第31話 獅子の訪問と湖の幽霊船(1)
盆地に残された廃集落へと、ポプラの杖の魔女と若き甲冑の兵士が旅立ってしばらく。
不意の毒矢を浴びた少女・ソルは相変わらず、床に伏し目を閉じたまま、己を巡る強い毒と闘い続けていた。
目は閉じているが眠れているわけではないのか、ふとしたときにうわ言を漏らす少女の姿に、聖典の番人の老人は何度目か眉を寄せる。
そしてまた、ソルは蝋燭の明かりに、うっすらと琥珀色の目を開いた。
そのまま自分を見下ろす青白い精霊に、定まらぬ視線を向ける。
「……さん?」
『……』
「ごめん。……もう家に帰れそうにない。ごめん。……でもここまで来たの」
夢を見ている。
古と今が混ざりあった記憶の混濁の中で、一人闘っている。
皺だらけの青い手が、そっと少女の小さな額を撫でた。決してその額に触れられない精霊の手で、それでも。
手の感触はなくとも側に誰かが付いていることは伝わったのか、少女は再び静かに目を閉じる。
見下ろす精霊はただ、その傍らに立ち尽くしたまま。人間の体であれば白いはずの眉の下の瞳を伏せ、ソルを見守り続けていた。
そして。
『……どうやらお客人のようじゃ』
着物の袖を組みながら、老人は目だけで倉庫の扉を見る。
扉の向こうから伝わり始めたその魔力に気付いたのか、少女もまたそっと瞳を開けた。
今度は意識が覚醒しているのを見てとったのか、部屋の外に聞き耳を立てる聖典の番人の老人は、ソルに向けて言葉を続ける。
『……あのマルコとかいう兵士、『彼』を通してしまうぞ』
「例え誰の許可が無くても、彼はこの部屋に入れる。……逃げられない。今は手の平の上……」
少女の言葉に少しだけ肩を落とし、聖典の番人はすっとその場から姿を消した。
直後に、ぎいと扉が開く音がした。
続いて立派な長靴が、コツコツと部屋を進んでくる音が響く。
ほどなく漆黒のローブが、静かに倉庫の床を埋める。
横たわる少女のもとに杖を立てて跪き、黒衣の魔術師は瑠璃色の目でそっとその姿を見下ろしていた。
そう。あの悪魔の城で初めて出会ったときと同じ、人が良さそうな柔らかい笑みで、それでも獲物をまっすぐ射貫いて。
横たわる者はかすれる声で単刀直入に、訪問者の目的を質す。
「……聖典を取りにきたの? それとも私を殺しに来た?」
「物騒な挨拶だなあ」と、魔術師は一瞬大袈裟に驚き、それから困ったように眉を下げる。
しかし自らが『狩り』の途中にあるという事実をついに否定はしなかった。
どころか聡い少女にそれ以上繕うことが無意味と知っているのか、こう言葉を返してくる。
「確かに獲物は目の前にいるさ。でも、」
「……?」
「まだ捕まえるわけにはいかないんだ」
捕まえてほしい? と、無邪気に首を傾けながら続けた男の笑みは単純に優しく。
しかしソルの心はすでに、「まだ捕まえるわけにはいかない」という先程の言葉に完全に囚われていた。
……手の平の上。今まで成してきたこともこれから為していくことも、すべては彼の計算の内。
ソルをいつ外へ放し、いつ籠の中に戻すかも、黒衣の魔術師の意のままだという。
底なしに優しい微笑みの奥には、今や少女のすべてが彼に帰属するという、冷たい真実しか隠されてはいない。
悪魔の城で出会ったときからそうだった。
あのときはソルが『獲物か否か』確かめただけ。今はそうと知りながら泳がせているだけ。
……いつでも物にできるから、放っておいているだけ。
この男の笑顔の後ろには、常にその事実がくっついている。獲物はすでにその前肢にかかっているのだ。
だから彼は余裕そうに笑っている。
頭の先に置いていたランプの炎が揺れる。
ソルが一方的に感じていた張り詰めた空気と緊張を、青年は少女の方へと一歩近付いてより深い畏怖や恐怖へと変えてしまう。
そして。青年は横たわるソルの肩に腕を回し、ゆっくりと抱き起こした。
聖典を手にとる暇もないままに、ソルは彼の膝の上に乗る格好で魔術師の腕に横抱きにされる。一瞬、その淡い色の髪に触れそうなほど距離が詰まった。
「……」
「君はいつか、選ばれた者としての役割りを果たすだろう。だけどそれまでは、何とか目の前の脅威を乗り越え続けてほしい。俺が望むのはそれだけなんだ」
至近距離で押し合うお互いの魔力が、改めてソルにその男の強さを教える。強大な魔力は一息にソルを押し潰しそうで、しかし魔術師の意思でそれを限界で押さえている。
