第30話 屍と窮地
「じゃあ、一体誰が変えてくれるの?」
あなたの言うこの腐った宮廷を、一体誰が変えてくれるの?
言葉はまるで、夏の日に注ぐ不意のにわか雨のようだった。
答える術もなく、魔術師はしばらくその雨に打たれていたのだ。
そしてそのまま花園から逃げ帰った。
単純に心だけ抉られて、帰ってきた。
それでも自分に出来ることをしなければ前に進めないと、そう思うまでしばらくかかるくらい、深い傷を負いながら。
一心に手を動かし続けるダリオの前で、火にかけていた青い薬が沸騰を始める。
浮き上がる泡沫を眺めながら、魔術師もまた、己の心に絶えず浮上する彼女の言葉と闘い続けていた。
……発する者も聞く者も答えがないことを最初から知っているあの問答に、今度は上手く答えられないかと。
向けられた強い眼光。それに撃たれたあのときの自分を思い出しながら、ダリオはひたすら床にうつむき手を動かし続けていた。
「……ちょっと、聞いているんですか、ダリオ様」
記憶の中の令嬢の声は、聞き慣れた少年の小言へと変わっていく。
刹那の逡巡は終わり。彼の小言に引っ張られるように、ダリオは現実へと引き戻された。
「……またあなたは、執務室でそんな物を広げて。一体何を遊んでいるんですか?」
扉の向こうから聞こえてきた苦々しげな少年の声に、現在のその部屋の主はやっと床から顔を上げる。
しかし作業に向かう体は訪問者に向けることなく、こう返した。
「やあ、ルナ。見ての通りだよ」
「見ての通り何をやっているか分からないから聞いているんです」
「薬の調合だよ」
泡を吹き始めたフラスコに目を戻しながら、宮廷筆頭魔術師代理・ダリオはそのように返答を重ねた。
その目の前には複雑に組まれた蒸留装置が、執務室の床の一角を占領するように置かれている。
「それは分かります。そうではなくて、その薬の調合は何のために……」
ずれた答えが返る問答に少しだけ疲れた様子で、ルナ少年は執務室の中へと踏み込んでくる。
その間もダリオは、部屋の中を走り回る黄色い雛達に時々つつかれながら、床に敷いたござの上で手を動かし続けていた。
そして、すぐ側まで近付いてきた少年の、じっとりとした視線を真横から受ける。
それでもこれは大事な作業だ。
執務の合間に、どうしてもやっておかなければならないことの一つだった。
ござの上に置いた蒸留器の釜に、さささっと三種類ほど薬草を詰めていく。すでに蒸留の終わった精油の入った試験官を回収しながら、ダリオは少年に言葉を返した。
「ほら、僕もとうとう宮廷で暗殺される可能性のある異分子になっただろ? だからいつ毒矢で襲われてもいいように、解毒薬を調合してるんだ」
「……」
横目だが、少年があんぐりと口を開けてこちらを見ているのがありありと分かった。
呆れを通り越して固まってるな、これは。
ダリオの足下には既に調合の終わった色とりどりの薬の瓶が十本ほど並び、そのかたわらには開いたままの薬草図鑑が転がっていた。
「珍しい毒だけど、これも一応解毒薬を作っておくか」と、宮廷筆頭魔術師代理はさらに分厚い図鑑のページをめくる。
その様子に、少年は若い額にシワを寄せ、ますます顔をしかめた。
「まったく、執務もまあまあたまってきてるというのにそんなことを……。それに、相手が毒を使ってくるとは限らないのでは?」
「事前に準備しておくのは大事だ。……昔、史跡調査の途中で遺跡に仕掛けられてた毒矢に当たったときは大変だった。優秀な剣士が護衛に付いてくれてたけど、遺跡の壁に魔術師を弱らせる毒が仕込まれてて。毒に当たれば護衛がいてもどうにもできないからね」
そこまで言うと少年は渋々というふうに口を閉じた。
ルナも先日ダリオの身に起きたことは知っている。
城の離れの睡蓮の池の付近で、得体の知れぬ者達に暗殺されかかったのだと、それだけのことは伝えたから。
同じ部屋で過ごしていればいずれバレるし、宮廷筆頭魔術師代理の補佐を務めてくれている少年は、しょっちゅうダリオの側に付いている。
ダリオが執務の途中に命を狙われることがあれば、ルナ少年もまた危険に巻き込まれる可能性が高い。
だからダリオは、話せるところまでは少年に事情を話した。……聖典云々に関わる所を除いて、正直に。
