第29話 迫る影と湖上の村(2)
「森が開けてきたな。目的の村までもう少しだ」
自分のすぐ前の茂みから聞こえた甲冑の兵士の声に、魔女ははっと顔を上げる。
毒に冒されたソルのため解毒薬を求めて、魔女ピエドラと甲冑の兵士ウィンフレッドは、盆地を突っ切りとある打ち捨てられた集落へと向かっていた。
そしていよいよその村が近付き、二人してガサリガサリと歩いてきた茂みから出る。
その前には、周りを背の高い葦の茂みに囲まれた、巨大な水溜まりが横たわっていた。
「村はあの湖のほとりにある。ほら、あの辺りだ」
ウィンフレッドが籠手をはめた指で湖のある一点を指す。しかしピエドラの目に、その村の姿はまだ判然としなかった。
ウィンフレッドが示す辺りを、深い霧が覆っていたからだ。
「変な所だろ? この霧の中に盗賊が紛れてないかって、騎士はよくここまで見回りに来るんだが……」
ウィンフレッドの言う通り。確かに変だった。
盆地に降りていた朝靄はとっくに晴れているのに、ここだけ深く霧がかかっている。
近付けば湖の存在は目視できるが、それ以上の情報は得られない。ただ、だだっ広い水溜まりと葦の茂みが見えるだけだ。
奇妙な光景に首を傾げるピエドラの横で、甲冑の兵士は湖の対岸と思われる方を見はるかして言った。
「この湖の対岸が、多分騎士達が狩りをしてる狩り場だ。まあ、向こうからもこの霧で何も見えないだろうけど」
視界は不良だが不審な動きを見とがめられないのは好都合だと、兵士は湖の方へと踏み出す。そして少し緊張した様子で、葦の茂みを避けながらその岸を歩き始めた。
「気をつけてくれよ? 一見綺麗に見えるが、ここはでかい泥沼だ。葦の茂みに一歩でも踏み込めば、甲冑なんて着てなくても底なしの泥の中にドボンだ」
その言葉に、魔女は改めて杖で柔らかい地面をつついてみる。
なるほど足下がかなりぬかるんでいる。押すところによってはジワジワ水が滲んでくるし、どうやらこの辺り全体が湖を中心とした巨大な湿原になっているようだ。
「うおっと!」
他人に注意したそばから、甲冑の兵士の鉄を纏う足が深く泥の中に突き刺さる。
ピエドラは慌ててその側に駆けよった。
「だ、大丈夫なの?」
彼の足はすでに膝下まで埋まり、完全に泥に足を絡めとられている。甲冑なんか着てるから余計身動きもとれないだろう。
しかし魔女が鎧に目を遣ると、ウィンフレッドは何故か慌てて身をよじった。
「冗談だろ。この甲冑は俺の相棒だ。俺はこの甲冑から寝るとき以外は出ないことにしてるんだ」
「……」
まだ鎧を脱げとも何とも言っていないのだが……。
どうやら甲冑は誰にも譲れぬ彼の体の一部のようなものであるらしい。
何故かこんな所で発揮された頑なさに、魔女はしばらく黙る。ピエドラが言えたことではないが、彼もまた世間の人とは少し違う感じのする青年だった。
良くも悪くも、ここまで甲冑であること以外兵士らしい所が一つもなかった。
何をするにも常に肩から力が抜けている感じだ。眠たげに目も半開きで、動作もどこかゆっくり緩やかで。
面頬を上げた兜の下の顔をよく見れば、要塞で会ったチョロ髭のマルコ以上に柔和な顔つきをしているのが分かる。
柔和というか、ピエドラが今まで見てきた兵士の中で一番しまりのない顔をしていた。
ピエドラが差し出した杖につかまりながら、ウィンフレッドはなんとか泥沼から這い上がる。案の定、鎧は泥だらけになっていた。
変な所に足を突っ込むとどうなるか、まさに彼が目の前で実演してくれたのだ。
しかしこうして泥の中からすぐに上がれたのは幸運で、深い所ではまるで底なし沼のように体が飲み込まれてしまうというのだ。
そのために、この辺りに近付いた騎士が毎年何人か犠牲になっているという。
「やっちまった。要塞に戻るまでに綺麗にしないと……」
泥だらけになった脛当てと籠手を悲痛な表情で眺めながら兵士がぼやく。
湖畔の新鮮な泥を身に纏ったまま、彼はピエドラの案内を続けた。
そのまましばらく歩くと、霧の中にうっすらと、岸辺に立つ大きな門のようなものが見えてきていた。
「あそこが村の入り口だ」