単純な力の強弱の顕示は、自分から逃げることは絶対不可能ということを、見下ろす獲物に刻みつけるように。
だから、かなり優しく自分を抱き起こす腕から逃れられないのは、毒のせいだけではないのだろう。知らぬ内に何かの術にかかったかのように、最早指先さえ動かせない。
ラピスラズリ色の瞳は、相変わらず瞬きの音さえ聞こえそうな距離でソルを見ている。そして、
「……」
唇にそっと押し当てられた小瓶から流れ込んだものを、少女の喉はゆっくりと嚥下する。
少女がその一瓶を飲み干したのを見ると、魔術師の青年はほっと息をついた。
そして静かにソルを床に戻す。
「ごめん。今はこれしか持ち合わせてなくて。でもこの痛み止めなら、その毒にも効くと思うから」
そう言いながら、魔術師はスッとその場に立ち上がった。その拍子に己の杖が近くに置いてあったランプをガコンと揺らし、「ああ、ごめん!」と大いに慌てる。
張り詰めていた空気は、一気にただの埃っぽい空気へと戻されていった。
お互いの精神を削るようなやり取りなど、最初からなかったかのようにランプの炎が揺れて。
もう先程の悪魔の顔は片鱗すらない。
人畜無害でお人好しそうでドジな魔術師の青年へと、顔色一つで変貌をとげる。それ自体が他人にとっての脅威と、その男はまるで知らぬように。
「さあ、体に障るといけないから、話はもうここら辺にしよう。毒矢なんて姑息な手段を使ってすまなかったね」
「……」
ソルが何も言い返さぬうちに、黒衣の青年はさっさと少女に背を向ける。
しかし部屋を出ていく前に、一度だけ何かを探すように倉庫の中を見渡した。
否、何かではなく『誰か』を探すように。
そしてその人物が見当たらないことを確認すると、青い目をほんのわずか伏せた。
「それじゃ、お大事に。しばらくこの要塞にいられるように頼んでおくから、今はゆっくり休んでくれ」
言いながら、あっさりと扉の外へ出てしまう。
倉庫の中にはただ、変わらず床に転がるソルだけが残されていた。
霞む意識の中の悪夢のように過ぎた出来事を、少女の頭は今やっと整理する。
ランプの光に照らされる周りの景色は、あの黒衣の魔術師がここを訪う以前の姿のままだ。
聖典もまだ、変わらずソルの側にある。
一つだけあれが夢ではないと断じられるのは、彼が飲ませた薬が効いてきたのか、少女の体が次第に軽くなり始めているという事実があるから。
見つかった……。いや、いつか見つかることは何となく知っていた。
しかしこんなに早くあの魔術師と再会することになるとは。
毒にうなされる間中、残念ながらソルには己の魔力を隠す余裕がなかった。
だから多分、彼は魔力の流れを辿ってここまで少女に会いに来たのだろう。
しかしその事実以上に深刻なのは……。
『ずいぶん、意味深なことばかり言って去っていったな』
ようやく現れた聖典の番人の老人の言葉通り。
あの青年が残した言葉の数々に、そしてその行動自体に、ソルの心は静かに乱され始めていた。
彼はソルが毒に冒されたこともその原因も、当然のように知っていた。
つまり少女に毒を盛ったのが彼の属する組織なら、痛み止めを処方してこうして放り出したのも彼だということになる。
「一体何がしたいのか素直に聞いても、さっきみたいにはぐらかされたかな……」
己のかたわらに置かれた聖典の表紙に再び手を触れながら、少女はただランプの光の届かぬ暗い天井を仰いだ。
蝋燭の照らす薄暗い階段を上がりきり、その場を過ぎようとする黒衣の背を、壁際に控えていた兵士・マルコは直前で呼び止めた。
「レオン様……」
どこか不安げなその声に、魔術師は足を止めながらにっこり微笑む。そして下の階の倉庫にいる少女の様子を兵士に伝えた。
「痛み止めを処方したから、少しは元気になると思います。後は完全に回復するまで、様子を見てあげて下さい」
「そうですか。しかしまさかレオン様とあの子が知り合いだったとは、驚きました」
少しだけ安堵した様子で甲冑の肩を下げた中年の兵士に、魔術師はさらに笑みを深める。
しかし兵士は次の瞬間には、また先程と同じように顔を曇らせてしまった。
そして、
「あの子も、魔女狩りで傷付いてレオン様に助けられた『新しい時代の子』なのですか?」
その言葉に、魔術師は少しの間沈黙する。
その様子を肯定と捉えたのか悲しげに目を伏せ、兵士は言葉を重ねた。