「大臣補佐の当てこすりなんて序の口だったな。まさか宮廷筆頭魔術師代理になってほんの数日で、命を狙われるようになるなんて」
「他人事ですか。あなたがもう少しご自分の身の回りのことに気をつけて過して下されば、こんなことには……」
そしてルナ少年の視線は、部屋の中にいるもう一人の人物――足下を走り回る雛達を器用に避けながら本棚の整理をしている水色の瞳の女性……ダフネの方に向いた。
「……件の大臣補佐殿が噂してましたよ。あなたが執務室に女性を連れ込んでいると」
「少しの間、彼女に僕の助手を務めてもらうだけだ。睡蓮魔術師団にも話は通してある」
そう。ダフネ。
睡蓮魔術師団に所属する魔術師である彼女は、しばらくの間、ダリオの補佐を務めることになったのだ。
レオナルドの謎の手紙に引き合わされ出会った彼女は、この宮廷で正体不明の闇の組織に命を狙われている。
彼女の暗殺を謀るその組織の凶行の現場に遭遇したことで、ダリオもまた彼女と同じ暗殺対象となったのだ。
ダフネがこの部屋にいるのは、もちろんその事件に関連している。
あれはさかのぼること昨日の話。
「十日……いや、レオナルドが帰ってくるまでの間、ダフネを僕に貸して下さい」
勇気を振り絞り何度目かやって来た女性達の社交場の一角で、ダリオはその社交場の主である貴婦人・メロコトネロ夫人に頭を下げていた。
睡蓮魔術師団に所属する魔術師であるダフネを、しばらく宮廷筆頭魔術師代理の補佐として引き抜くために。
それを聞いたときのメロコトネロ夫人の顔と言ったら……。
塗り固めた厚化粧が皺の端からパラパラ崩れるようなものすごい顔をされたが、睡蓮魔術師団団長は結局ダフネの一時離脱を認めてくれた。
これで彼女は睡蓮魔術師団団員兼、宮廷筆頭魔術師代理補佐となったのだ。
パタパタと本棚を整理するダフネを斜から眺め、ルナ少年は仕方なさそうに肩をすくめる。
宮廷筆頭魔術師の執務室に、代理の身分のダリオが一存でもう一人魔術師を置くこと自体は横暴ではない。
もともと代理を任されるときに、レオナルドからルナとは別に補佐を付けてもいいと言われていたのだ。しかしダリオには弟子もいないためその枠は空きにしていた。
そこにダフネに入ってもらったのだ。
どうせ同じ組織に狙われるなら、狙われる者同士一緒にいた方がいい。それに……。
最早起きてしまったことに口出ししても効果はないと知ったのか、ルナ少年は改めてはあと一つため息をつく。
「レオナルド様が帰ってきたときに、なんと報告すればいいのやら……」
そして床にくっつきそうなローブをひるがえし、さっさと執務室の扉を出ていってしまった。……まるで汚い大人の世界から逃げるように早足で。
宮廷筆頭魔術師代理はそれを、少しだけ複雑な表情で見送っていた。
「すみません、ダリオ様。私のせいで……」
「いや、僕のせいで君に変な噂が立ったんだ。ごめん」
本棚の影から申し訳なさそうにこちらへと近付いてくるダフネに、ダリオは即座に謝罪を口にする。
つい先日会ったばかりの女性を、その所属団体に無理を言って引き抜いて補佐に据える……。
確かに外側から見たら降って湧いた地位を利用した強権的な行いだ。影でどんな憶測をされ、何を言われるか……。
すでにあの嫌味な大臣補佐に変な噂を立てられているようだし。
それでもダリオには、ダフネを睡蓮魔術師団からどうしても引き離したいわけがあった。
聖典ギャラクシアを目撃したという、彼女に迫る暗殺の脅威。
……聖典は王の目に触れない場所に誰かが隠し、王宮から遠ざけている。
ダフネの言ったことが本当なら、兇手は必ずその事実を知る彼女を消しに来る。……必ずだ。
あの月夜の暗殺未遂事件の折。睡蓮の池の周りには、部外者の動きを見張る警戒役が逢い引き中の男女に扮して立たされていた。
恐らく城の離れのあの美しい庭の周辺には、間者がそこら中に紛れこんでいるのだろう。
使用人に扮しているか、兵士に扮しているか、それとも招かれた貴族の中にいるのか……。
しかし最もダフネを見張りやすいのは、彼女が所属する睡蓮魔術師団の中だ。
その考えに至るだけで、暗殺を避けるためどうすればいいかは自ずと分かる。ダフネをあの貴婦人達の社交場からなるべく引き離さなければならない。
