰色のようにさえ見える。
極めつけは、一度睨まれたら忘れられないその目だ。
自分の使う骸の戦士が、ウィンフレッドの剣によって押し退けられるのを、その主は爬虫類のように瞳孔の長い目で見守る。
「先程村の方から感じた魔術の気配はやはり貴様らか。何体か足のパーツを外された個体もいるようだが、その魔導機構達を相手に渡り合うとは、貴様ら一体何者だ?」
囲む骸達の向こうから、爬虫類の目の人物は不思議そうに首を傾げる。
当然、魔女と兵士はそう聞かれても返す言葉を持っていない。お前は何者かなんて、むしろこっちが聞きたいくらいだ。
船の甲板を、再び爬虫類の目の人物が放った氷柱の群れが伸びてくる。
ピエドラの放った氷の河は今度はそれを砕くだけでなく、その人物の手前まで押し返した。
しかし。
砕けた氷の流れが例の人物に至る前に、骸達がその体の前に集まって折り重なり、主の盾になったのだ。
魔術が効かない金属の体は、瞬く間に魔女の放った魔術をすべて受け止め無効化してしまう。
その様子に、ピエドラは唇を引き結びながらその人物が座す船首の方を見た。
鉄壁だ。あれでは無敵の要塞の中にこもって好きにこちらを攻撃し続けられるのと同じだ。しかもその要塞からは絶えず無敵の機械兵がこちらへと送り込まれてくるのだ。
八方塞がりで追い詰められる魔女と兵士の上を風が吹いていく。
最早手も足も出ない二人を笑うその人物の頭上では、相変わらず帆船の威容を示すような大きな白い帆が優雅に張っていた。
そこで魔女は気付いたのだが……。
この船の帆、何だか変な模様が真ん中に描かれている。
やけに幾何学的に綺麗に枝分かれした一本の木だ。
別にそれが変というわけではないが、船の帆に描くモチーフとしては結構外れている気がした。
いや、今はそんなことはどうでもいい。
相手は骸に囲まれ船首に居座り、こちらはすでに船尾の方まで追い込まれている。
双方の真ん中は骸の集団が埋め付くし、それが徐々にピエドラと兵士の方へと迫っていた。
万事休すだ。
しかしそうなってもピエドラとウィンフレッドがこの場で粘っているのには理由がある。
至近距離で襲う骸と遠距離から飛んでくる魔術に苦戦する二人の向こうで、爬虫類の目の人物は、その手にしていたある小瓶を傾けた。
「変わった解毒薬だな。こんな珍しい毒の治療薬が必要とは、貴様ら本当にどこの組織の回し者だ?」
そうだ。……見事に取られた。
ローブの人物の手に握られた解毒薬を眺めて、ピエドラは思わず眉間に深いシワを寄せる。
ソルの薬を魔女から取り上げたあの骸型魔導機構は、あろうことかその主に薬の瓶を渡してしまったのだ。
あれを取り返そうと悪戦苦闘している内に、魔女と兵士はすっかり骸の集団に囲まれてしまっていた。
爬虫類の目の人物が再び杖を振り上げ、魔術の効かない骸を盾にして魔術を放ってくる。空気を切り裂くような雷撃が船上を這ってきていた。
それと合わせて、骸達の攻撃も続く。
ピエドラ達の方へと迫ってくる屍の集団にももちろん魔術は無効。故に後ろから主の魔術に撃たれてもお構い無しに魔女と兵士に向けて突っ込んでくる。
雷の魔術と物理攻撃の二段構えだ。
……これはもう、一生に一度あるかないかの窮地だろう。できれば一生に一度もあってほしくなかった。
ピエドラは一つ息を吐き、向こうから放たれた雷の魔術を氷の壁で防ぐ。
分厚く透明な壁の向こうに、空間を震わせる雷撃の花が散った。
しかしそればかりに気をとられているわけにもいかない。
魔女が大魔術を防いでいる隙に、その真ん前まで雷を体に纏った骸が迫る。
極限まで感電を避けてウィンフレッドが骸を押さえてくれるが、それも時間の問題だ。
