第28話 迫る影と湖上の村(1)
白銀の甲冑の男は、霧の中を走っていた。
切れる息、伝う汗、見開いた目。
陽光の下なら国中の精鋭から選ばれた栄誉を照り輝かせる白銀の鎧が、淀んだ空気のただ中で暗い森の影を映す。
体を絡めとるかと錯覚するほどの濃霧に体当たりするように走りながら、騎士の表情は次第に恐慌に引きつれていった。
どこからともなく聞こえてくる追跡の足音が、彼の恐怖を最大まで煽っていたからだ。
そして、追われる騎士はより霧の深みへと進んでいく。白銀の兜が地面に転がっても構わず、ただひたすら前へと。
彼が走ったすぐ後を追いかけていく足音は、甲冑よりずっと軽い金属の足音で。
それが白銀の鎧の駆けて行ったばかりの空間を、即座に埋め尽くしていくのだ。
やがて騎士の足がその湖にたどり着く頃には、異形の足音は完全に彼の後ろに迫っていた。
距離が詰まったことに焦ったのか、騎士はそのまま水場へと突き進んでいく。
その背に、同じようにここまで追いかけられながら、彼の後ろを走ってきていた仲間の騎士の声がかかった。
「おい! 戻れ! その先は……」
しかし時すでに遅く。先に水場にたどり着いた彼は踏み込みすぎていた。
甲冑を着た足が、まだ陸だと信じていた葦の茂みを踏む。そしてそのまま、彼は片足を踏み出す格好で底なしの泥の中へと沈んでいった。
どれだけもがいても……いいやもがくほどに、もう泥沼からは抜け出せない。
そしてそこに、
「……!」
立ち込める霧の白に、黒く細い影と、それが握る刃こぼれした大剣の影が映る。
……そしてその影は無慈悲にもゆっくり動き出した。
身動きの取れない白銀の騎士に、軋む腕から放たれた一閃は容赦なく頭から注いで。
その間に、もう一人の騎士も湖のほとりへと追い詰められていた。
彼を追ってきた、靴も何も履いていない木の枝のような足が、柔らかい地面に擦り傷のような跡を付けていく。
幾十にも騎士を囲み、虚ろに光るガラス玉のような目が、誉れある国の精鋭の姿を無機質に捉えていた。
「……っ!」
甲冑を着た踵が、後ろに迫る水面を踏んでそこに波紋を広げる。
恐慌に目を見開く騎士の前で、最低限の形を持った黒い腕が幅広の鉄剣を振り上げた。
迫る恐怖の中にもまだ理性が残っていたのか、騎士はそれをすんでのところでかわして己の剣を抜き、細い手から相手の得物を弾き飛ばす。
……しかし。
彼の胸を貫いた刃は、白銀の鎧が背にしていた水面の方から。
水の中から上がったその亡霊は、骨だけの腕に剣を握り、何の躊躇いもなく騎士の背に突き立てていた。
傷一つない白銀の籠手から、ゆっくりと美しい柄を持った細剣が落ちる。
そのまま彼の体は、剣に刺さった格好のまま水の底へと引きずられ。
再び霧の中に下りた沈黙は、水場が飲み込んだ生ぬるい温度の痕跡もかき消して。
そして。二人の騎士を湖へと沈めた異形の者達は、再び森の中へ。
次なる獲物を求めて、水の中から次々と同じ音をさせる異形の影が岸へと這い上がる。
……それらの姿を隠すように包む白い霧は、今や湖畔の森全体を侵食し始めていた。
――あの雨の教会でソルと出会い、不本意にも聖典とやらを王都に運ぶ旅を始めた魔女は、今日という日まで実に多くの驚くべき出来事に直面してきた。
それこそ一生分の不運をかき集めたかと思うほど、特異で信じがたいことばかりに。
だがその中で、ピエドラの心を最も強く揺さぶったものは悪魔の城の奇妙な絵画でも、炎の塊を叩きつけてくる機械人形でもない。
……ソルという少女の、聖典ギャラクシアに対する異常な情熱だ。
何故あの八歳の少女は、あんなふうに、聖典を王都へ運ぶ旅に全霊を懸けているのか。
毒矢に倒れ、意識も朦朧とする中で、一冊の本に全てを注ごうとしているのか。
自分の体のためでなく、旅を安全に続けるためにピエドラに解毒薬を頼む表情は切実で、真剣で、あの歳の少女が浮かべるには聡すぎて。
何故か。何故か八年以上の時間を彼女の向こうに感じるのだ。この感覚が一体何なのかは知らないが……。
そして魔女は、この感覚に襲われる度にある言葉を思い出す。