ウィンフレッドが指差すその場所は、まさに開け放された門だった。
しかし湖のほとりに立つその門に扉はなく、向こう側には湖面が見えているだけで村へ入る道などない。
魔女がその光景に呆けていると、となりからウィンフレッドの声がかかった。
「そこに何か魔術を撃ってみてくれ」
その言葉に、ピエドラは門のかたわらに取り付けられた不思議な装置の存在にやっと気付いた。
小さな四枚の透明な羽を持った、風車のようなものが門の脇にくっついているのだ。
兵士はそこに魔術を撃てと言う。
「風よ……」
ウィンフレッドの言葉に首をかしげながらも、ピエドラは小さく風を起こしてその風車に当てた。
すると透明な羽に風を絡ませるように回る風車が、その全体にわずかに光を灯し始める。
そしてその風車の回転とともに、門の向こう側からある音が響き始めていた。
滑車が回るような音と、木の板がバキバキ軋むような音。
そして驚くことに、滑車が回る音が止んだ瞬間、バタンと門の向こうに橋が降りてきたのだ。
どうやらピエドラの魔術に反応して、湖の向こうにある跳ね橋が降りたらしかった。
「……何なの、ここ」
「だよな。俺も最初に来たとき戦慄した。ここは普通の村じゃないってな」
ウィンフレッドの言葉に、ピエドラは自分がまたも厄介な場所に突っ込もうとしていることに気付く。
……ここはソルの薬のためだ。
村は今無人だと言うし、これ以上変なことは何も起こらないだろう。この嫌な予感はただの杞憂だ。
湿気で木の皮が剥がれまくった跳ね橋を、眉間にシワを寄せる魔女と甲冑の兵士は進んでいく。
やがて纏わりつく深い霧の中に、橋の終わりが見え始めた。向こう岸にあったのと同じような門が、橋を渡ってきた二人を待ち受ける。
しかしまたそこで驚くべきことに。
二人がその門をくぐると同時に、跳ね橋が瞬時に上がってしまったのだ。
厄介の気配を鋭く察知した魔女は、思わず上がった橋を凝視する。
なるほどこれでは入り口はすぐにふさがれてしまう。
こちら側の門にも向こう側と同じような装置がくっついているからまた橋を降ろすことはできるだろうが、魔術師を伴わなければここの往来は無理だ。
「周りは泥の海で舟も出せないから、入れる場所はこの橋だけだ。何というか、すごい村だろ?」
「すごく不便な村ね……」
「昔住んでたやつらにとってはそうでもなかったんじゃねえか? ここは魔術師の集落の跡らしいから」
「魔術師の集落?」
「俺も詳しいことは知らない。元々魔術師達が興した村らしいけど、十何年前にその魔術師達がいなくなって、それから誰も住み着かなくなったんだとさ」
ピエドラの少し先を行くウィンフレッドが呟く。
兵士の呟きの向こうで、少しずつその場を覆っていた霧が晴れ始めていた。
そしてその向こうに見えてきたのは。
「……」
その光景に、魔女はしばらく目を点にする。
目の前には、桟橋で繋がった木造の家が。霧の中に目視できるだけで十数戸は水の上に浮かんでいる。そう、浮かんでいるのだ。
湖のほとりに立っているというか、これは岸と完全に独立した、水上の村だ。
霧さえかかっていなければ、目の前の光景は魔女の目にも美しく映ったかもしれない。
どこまでも静かな水面。その上に渡された木の板に乗って浮かぶ、傾斜のついた屋根を持った可愛らしい小さな家の群れ。
その間を埋める霧の中から今にも何かが飛び出して来そうなおどろおどろしささえ無ければ、きっと別の意味で心動かされる光景だっただろう。
そして。視覚に加えて、さらにそのおどろおどろしさに拍車をかけているのは……。
「……静かね」
そう呟くピエドラの声だけが、今空気を震わせるすべての音だ。
村が放棄されて十数年経つと言うが、家々に荒れた様子はなく、まるで立ち込める霧以外は時が止まったようにすべてが静まりかえっている。
水面に飛び込む虫の音さえしない。
……すうっと、立ちすくむ魔女の脇を風が吹き抜けていく。生ぬるいくせに、何故か鳥肌を立たせていくような気味の悪い風が。
「真ん中の家が目的の薬師の家だ。行こうぜ」
