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龍とたてがみとギャラクシア  作者: 雨野グッピー


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第33話 花園の影と船上の戦い(1)

 濡れた地面の感触に目を開いた。 


 水溜まりを叩く雫の音が聞こえる。

 そっと起き上がって、その音に耳を澄ませた。


 己の手の平すらまともに見えない漆黒の闇の中。

 頭を振ってそこがどこかを確かめる。


 その内、視界に一条の輝きがかすめた。


 光だ。

 しかし求めていた道しるべの光ではない。


 古びた大きな扉から漏れ出すのは、まるで夜光虫を引き寄せる最後の光。


 それだけを頼りに、この足は濡れた地面を一歩一歩進んでいく。

 迷える者はいつの間にか怪しい輝きをたどり、その扉の前に立っていた。 


 ……ここは駄目だ。見てはいけない。

 よぎる警告を無視して、震える手は光の漏れる扉をそっと押し開く。


 目の前に広がる光景に足がすくんでも、もう後戻りすることはできない。


 扉の中には、黒い衣の波と、彼らが灯す深紅の炎の群れ。

 広い洞窟の中に集まる、全身を黒いローブで覆った幾百の魔術師達の姿が見えた。


 皆一様に手にする杖の先に火を灯し、その真ん中に一本道を開けて、何かの到来を待っている。


 一体何を……。


 迷い込んだ者のすぐ後ろで、先程入ってきた扉がぎいと開く。


 現れたのは、その場の闇に溶けてしまいそうなほど濃い黒のローブを纏った、一組の男女だった。

 男の方はすでにその場に並ぶ魔術師達と同じく頭からすっぽりローブで覆ってしまっているが、女の方は黒いベールで顔を覆っている。


 すぐ側にいるはずのこの身を無視して、一組の男女はただ前を目指して薄闇の中を進んでいく。

 まるでこのときを待っていたとばかりに、並ぶ魔術師達は、炎を灯した杖を構えたまま二人に道を譲った。


 開けた道のその先には、太古の霊廟を模したかのような巨大な祭壇。そしてその前の地面に大きく描かれた複雑な魔法陣が待っている。


 両脇に並ぶ魔術師と炎の群れの真ん中を、一組の男女は言葉もなく進んでいく。


 やがて祭壇と魔法陣の前まで来ると、二人は静かにお互いを向き合った。


 これが何か知らないのに、これから何が起こるかも知らないはずなのに、迷い込んだ者の心拍は徐々に速さを増していく。


 ……止めなければ。何故かその言葉が頭に浮かんだ。


 手を取り合い、男女はゆっくり魔法陣の中へと入っていく。

 静かな熱狂を伝えるように、並ぶ魔術師達が己の杖を高く掲げた。灯された深紅がゆらゆら揺れて闇を焼く。


 その熱に応えるように、魔法陣の中に立つローブの男の手が、向かい合わせの女のかぶる闇色のベールを上げた。女はただ膝を折ってされるがまま、白い面を薄闇の中にさらす。


 少し離れているはずなのに、迷い込んだ者からは彼女の顔がよく見えた。


 ……その目はまるで、闇に塗りつぶされたガラス玉のよう。

 そこに彼女という個の輝きは一切なかった。


 糸で引っ張られる操り人形のように、女はただ呆然と男の方を見上げ続ける。


 男の手が、女の白いおとがいへと伸びた。そのまま彼女の顔をさらに自分の方へと上げさせる。


 魔法陣の中の二つの影は近付き、折り重なろうとしていた。

 魔術師達は歪んだ熱の中、なおも炎を灯した杖を掲げ、静かにその様を見守っている。


 そうだ儀式は、完成へと向かっているのだ。


 ……でもダメだ。


 迷える者は手を伸ばし、その場の熱を吹き飛ばすように、声の限りに叫んでいた。


「――!」


 停滞していた空気に、叫びは二重三重に反響する。やっと、この世界に自分の声が響いた。


 しかし……。


 ピタリと、すべての音と動作が止まった。


 まるで時間を止めてその場が凍りつくように、誰も彼もが動きを止める。

 それは一瞬のことだった。


 ザンッと、その場に集まる幾百の目が、一気にこちらを向く。

 闇の中に浮かぶ単純な光の玉のような目が、それでも叫びを上げた者を突き刺していた。


 並ぶ魔術師達の内の一人が、高く杖を掲げる。 

 叫びを上げた者の口を塞ごうと、真っ赤に爆発する炎の弾を、こちらへ向けて放ったのだ。


 ……これが一声の代償。


 飛んでくる炎の先にいる者には、自分を守るための杖もない。


 そうだ。終わりだ。


 暗い洞窟の中を赤く照らしながら、炎の弾はなおもまっすぐこちらへと迫ってくる。


 ……叫びを上げた。

 しかしそれ以外には為す術もなく、その場所に迷い込んだ者は、自分を終わらせるため近付いてくる深紅を瞳に映していた。




「……!」


 その瞬間、ダリオは掛布を蹴飛ばしてベッドの上に飛び起きていた。


 荒い息と共に上体を起こし、跳ね上がった己の鼓動を押さえる。

 結んでいた汗の玉を拭って、大慌てでその空間が自分の部屋であることを確認した。


 閉じる窓の向こうから薄明かりが入っている。もう夜明けだ。


 そこまで確認して、ダリオは更にはあと息をついた。


 そのまま立ち上がって、夜明けの窓を開く。入る薄青色の明かりに、窓際の机に並ぶ薬の瓶が淡く輝いていた。


 何だ、あの夢……。


 窓際に立ち、まだ弱い太陽に照らされる雲の影をしばらく眺める。

 開けた窓から差し込む光が、薄青から徐々に朝焼けの橙へと変わっていった。


 そうして部屋の中に入る風に吹かれている内に、速まっていた鼓動も段々落ち着いてくる。


 目をこすり瞬きしながら、ダリオは窓際に並ぶ、この間調合した解毒薬の瓶の群れに視線を落とす。

 七色に輝く薬品の瓶の下には、それを文鎮代わりにしてある紙の束が置かれていた。


 それを眺めて、ダリオはもう一度ふうと息を吐く。


 あんな夢を見たのは、多分この頃の自分の行いのせい。首を突っ込まなくていい所に首を突っ込んでいる無謀のせいだ。


 今朝は寝癖の控えめな自分の頭に手を当てながら、ダリオはその最たるあのときのことを思い出していた。


 ――あれは睡蓮魔術師団の詰所まで、ダフネの引き抜きを打診しに行ったときのことだ。



「ねえ、ダリオ様」


 その令嬢が背後から声をかけてきたのは、ダリオが城の離れの回廊を睡蓮の池の近くまで進んだとき。

 もう正午も近い、真昼の美しい庭の脇でのことだった。


 背後からかかった声に思わず飛び上がるダリオに、彼女は穏やかな笑みを浮かべながらさらに近付いてくる。


「またダフネに会いにきたの?」

「……!」

 