揺るがぬ勝利を確信したのか、骸の群れの向こうにいるローブの人物が笑う。
「そいつらは生け捕りにしろ。いい実験サンプルになりそうだ」
群がる機械達にとんでもない命が下される中で、ウィンフレッドが苦笑いを浮かべるのが見えた。
「……終わりだな。役目を果たせなくて悪かった」
「……」
兵士もまさか、こんな結果を予測してはいなかっただろう。
解毒薬を探しに行った廃村で機械の骸骨に囲まれ、果ては幽霊船の上でその親玉に捕らわれる。
そんなの誰だって予想できるはずもない。
ここまで一切称賛する暇もなかったが、ウィンフレッドの剣の腕は凄まじいものだった。
自分の剣では決して斬れない機械の集団を相手に、それでもここまでピエドラの魔術の完成を守り続けてくれた。
人間の力ではあり得ないような相手の強打を躱し、的確に武器を飛ばし、剣を折らぬよう相手の体を押し返し。
普通の兵士なら多分、すでに十回は死んでいるだろう窮地を、それでもここまで耐えた。
村に入る前に泥沼にはまってくれたときはどうしたものかと思ったが、そのときの評を万倍にして覆すような、生粋の剣士だ。
その剣士が、もうここが詰みだと覚悟したというなら、それはもう相当な『詰み』だろう。だから……。
本当に、こんなの予測もしなかった。
ふうっと肩を下げて、魔女は再びあの不思議な模様が描かれた帆を見上げる。
その人物が笑っている間も、兵士が苦く弱音を吐く間も、まだ自分にできることを考える余裕があるなんて、思いもよらなかった。
「風よ!」
ウィンフレッドの言葉が終わる前に、魔女は杖を高く掲げていた。
ピエドラが使えるもう一つの魔術。
風の弾が三つほど連なり、船の真ん中に立っていたマストの上方から中程をえぐっていく。
嵐の威力を押し固めたような風の弾にメインマストは叩き折れ、帆桁が外れて、例の不思議な模様が描かれた巨大な帆が急速に下へと落ちていった。
まるで船の真ん中に、一枚の白い幕が落ちていくように。
「な、何だ?」
骸を操る人物とピエドラ達の間を、折れたマストが完全に分断する。舞い上がる木屑が、しばらく双方の視界を霞ませた。
そしてマストの墜落の衝撃で、船が大きく傾いていく。
体勢を崩した骸が何体か湖に落ちていった。
斜めになる船の上で、ウィンフレッドは剣をついて体を支え、まだ杖を掲げたままその場に立っていた魔女の姿を見つめる。
司令塔と分断されたためか、二人の周りを囲んでいた骸達はしばらく斜めになりながら右往左往していた。
そしてその足下を、追い討ちのように魔女の氷の魔術が固める。
ウィンフレッドは目を丸くしながらそれを見守っていた。
「……これ以上加勢がなきゃなんとかなるわ。薬取り返しに行くわよ」
杖を前に出し、体勢をぐらぐらさせながらも船首の方に向かおうとする魔女の言葉に、兵士はただヒューッと口笛を一つ。
そしてすぐさまその後に従った。
「い、一体何者だ、あいつは……」
折れたマストが立てる木屑の飛散を前に、爬虫類の目の人物は手を前にかざしながら忌々しげに呟く。
骸達は足止めを食い、そのうち何体かは墜落したマストの下敷きになってもがいていた。
まさに恐慌に陥る船首側で、爬虫類の目の人物は状況を立て直そうと杖を構える。
しかしそのすぐ側の船のへりから、
「派手にやられたなあ」
聞こえてきたその魔術師の声に、かの人物は大きく目を見張った。
「レオナルド! 貴様何しにここへ……!」
自らを射殺しそうな鋭い眼光を向けられても、黒衣の魔術師はただ船のへりに腰掛けたまま。立てた膝に頬杖をついて微笑むばかりだった。