そのためにダリオは今の地位を利用したのだ。
……それともう一つ。差し迫った暗殺の脅威に加えて、ダリオにはダフネをあの場所から引き離したい別の理由があった。
あの事件の後、ダリオはダフネが所属する睡蓮魔術師団のことを改めて調べてみたのだ。
そして調べていくうちに、睡蓮魔術師団自体に対して、ある疑いを持った。
あの美しい庭に踏み込んでいかなければ、絶対に抱くことがなかった疑惑を……。
「ダリオ様。魔術学校からご所望のものが届きました。今すべてここにお運びしても?」
「あ、ああ。ありがとう」
暗い思考に飲まれていたダリオに、執務室の外から声がかかる。
ルナ少年と入れ違いに、この部屋付きの従僕がバタバタと執務室に入ってきていた。
彼に続いて、下僕達が次々と素焼きの壺を部屋の中に運び入れる。
何事かと、ダフネはそれを目を丸くして眺めていた。
「王立魔術学校に頼んで、生徒が練習用に使う壺を分けてもらったんだ。この素材を利用して、ほとんどの魔術が通らない壁を作れないかなと思って」
「聞いたことがあります。それが、特定の魔術を当てなければ壊れない壺、なのですね」
今まで国の魔術教育を正式に受けたことがないというダフネは、興味深そうに部屋に運ばれてくる壺を眺めていた。
薬瓶を割らぬようござの上から立ち上がり、ダリオはその搬入を手伝う。
解毒薬の次は最強の盾作りに挑戦だ。
こっちはまったく専門ではないので少々骨が折れるかも知れないが、持ってきてもらった素材自体はかなりの可能性を備えている。
特定の魔術しか通さない特殊な素材。これを応用すれば、ほぼ全ての魔術を防ぐ盾が作れるかも知れない。
暗殺者達の中には魔術師もいるのだ。魔術用の防具があるに越したことはないだろう。
従僕に頼んで壺を一つ手近に置いてもらいながら、ダリオは言う。
「ただの魔術の練習道具と思ってたけど、今思うとすごい素材だ。元になってる粘土は古代の遺跡から発掘するしか手に入れる術がないから、量産できないのが惜しいね」
「へえ……」
「確かにその素材なら、色んな魔術に対応できる盾ができそうですね」と、ダフネは壺の表面に触れる。
そんな彼女に、ダリオは少しだけ苦い顔で返した。
「だけどこの素材、確かに貴重だけど相対する魔術師によってはただの赤土も同然なんだ」
「え?」
「例えばこの壺は、炎の魔術を当てないと壊れない壺だ。……でも実はこの壺、炎の魔術以外でも壊せるんだ」
冷たい壺の縁に指をかけながら、少しだけ回顧に沈む。そんなダリオを、ダフネは不思議そうに見ていた。
「昔、友達が見せてくれた。あれはホントにびっくりしたよ」
だからこそ、盾に使う素材としてはまだ研究の余地がある。
暗殺者の中に、幼いダリオの記憶の中に生きる、あの友達ほどの手練れがいるかは分からないが……。
「もし、この世に全ての魔術が通らない素材と、その盾が発明されたとしても……彼女はきっと、それさえ何とかするかも知れないな」
手に入れた解毒薬を握りしめ、眉間に深いシワを寄せながら、ピエドラは薬師の家の外から聞こえてくる不思議な音に耳を澄ませていた。
湖の上の不思議な村に忍び込み、やっとソルの解毒薬を手に入れたと思った矢先。
魔女は甲冑の兵士ウィンフレッドとともに、薬師の家の中で不気味な音に取り囲まれていた。
……変な音だ。連続したギシギシいう金属音。
しかし兵士や騎士の着る甲冑の音とも違う。
そしてそれが、多分この家の周りを歩いているのだ。絶対に人間の足音ではないが、二足歩行でコツコツと。
しかもその音、この家の周りを囲む湖から上がってきたような……。
そう。周りを泥の海に囲まれ決して人が近付けないはずの湖から、まさに這い上がってきたかのように唐突に聞こえてきたのだ。
まるで木造の壁の中に潜む者を捜索するかのように、ギシギシいう足音はじわじわと時間をかけて家の周りを巡っていく。
薬師の家の玄関の扉の両側にピッタリ体をくっつけて、魔女と兵士はその音に耳を澄ませていた。
あの音が聞こえているうちは、この家から出てはいけない。
どうやら二人とも瞬間的にそう感じたらしい。
……あの音は普通ではない。