 驚くダリオにはお構い無し。スルッと姿勢を低くしながら魔術師の正面に回り込んで、令嬢はふふっと笑みをこぼす。

 睡蓮魔術師団の団員特有のローブが、踊るように彼女のドレスの上で舞っていた。


「あら、ごめんなさい。びっくりした?」

「ああ、いや……大丈夫だよ」


 青い水を張る水路の側の庭木から、鮮やかな色彩の小鳥が空へ飛び立った。

 その姿を横目に、ダリオは真昼の回廊の影で、一人の令嬢に迫られる格好になる。


 ……何だ。何の用だ。

 そう思いながら、どうやら相当険しい顔をしてしまっていたらしい。

 回廊の影で、目の前の令嬢がさらに笑みを深めた。


 彼女は、艶のある黒い髪を縦に大きく巻いた、睡蓮魔術師団の中でも一際目立つ容姿の魔術師だった。


 ダリオは彼女の名前すら知らないが、身に付ける数々の宝石が、それだけでそれなりの大貴族の出身であることを示している。


 しかし彼女と話すの自体は初めてではない。

 多分この人は、ダフネに手紙を届けたあの日、何も知らぬダリオに彼女のことを教えてくれた女性達の内の一人だ。


 そうだ。それだけなのに。長い睫毛に縁取られた潤んだ瞳は、なおも上目遣いにダリオを見上げている。


「この前はメロコトネロ団長が失礼しました。珍しく宮廷魔術師様がここまでいらしたから、団長も張り切って強引にお誘いしたみたい」

「それは、僕も気にしてないよ。突然お邪魔してお騒がせしたのは僕の方だから……」


 豪奢なドレスの上からこれまた豪奢なローブを羽織った細い体が、ダリオの胸の前まで寄ってくる。

 絡み付く香水の匂いから逃げるように、ダリオは手の平を胸の前に上げて彼女との間に壁を作った。

 しかしダリオがそうやって離れると、彼女は即座にその分の距離を詰めてくるのだ。


「……あ、あの」

「まあ、どうなさったの?」


 相変わらずどこか扇情的にダリオを見上げる顔が、不敵な呟きと共に胸の前まで近付いてくる。


 それに圧されてとうとうダリオは回廊の影から追い出され、太陽の差す庭へと後ろ向きに足を踏み入れていた。

 追ってくる令嬢が首に飾る数々の宝石が、陽の光に眩しく輝く。


 そこで初めて気付いたのだが……。


 彼女、変わった意匠の首飾りをしている。

 彫りの入ったカメオを鮮やかな赤い石が囲む派手なネックレス。その真ん中のカメオに施された彫りというのが変わった紋様なのだ。


 左右対称に四回ほど枝分かれした一本の樹木。左右対称というより、フラクタル図形を意識して描かれた模様だろうか。

 美術品というより、何だか己の所属を表す家紋や徽章に近いような……。


 いや、他人の首飾りの観察なんかしている場合ではない。

 ダリオも用があってここまで来ているのだ。


「その、ごめん。そこをどいて欲しいんだけど……」


 意を決して彼女の脇を抜けようとするが、腕をつかまれているわけでもないのになかなか前に進めない。

 脇を抜けようとするたびに、鮮やかなドレスの袖に簡単に行く手をふさがれてしまう。


「……」

「そんなお顔をなさらないで。宮廷魔術師様とお話する機会なんて中々ないんだもの。以前からあなたのお名前は聞き及んでおりましたのよ? 陛下の命を直々に受けて獅子の魔術大会の規定を変えたこともおありとか。それを聞いて、ぜひお近づきになりたいと思って」