湖上の静寂を破り、甲冑を鳴らしながら前を行く兵士の言葉に、魔女ははっと我に返る。
そうだ。ここには探検にきたわけではない。ソルのために来たのだ。
ピエドラは短く息を吐き、杖をコツンと前に向けてつく。
兵士と魔女は家々をつなぐ桟橋をきしませながら、その真ん中にある一際大きな家を目指して歩いた。
歩きながら見渡せば、水に浮かぶ家々にはきちんと窓や煙突が備えられているのが分かる。
今のところ、魔術師の集落といっても村の構造以上の特異はない。家の中に入れば、もっと魔術師にしか使用用途が分からないような珍しいものも置いてあるのかもしれないが……。
ふと。キョロキョロと辺りを見回していたピエドラは、過ぎていく木造の家屋の軒にさらされたあるものに目をとめる。
そして意匠も何もないその素焼きの壺に、思わず目を開きながら一歩近付いていた。
懐かしい。
あれは多分、ある特定の魔術を当てないと割れない壺……。未熟な魔術師が魔術の練習のため使う、結構貴重な道具だ。
しかしあの壺、実は『ある特定の魔術』を当てなくても割る方法があるのだ。
二十年前、あの魔術師の家の少年と遊んでいるときに発見した、ある方法が……。
いや、今はあんなものに構っている場合ではない。さっさと薬を見つけて、この気味の悪い村から出ないと。
甲冑の背に目を戻し、魔女は懐古から現実に戻る。
向かう桟橋の先に、屋根を二つ持った大きな家が見えてきていた。あれが目指す薬師の家の跡らしい。
ゆっくりとその家のドアを引き、ウィンフレッドは屋内を確認する。そして後に続く魔女を手招きした。
甲冑の背に続いて家のドアをくぐったピエドラは、中の様子を見て軽くため息をつく。
一歩屋内に踏み込めば、ハーブをすりつぶしたような独特な匂いが魔女を包んだ。
見渡す限り、室内は薬瓶の入った棚で一杯。脇には薬草を挽くためか大きなすり鉢が備えられ、台所など普通の家のような生活空間は必要最低限のものだけ。それ以外の場所には分厚い本の山が部屋の隙間を埋めるように置かれている。
そしてその全てが、昨日まで誰かが暮らしていたかと思うくらい整然としているのだ。
「すごい数の薬だろ? 多分世界中から集めたんだろうな」
魔女と同じように、並ぶ薬棚を仰ぎ見ていたウィンフレッドが呟く。
その言葉の通り、部屋の半分以上が薬品の瓶で埋もれた棚なのだ。
哨戒に来た騎士が薬を持ち帰ろうとしたこともあったが、あまりにも数が多く効能も分からずで未だ手付かずとのこと。
半端な知識しかないピエドラにもここに並ぶ薬の価値はよく分からないが、見る者が見れば薬剤の宝庫に歓喜するのではないだろうか。
部屋の隅に置かれていた短い梯子を棚に引っ掛け薬をあさりながら、兵士が呟く。
「ええっと、解毒薬はどこにあったかなと。……そうだ。ついでに傷薬ももらっていくか?」
「どれが傷薬だか分かるの?」
「騎士様には黙ってたけど、俺は結構薬には詳しいんだ。昔、とんでもない部隊に配属されてたからな。傷病者が出まくるのに、医者なんていないから自分達で何とかするしかなかった」
「それは……凄まじい経験ね」
「俺達が入植した土地の人間に比べたら、大したことないさ」
その言葉に、魔女は彼の派兵されていた先を察する。過去を語る兵士の顔に苦悩はなかったが、同時に何の誉れもなかった。
「もう五年も六年も前だ。俺は異大陸に進出した駐留部隊にいた。その頃はまだ現地の部族との戦いが続いてて、何日もジャングルを切り開いたり当て所なく沼地を歩かされたり……」
相変わらず淡々と兵士は語る。
「でもほんとの地獄はその先にあった。この国の人間が入植してから、異大陸は地獄に変わった」
「……」
おしゃべりの間も記憶を頼りに薬の在りかを探っていたのか、兵士はある瓶を棚から取り出す。
「ほら、これが多分その解毒薬だ」
言いながら、端が少し剥がれかけたラベルの巻かれたその瓶を魔女に渡してくれた。
薬瓶の冷たい感触に、ピエドラはほっと息をつく。
ようやくソルを治療するための希望を手に入れられたのだ。
さすが、魔力に干渉するとかいう珍しい毒を治療するためのものとあって、手にした薬瓶の中身は普通の薬とは風貌が違っていた。