無機質で、獣でも人間でもなく、死霊の類いでもなくて。それでいて聞いている者の恐怖心を最大まで煽る、得体の知れなさを感じさせるのだ。
やがて。浮き板をコツコツいわせていた金属音は、薬師の家の奥の方で止まった。
窓と扉を閉めきったその家の暗がりの中で、魔女と兵士は互いに呟く。
「嫌な予感がするわね」
「……後ろから来るな」
二人の言葉通り。
ズガンと、家の奥の壁が大きな衝撃とともに音を立てる。それが二度、三度続いた後、壁の向こうから横なぎに斧の先が飛び出してきた。
衝撃で薬瓶の並ぶ棚がなぎ倒され、世界中の医学の粋を集めた薬品が無残に床に染み出していく。
魔女と兵士はもう叫ぶ余裕もなく、慌てて臨戦態勢をとっていた。
破れた壁の向こうへ、舞い上がる木屑とともに十数年前のハーブの匂いを留めていた空気が逃げていく。
壁はさらに大きく粉砕され、そこから外にいる脅威が体をのぞかせていた。
その姿に、魔女と兵士は言葉もなく息を飲む。
骸骨、屍、死体……。
その姿を見た瞬間、ピエドラの頭にその言葉がよぎった。
しかしよく見ればそれは本物の死骸ではなく、人骨を模した機械的な金属の骨組みだと分かるのだ。
人間の必要最低限の動きをこなせるように作られた、すかすかの骨組みだ。
そしてそれを視覚から理解するだけで、魔女の背には震えが走るようだった。
……それが何のために人間の形をしているか、先ほど壁を破ってきた細い腕が手にしている大きな斧の存在で察せるから。
「またなの……」
あれは多分、悪魔の城でピエドラを襲った機械人形と同じ魔導機構の類いだ。
黒光りするまさに骨のような細い手足。陥没した金属の眼窩の窪みには、丸いガラス玉を光らせるような目玉が輝き……。
そして骨組みの真ん中、人間で言うと胸に当たる部分には、まるでそこだけ覆う鎧のように、黒い金属の装甲が取り付けられていた。
骸型の魔導機構は床に転がる薬の瓶を踏み散らしながら、ゆっくり家の中へと踏み込んでくる。そして単純な光の玉のような目に二人の人間の姿をとらえた。
それだけで、その視線の先にいる魔女と兵士が自らの命の危険を悟るには十分だった。
「おい、どちらさんのご訪問かよく分かんねえけど逃げるぞ!」
「分かってるわよ!」
しかし。
玄関の扉から外に出ようとした二人の道を断つかのように、次なる刺客は間近に迫っていた。
ドーンという豪音と共に、玄関の扉が破られる。
そしてその先に、家の奥の壁をぶち破って登場したのと同じ、大剣を持った骸のような刺客が現れたのだ。
魔女と兵士はいよいよ言葉を失う。
……挟まれた。
「風よ!」
ピエドラが咄嗟に放った魔術は、決して威力不足ではなかった。
むしろ日頃の失敗魔術をはるかに凌駕する疾風のごとき風の弾が、玄関をふさぐ骸型の魔導機構に向けて飛んでいく。
しかし、
「風の魔術が効かない……」
風圧に耐えたとかそういうのではない。魔術が、異形の胸の装甲に当たった瞬間かき消された。そう見えた。
風に当たったはずの屍は、全くの無傷で変わらずその場に立っている。
驚愕とともに、魔女の頭にはある記憶が甦っていた。
先程のあの反応……見たことがある。特定の属性の魔術を当てなければ壊れない壺に、『それ以外の魔術』を当てたときの反応だ。
「……っ!」
異形が双方から家の中に踏み込んでくるのに合わせて、魔女の脇を兵士が走り抜ける。
この湿原へ来て始めて、ウィンフレッドが腰の剣を抜いた。
彼の剣は玄関に陣取る骸の方へと、吸い込まれるように伸びていく。
目にもとまらぬ一撃だった。
迫られた骸が剣を振り上げる暇さえない内に、その斬撃は空気を一閃する。
異形の腕からガランと剣が落ちた。しかし、
「うおっ!?」
剣を取り落とさせた兵士に向かって、異形の細い胴が恐ろしい勢いで体当たりする。そのままウィンフレッドの体を、奥の方にいるもう一方の異形の前まで突き飛ばした。
吹っ飛んでいく兵士の体が、立ったまま残されていた棚をなぎ倒し薬品の瓶を派手に粉砕していく。
そのまま床に叩き付けられた瞬間己の首を裁断しようと振り下ろされた斧を、兵士は間一髪の所で気付いてかわした。
……このままでは駄目だ。
ピエドラは目の前にいる、剣を落とされた方の異形に集中した。
装甲に覆われた胸に魔術を撃ってもダメだ。なら手足はどうだ?