「……お近づきとは?」

「あなたと仲良くしたいってこと。何せ昇り調子の宮廷魔術師様ですもの」


 思ってもみない話題に、ダリオはしばらく閉口する。

 今になって思い出したが、ダリオがいるのは兵舎ではなく上流階級の社交の場だ。


 バチバチと瞬きする長い睫毛に、魔術師は通せんぼの意味をようやく飲み込んだ。


 ……彼女はダリオに取り入ろうとしている。

 こっちの心境的には『とって食われようとしている』という方が正しいが。

 押したり引いたり無意味にさえ感じるやり取りは、すべてそのために為されている会話だったらしい。


「……」


 ダリオがレオナルドから宮廷筆頭魔術師代理を任されたことで、どうやら色々な方面からあらぬ憶測をされているらしい。

 多分、ダリオがレオナルドに目をかけられていると勘違いされているのだ。


 令嬢は目の前にいるダリオという存在の向こうに、レオナルドという揺るぎなき権力を見ている。


 これはある種の冷たい権力闘争なのだ。

 しかし『お近づき』の真意を見抜いたところで、相変わらず令嬢はダリオを逃がしてはくれない。


 そして。

 ここをどう切り抜けようかと、ダリオがひたすら困り果てた所で別の熾火は爆ぜた。


「――本当に、庶民上がりは図々しいわね」


 忌々しげに放たれたある声に、ダリオははっとしながらそっちの方を見る。

 見過ごせぬ事態は、睡蓮の池の近くの東屋の方で起こっていた。


 見れば池のほとりには華美なドレスを着た数人の令嬢と、その前で顔を伏せるダフネが立っている。

 令嬢達は金魚のように長い袖をヒラヒラ踊らせながら、ダフネの周りを行ったり来たりしていた。


 少し離れたダリオからでも分かるが、明らかに数人がかりでダフネに詰め寄っている。


 その主犯……ダフネをすぐ近くで詰問しているのは、この間彼女に給仕を受けていたジョセフィーナなる令嬢だ。


「知ってるのよ? ベルデ卿をたぶらかして、今度はダリオ様まで。まるで稀代の悪女ね」


 低い声で囁かれた自らの名に、ダリオは思わずそちらの方へと身を乗り出す。


 どうやら当のダリオがすぐ近くで聞いているのには気付いていないらしい。

 声を荒らげているわけではないが、一人を複数人で囲んで圧殺しようとしていた。


 囲まれているダフネは何も言い返さない。

 仮面のような顔で、ただ嵐が過ぎ去るのを待っているだけだ。

 あれが『正解』の対応だと言うなら、それは突き抜けすぎて痛々しいほどに。


 思わずその場へ出ていきそうになるダリオの腕を、例の彼女が押さえた。


「あんなこと、この場所では日常茶飯事よ」


 先程までとは変わって硬質な、どこか冷徹とも言える声音がダリオの体をその場に縛り付ける。

 その間にも、池のほとりの令嬢達はベルデ卿なる貴族の名を出してダフネを問い詰め続けていた。


 その様子を眺め、ダリオのとなりにいる彼女はなおも冷めた声音でこう呟く。


「あの娘はベルデ卿が好きだからああするんじゃないのよ。他に出し抜かれないためにああするの」

「……」

「ここは一つの戦場だもの。あの娘もダフネもそこで戦ってるの」


 回廊の柱にもたれ、世間話の続きのように何気なく放たれた言葉に、それでもダリオは戦慄する。令嬢は構わず先を続けた。


「まあ、殿方から見れば戦場なんて大層なものじゃなくて、ここは男を漁る女がいがみ合うただの結婚相談所よね」