「あなたとお会いしたのは、もう十年も前になりますか……。世の中は、あの頃と何も変わらないのですね。あんな小さな子を追い回して、手を上げて……。自分の姿を悪魔とも知らぬ者達の暴挙の足音を、今でも多くの人が恐れねばならない」
兵士の言葉を、魔術師は沈黙で肯定する。
静かに目を伏せる横顔に、甲冑の男は少しだけ声を落としてこう続けた。
「……うちの子ども達は、そちらで元気にやっていますか? 我が儘などを言って、ご迷惑をお掛けしてはいませんか? 小さい頃のあの子達はそれはもう活発でしたから、十にもなればどんなに……」
頼りない言葉は、二人の間でしか伝わらぬ、かつて交わされた約束をなぞる。
兵士から子を想う一人の親へと、その瞳は揺らぎながらも強いものへと変わっていった。
それを見据えて、魔術師もまた彼の思いに安堵するように笑みを返した。
「リノもフリアも元気にやっていますよ。二人とも、とても利発で賢くて。今では子ども達の輪の中心です」
聞いている兵士は、少しだけ涙ぐみそうな瞳でその言葉にただ頷く。
「すべて、レオン様とネバード卿のお陰です。これからもどうか、娘と息子をよろしくお願いいたします。……愚かな父のことは忘れてもいい。ただ彼らには、多くのことを学んで健やかに生きてほしいのです。何もしてやれぬ親の、ささやかな願いです」
「その願いは、すでにあの子達に届いていますよ。あの二人の成長した姿を、いつかあなたも目にすることができる。その日まで、必ず彼らを守りますから」
国の中枢に座す魔術師の言葉に、男は兜をかぶった頭を深く下げる。
そして瞳を潤ませていたものをぬぐい、兵士の顔に戻ると最後の気掛かりを口にした。
「その……実はネバード卿について気になることが一つ。今行われている白銀騎士と黒銀騎士の狩りのことなのですが……」
「ああ。毎年両騎士団の親睦を深めるためにやっているという、あれのことですか?」
「ええ。街頭警備の兵士でも知っている、いわゆる恒例行事です。しかし今年はその規模が違います。留守にする騎士の不足を補うために、兵士が徴集されるなんて今までなかった……」
「……」
「ひょっとして何か、二つの騎士団の間で良からぬことが起きているのですか? 黒銀騎士団の団長は、非常に抜け目のないことで有名ですから」
「確かにあまりいい噂を立てられている御仁ではありませんが……」
「何より、その狩りには我が恩人ネバード卿も参加していらっしゃいます。もしあのお方の身に何かあれば……」
不安げに次々まくし立てる兵士の言葉を、魔術師はそっと手を上げて遮る。
「大丈夫ですよ。彼はこの若輩よりずっと長く王国に仕えてきた、生粋の近衛騎士だ。俺もあの人から、色んなことを学んできました。そんな人が、一人の黒銀騎士の目論見で潰れるとは思えません」
「それは、そうですな。すみません、つい恐怖心が勝って……」
微笑みながらも力強い黒衣の青年の言葉に、ようやくマルコの顔にも赤みが差す。
兵士は兜で覆った頭に手を当てながら、己の弱腰に恥じるように笑みを刻んだ。
「いけませんな。それなりに経験を詰んできたつもりでいましたが、人の手を借りてばかりのくせに不安にかられて気弱になって……。あの子のことは任せて下さい。絶対にこの倉庫に隠し通してみせますから」
「お願いします」
「ええ。それにもしかしたら、体を蝕んでいる毒自体もなんとかなるかも知れません。今、そのための薬を要塞の外に探しに行っている者達がおりまして」
兵士の発言が意外だったのか、魔術師は少しだけ首を傾げる。
そしてその兵士が紡いだ次の言葉に、黒衣の青年の瞳はここに来てようやく大きく見開いたのだった。
「我が同僚の兵士が、例の湖畔の廃村で解毒薬を見たと言いましてな。あの子と一緒に逃げてきた魔力のある女性と共に、その村に向かったのです。……ああ、そう言えばあの女性のことをまだレオン様にお話しておりませんでしたな。驚かれるかもしれませんが、毒にやられたあの少女を、盆地を歩き通してここまで担いできた女性がいるのです」
「……へえ」
「こんなご時世に杖を持っていましたから、かなり修行を積んだ放浪の魔女なのでしょうな。我が同僚も……調子に乗るので本人には申しませんが、中々腕の立つ兵士です。あの二人なら、きっと無事に帰ってくるでしょう。肝心の薬が見つかるといいのですが」
その言葉を黙って聞く魔術師がうっすら口元に浮かべた笑みは、それまでの笑みと違って少しだけ作り物じみた笑みだったが、兵士はとうとうそのわずかな変化に気付くことはなかった。