短く息を吐き、かっと目を開く。
鎌鼬のような風の斬撃は、異形の足を玄関の外へと折らせ、その体を戸口の向こうに押し倒した。
「今のうちに行くわよ!」
そのまま魔女は、家の奥で斧を振るう異形と相対していた兵士を呼ぶ。
倒れた異形の脇を抜け、ピエドラとウィンフレッドは薬師の家から水上の村へと飛び出した。
「何がどうなってんの? あの黒い骨は一体何なの?」
「知らねえよ。俺も何回かこの村に来てるが、あんな化け物見たことねえ!」
残念ながら二人がそれ以上会話を続ける余地はなかった。
走りながら話す二人の後ろやら前やらは、あっという間に薬師の家で会った異形と似たような骸の集団でいっぱいになったから。
骸骨のような細い体を、兵士の剣や魔女の魔術で武器を飛ばしたり押し返したりすることはできる。
しかし恐るべき金属の体は、致命傷というものをまるで知らない。
だからこそ湖の中から這い出す彼らの数は、時を追うごとにどんどん増えていくのだ。
こうなれば最早二人が目指す先は一つ。
魔女と兵士は、ひたすら村の入り口の跳ね橋を目指して走る。
しかし、
「おい! やめろ!」
ウィンフレッドの叫びの少し先で、村の入り口にたむろしていた異形の細い腕がゆっくり振り上げられる。
駆けてきた魔女と兵士が見ている前で、跳ね橋を下ろす装置は無残にも異形が握る大剣に潰されてしまった。
……つまり魔女と兵士はもう村から出られなくなった。
ギシギシギシギシと、桟橋と己の関節を同時にきしませながら、異形はゆっくりと逃走者二人を取り囲んでいく。
ピエドラは思わず、杖と反対の手に持つ解毒薬の瓶を握りしめていた。
このままではソルに薬を持って帰るどころか、ここで……。
霧深き湖に浮かぶ村で、最早二人は周りに群がる異形の贄と化していた。
……ここから挽回する術は一つ。
薬瓶ではなく杖の方を握り直すと、魔女は再び渾身の風の魔術に賭けた。
「はーはっはっはっ! いいぞ! 今度の新作はかなりの出来だ!」
森のふちに建てられた広い天幕の中に、その男の声は弾けるように大きく響いた。
右目に着けたモノクルが、ギラリとテントの中に灯るランプの光を反射する。
気味の悪い高笑いに、その人物の周りにいた甲冑の騎士達はそろって一歩後ろへと引いていった。
しかしそんなことはお構い無し。唇の端を目の付近までつり上げて笑うモノクルの男は、なおも手の平を胸の前に掲げ、上機嫌でテントの中を行ったり来たりする。
同じテントの中にいる黒い甲冑姿の男達は、彼と距離を取るように遠巻きにしながら己の仕事をこなしていた。
そこへ。
テントの外に響いた馬のいななきに、モノクルの男を除く甲冑の騎士達は次々天幕をくぐって表に出る。
そして十数張りほど建てられたテントの群れの向こう。盆地の草原を越えて近付いてきた二頭の馬と、それにまたがる二人の人物に、騎士達はそろって歓喜の声を上げた。
「団長! それにドン・クラーロも! お待ちしておりました!」
その声に、テントへ近付いてくる先頭の馬に乗った偉丈夫が髭に囲まれた端正な唇の端を上げる。
「待たせたな。誉れある我が同胞、黒銀騎士達よ」
首から下を覆う、他の団員達より数段立派な黒銀の甲冑。肩から優雅に垂れたマントにほどこされた王侯貴族にも真似できぬような豪奢な刺繍は、しかしその男を飾り立てるにはまったく大げさではなく。
天に逆立つようなたてがみを持った黒馬にまたがる姿は、味方から見ても敵から見ても正に将星。
かの黒銀騎士団団長の姿が一度戦場に現れれば、味方本陣は沸き立ち敵陣は憔悴に包まれるのだ。