「そんなことは……」

「それが睡蓮魔術師団の団員の役割だもの。適齢でいい家に嫁いで、次の優秀な魔術師を産むこと。私たちに魔力があるのはそのため」

「……」

「宮廷魔術師様まで上ると、こういう話は俗っぽいのかしら」


 思わず口を引き結ぶダリオに、令嬢は作り笑いでそう続ける。

 そこに彼女という『個』はなかった。


 そうだ。ダリオも、この美しい庭に隠されたもう一つの機能を知っている。


 政略結婚の道具となる魔力の高い女性達を貴族の接待役として押し込め、結婚まで管理すること。


 ……睡蓮魔術師団の団員に限らず、魔術師貴族の女性は常に政略結婚の道具として扱われる。どんなに魔力が強くても、魔術師として教育を受ける女性はほんのわずかだ。 


 魔術の教育を受ける機会を得たとしても、女性達の行き着く先はほぼこの睡蓮魔術師団に限られている。


 そしてその睡蓮魔術師団の団員となった者達も、いずれは適当な相手の家庭に入るために魔術師団を離れていくのだ。

 睡蓮魔術師団に未婚の令嬢しか所属していないのはそのためだ。


 物思いするダリオのとなりで、そのまま令嬢は白い面を上げた。

 憔悴した表情を見せるダリオの様子に、自分への警戒心が少し薄れたと思ったのか、魔術師の方へ一歩踏み込んでくる。


 そして――。


「ねえ。ダフネに本当に用があったのは、レオナルド様なんでしょ?」


 ダリオが咄嗟に顔色を変えなかったのは、それでも何年かこの宮廷で培ってきた勘が働いたためだ。

  ……彼女は今、確かに。


 無言を貫く魔術師を、令嬢はしばらく何の感情も浮かばぬ顔で見ていたが、一度瞬きするとすぐに笑顔に戻って言った。


「ここでは皆、ギリギリの所で生きてるの。あなたと仲良くなりたい理由、よく分かって下さるでしょう?」


 ……それが本命か。


 彼女がダリオを執拗に引き留める理由がようやく分かった。

 これはただの世間話でも社交界独特のやり取りでもない。


 ……彼女は今確かに、ダリオの胸を刺そうとした。相手が油断したところで一息に核心に迫り、王手をかけてきたのだ。


 ダフネと連絡を取り合ってるのが誰かなんて、ダリオ以外には当のレオナルドしか知らないだろう。


 つまり彼女はダフネの背負う秘密を知っている。もしくは秘密を背負っていることを疑って鎌をかけてきている。


 彼女はダリオに取り入りたいのではない。

 ……聞き出したいのだ。


 ここで言葉を間違えてはいけない。

 ダリオは今、戦場にいる。


「レオナルドに用があるなら、帰ってくるまで待てばいい。あいにくだけど、僕は彼のことをそんなによく知らないんだ」

「ねえ。この宮廷で生き残るには結局何が必要だと思う? 私達にとってはあなたもレオナルド様も同じよ。家柄じゃないの。要はこの宮廷でどれほどの力になるかよ」

「……」


 言葉を躱され、改めて胸の前まで詰め寄られる。

 彼女の目をまっすぐ正面から見て、ダリオはやっと気付いた。


 ……その目はまるで差し込む光をすべて吸収する、黒く塗り潰されたガラス玉みたいだということに。


「ねえ、ダリオ様。あなたが宮廷筆頭魔術師代理を任されてから、みんなあなたの噂をしてるわ。あなたはこの宮廷の新しい『力』なのよ。私ならその力をもっと輝かせてあげられる」