中の薬品は揺らす度に液面を違う色に光らせるし、ラベルには縮小した魔法陣のようなものが描かれている。確かにこの薬は一度見たら忘れられないかも知れない。
目的の薬を探し終え、魔女と兵士は薬棚から離れ玄関の方を振り返る。
そのときだった。
「……何の音だ?」
「……? 外に誰かいる……?」
虫が水に飛び込む音さえ聞こえぬ村の静寂が徐々に破られ始めたのを、二人は敏感に察知していた。
そう。音が聞こえてきたのだ。
誰も踏み込めぬはずの、湖の方から。
その異変に気付いて、二人は顔を見合わせる。
ウィンフレッドは静かに、明かりをとるため開け放していた家の扉を閉めた。
その直後だった。
家を乗せる浮き板にガシャンと固いものが当たる音。木材とは別の、まるで金属が鳴るような不快な軋み音。
聞こえてきた得体の知れぬ音に、薬師の家の中にいる二人は、次第にその表情を険しくせざるを得なかった。
――魔術師達の去った広い部屋で、洒脱な騎士は琥珀色のグラスを片手に天を仰いでいた。
しばらくそのまま宙を見上げていたが、濃い眉を寄せおもむろに立ち上がると、先ほど着たばかりの上着をがっと脱いで長椅子に叩き付ける。
彼が背にする豪奢なドアの向こうから、外に控える女達をかき分け、この部屋へと近付いてくるある男の足音が聞こえてきていた。
そしてその男は、バタンと勢いよく扉を開けて入室してくる。立派な口髭を大きく上下させながら、部屋の主に向けて憤慨しきった様子でこう言った。
「まったく魔術師どもは何を考えているのか。領内を荒らしただけでなくこんな所にまで押しかけて、あれはきっと我らの口を完全に塞ごうという魂胆ですぞ!」
「落ち着け、ドン・クラーロ。あんなもん、ただの挨拶だ」
静かにたしなめる騎士の長の前で、なおも飛び込んできた髭の紳士は頭に湯気を立たせようかというほど怒気を上げている。
その上役は、顔を真っ赤にする部下の怒りを完全に無視して言葉を続けた。
「それに、やつが銀河の魔術師になれば本当にお前の言う通りになる。魔術師が絶対の権力を手にするんだ。そうなれば俺達がやつらの下に付くのも仕方がないだろう」
「な、何を呑気なことを……!」
「部屋の外にいる女達を呼び戻してくれ。思わぬ邪魔が入って酒が不味くなっちまった。飲み直したい」
相変わらず部下の怒気には一向に構わず、長椅子に座り直し杯を傾けようとする騎士の姿に、髭の紳士はがっくりと肩を落とす。
「しかしレオナルドのやつ、こんな所まで来てまさか我々の狩りの邪魔をするつもりでは……白銀騎士と何か取り引きをしたのやも……」
「邪魔でも何でも、目の届く所にいてもらった方が有難い。目を離すと何をされるか分からないからな」
「……以前手痛い失敗をされましたものな。気に入らぬ男を遠くへ左遷したと思ったら、部下や同僚を三十人も斬られて……」
その言葉に、グラスをあおろうとしていた手がピタリと止まる。
騎士の長が部下の言葉に顔色を変えたのは、そのときが初めてだった。
「……あいつのことは口にするな」
瞬きもせず発された言葉に、髭の紳士は思わずというふうに肩を震わせる。
そして慌てて話題を変えた。
「今ならまだ魔術師どもは街の中でしょう。……後を追わせますか?」
「やつを付けても無駄だ。尾行が殺されちまう」
上司の言葉に、紳士はいよいよ立派な髭をもごもごさせながら閉口した。しかし、
「……果たしてやつに俺達の邪魔ができるかな。騎士達が狩りをしてるあの辺りはレオナルドにとって因縁の地。近付きたくもないんじゃないか?」
「と、申しますと……」
「やつは昔、あの辺りで村を一つ消したのさ。自分と同じ、魔術師達の住んでた村をな」
となりで首を傾げる紳士に構わず、虎の目の男は杯を手に言葉を続ける。
グラスに半分ほど注がれた琥珀色の液体が、艶やかにランプの明かりを照り返した。
「やつにまだ、自分が踏み台にしたものを哀れむ心が残っているなら、あんな所には二度と近付こうと思わないだろう。まだ物事を悲痛と感じる心が残っているなら、な……」