戦局を大きく揺るがす、虎の目の男がやって来たと。
テントの中の怪しい魔術師に戸惑いを見せていた騎士達も、現れた上司にほっと安堵の表情を浮かべた。
「まったく……花街からここまでお連れするのは骨が折れましたぞ。何度説得しても重い腰を上げないもんだから……」
そう小言をこぼすのは、偉丈夫のすぐ後ろに従う栗毛の馬に乗る立派な髭の紳士。黒銀騎士団団長の副官を務める人物だった。
「悪かったな、ドン・クラーロ。しかし天幕の中にいる変人のお守りの方がよっぽど骨が折れるんじゃないか?」
馬上で優雅に首を傾ぐ上司の言葉に、テントから出てきた騎士達はそろって顔を見合わせる。
その様子に、髭の紳士も眉間にシワを寄せ深々とため息をついた。
「これも閣下の世の実現のためとはいえ、我らがあんなおかしな魔術師の手を借りることになるとは……」
「レオナルドの手じゃないだけ良かっただろう? それに魔術師といっても、あれは中々使える男だ。ちょっとご機嫌さえ取ってやればな」
馬を下り、テントの中に聞こえるか聞こえぬかの声で、黒銀騎士団の団長と副官は会話を続ける。
くぐる天幕の向こうには、嬉しげに頬を緩め、その場を行ったり来たりしながら独り言を呟くローブの背が見えていた。
「どうやら首尾は上々のようだな、導師アラリコよ」
騎士の長のその言葉に、いまだ歓喜に沸き立つモノクルの男は意気揚々と振り返る。
「上々! まさに上々さ! 魔導機構が動いてる間は、搭載された魔石が魔力を発する。それがいまだに全部感知できてる。つまり、俺の兵器はまだピンピンしてるってことさ!」
彼の言葉に続くように、テントの中に戻ってきた黒銀の甲冑の騎士が、上司にある報告をする。
霧が深まるこの先の森の中で、今まさに白銀騎士の集団がいくつか行方不明になっているという報告を。
懇親のための狩りは終わり、白銀騎士達は血相を変えてその行方不明者達を探していると。
その報告に、黒銀騎士の長は髭に囲まれた口元を笑いの形に歪めた。そしてモノクルの男に改めて賛辞の言葉を贈る。
「よくやった。イクリプス公にも良い報告ができる。貴殿の立場もより良いものとなるだろう。……このまま仕事を続けてくれ」
その言葉に、モノクルの奥の瞳がさらなる歓喜に輝く。
テントの中でひたすら頬を上気させるローブの男を残し、騎士の長とその副官は天幕の外に出た。
「やはり変人ですな。これで白銀騎士を闇の内に始末できなければ、あの男どうしてくれようか……」
「心配せずともこのままなら上手くことが運ぶだろう。この湿原では毎年何人か騎士が泥に埋もれていなくなる。仮に後で怪しまれたところで、イクリプス公ならその声を潰せる」
「こうして少しずつ、陛下のお力は削がれていくわけですな……」
「割り切れ、ドン・クラーロ。確かに白銀騎士は惨めな最期をとげる。だがそれはすべてこの国の未来のためだ」
上司の言葉に、髭の紳士はため息混じりに前を向く。
「やつが言っていた、この湿原で動いている兵器とは、一体何なのです? まるで放っておけば勝手に標的を始末してくれるような口ぶりでしたが」
「この国の最新鋭の代物さ。騎士も魔術師も太刀打ちできない、甦った屍みたいな鋼の軍団だ。魔術も通らないし、剣で断つこともできない……各国の為政者が喉から手が出るほど欲しがるだろう不死身の兵士だ」
いまだその言葉が信じられないのか、副官は胡乱げな表情で前を行く上司を見る。
その視線の先にいる男はただ、戦場で勝ちを見越したときと同じ、泰然とした顔で微笑むばかりだった。