「……」

「お顔立ちも良くて経歴も立派でレオナルド様にも気に入られてて……。なのにそこまで鉄壁なのは、誰か心に決めた人がいるから? それとも……」


 しなやかな指が、ダリオの胸へと伸びてくる。


 そこまでを視界におさめて、魔術師はとうとう杖を上げた。そして少しだけ腕を振る。

 ひゅんと風が吹いて、睡蓮の池のほとりに立つ庭木のてっぺんの枝を揺らした。


 その風でようやくダリオの存在に気付いたのか、ダフネを詰めていた令嬢達が慌てた様子で池のほとりから散っていく。

 ダフネもまた、驚いたようにどこかへ走り去ってしまった。


 ダリオの目の前にいる彼女は、ただダリオの方に顔を向けたまま。池のほとりの様子を振り向きもしなかった。

 しかし顔付きだけはどこか険しさを増す。


 その隙に、ダリオは彼女に詰められた距離を、一歩ずつ後ずさりして返していた。

 自分より頭一つ分低い所にある冷徹な瞳を見つめながら、こう呟く。


「僕はただ、一人の魔術師としてここに在りたいだけだ。……例えどんなにこの宮廷が腐りきっていたとしても、君も僕も何かを為すための手段なんかじゃない。誰かの手先になったり、何かの贄になったりする必要なんてないんだ」

「……」

「さっきの質問は聞かなかったことにする。君を寄越したのがどこの誰でも、僕が今言ったことに変わりはないから」


 令嬢はその言葉にしばらく仮面のような笑みを浮かべたままだった。

 内心はダリオに躍りかかりたいのを抑えているのか、唇の端を少し噛んでいたが。

 

 やがてせり上がる怒りを押し込められたのか、震える声でこう言った。


「……一人の魔術師か。でもその一人の魔術師もやっぱり力を狙ってるんでしょう? この宮廷で揺るがない、絶対の権力を。だからレオナルド様を頼って、陛下からイクリプス公に鞍替えしようとしてるんじゃないの?」

「君の言うことが当たってるとして、何故僕がそんなことをする必要がある?」

「ミレイア様が王にはなれないからよ。どんなに高貴な血筋でも……女だもの」


 唇の端が刻む歪んだ笑みと共に放たれた言葉に、ダリオはただ瞠目する。


 ……この人もか。


「陛下の次にこの国の王になるのはミレイア様だ。陛下はすでに跡継ぎを指名されているし、この国では過去に何人か女王が即位した記録がある。それに元々王室の始祖は……」

「――イクリプス公が認めない。あの方が認めないなら、それが今の絶対になる」


 自分の言葉を中々飲み込まないダリオにいよいよ苛立ちが勝ったのだろう。

 張り付けた仮面が剥がれ落ちる程ではないが、ここへ来て始めて、彼女は声を荒らげた。


「この国には陛下以上の絶対の権力がある。私達が生きてるのはその太陽の下よ。あなたは一人の魔術師でいるためにその太陽に立ち向かえる? 睨まれれば燃え尽きるって知ってるのに、その意地を張っていられる?」


 それは決して今を悲観した言葉などではなく、この宮廷を貫く純然たる事実だ。


 だからダリオはその言葉にしばらく黙ってしまった。しばらく黙って、そしてようやく口を開く。


「それでもだ……。心から服従するのと、そうじゃないのは違う」


 令嬢が、呆れ果てたようにため息をつく。

 ダリオはただ、その様子を正面から見据えていた。


 ……これはもう社交場のやり取りでも権力闘争でもない。喧嘩だ。


 庭木から鳥が飛ぶ。

 宮廷筆頭魔術師代理と睡蓮魔術師団の令嬢は、しばらくそのまま陽の当たる回廊で睨み合っていた。

 美しい庭園の片隅で、二人は最後まで相容れぬ別の世界にいたのだ。


 それじゃあと、令嬢はたっぷり嫌悪と間を溜めて次の言葉を紡いだ。


「服従を拒んで黙って耐えたその先に、何か変わるの? あなたの言うこの腐った宮廷を、一体誰が変えてくれる?」 


 天高く昇る陽の光が、睨み合う二人の頭を照らす。


 歪んだ赤い唇は最後まで、その言葉に何も返せぬダリオを笑っていた。

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