「……ソルか。あの子は知り合いの船乗りから預かったんだ」
規則的な馬のくつわの音にかぶさる、若い商人の声。
ソルの旅路の一端を知るその男の声に、あのとき荷台の上のピエドラはただ耳を澄ましていた。
……あの悪魔城に乗り込む前だ。
ソルを拐った人さらい達を追う道すがら、ピエドラはマイテの婚約者からソルのことを聞いた。
ピエドラの方からソルのことを聞き出そうとしたわけではない。
ピエドラがソルのことをほとんど何も知らないことを察して、マイテの婚約者が教えてくれたのだ。
ピエドラが、ずっと気になっていたのに聞けずにいたことを……。
異国風の容貌を持つ、ソルの出身は明らかにここから遠い国だ。
彼女と似た顔付きを持ち、同じような意匠の服を着た人達を、魔女は知っている。
そう……『異大陸』から連れられた奴隷達だ。
異大陸。そう呼ばれるのは、この国から遥か西にある、大部分が未開といわれる広大な大陸だ。
最近になってこの国からの航路が開かれ、船乗りが相次いで探検に乗り出し、ついには大陸の一部を植民支配した。
今も異大陸の征服は続き、侵略を受けた地域の人々が奴隷としてこの獅子の国に連行され続けている。
だからピエドラは、最初ソルのことを娼館で働く元奴隷の子どもかと思った。
しかしどうやらそれは違うらしく、
「あの子は異大陸から一人、その俺の知り合いの船に乗ってこの国に来たんだ」
馬を駆る商人の言葉に、魔女はしばらく彼の後ろでポカンと口を開いていた。
八歳の少女は決して親に付いてきたとかこの国で生まれたとかではなく、一人故郷を出て危険な船旅を経て獅子の国にたどり着いたというのだ。
それも奴隷として無理矢理連れてこられたのではなく、自分の意志でこの国を目指したのだという。
雨後のぬかるんだ道に苦戦する馬を励ましながら、商人の男はこう言っていた。
「あの子を預かるときに、その船乗りに言われたんだ。……ソルは使命を持ってこの国に来てるから、彼女がやりたいと言うことはなるべくその通りにさせてやってくれって。子どもを預けるときにそんなこと言うなんて最初は驚いたけど、ソルを見てたらその言葉の意味がよく分かったよ」
「……」
「俺とソルが会ったのは二月ほど前だけど、ソルがこの国に来たの自体は一年くらい前らしい。船乗りが異大陸から引き上げてくるときに、一緒にくっついてきたんだそうだ。しばらくその船乗りと一緒にこの国を旅して、最終的に俺に預けられたってわけさ。船乗りは王都に急ぎの用があるからって、ソルを俺に預けた後すぐに旅立っていったが……それっきりだ」
「ソルを乗せてきた船乗りっていうのは何者なの?」
魔女の問いに、意外なことを聞かれたとばかりに、商人はちらりとこちらを見る。しかし質問には答えてくれた。
「冒険家さ。誰にも真似できないような危険な航海に出ては、行く先に隠されたお宝を発見する、生粋の命知らずだ。異大陸への航路を確立した一人でもある。ほんとに凄い人だよ」
馬に一つ鞭をくれて、御者は水溜まりを越す。誇らしげにこう続けた。
「一代で船員から大商人にまで昇り詰めた人さ。一年前まで異大陸に行ってたのも、王様の直々の命令で探してるものがあったかららしい」
「探してるもの?」
「何でも、向こうの大陸でとてつもないお宝を発掘するって命を受けてたとか」
「とてつもない宝……」
「そのお宝をライバルが横取りして本国に持ち帰っちまったんで、それを追いかけて帰国したんだと。ソルはそのときにその人の船に乗ったんだ」
海の向こう。王命。隠された宝。それを巡る船乗り同士の争い……。
話に登場するのは、ソルと関わりがなければピエドラには一生縁のない世界の人々だ。
そしてその中の一人。王命を受けるほどの名うての海の大商人を頼って、ソルはこの国にやって来たという。
数々の危険な冒険を乗り越えてきたというその商人に、「その子に使命を果たさせてくれ」と言伝てさせるほどの大きな目的を抱えて……。
ソルがこの国に来たのは多分、聖典に関することのためだと思う。
だとしたらその船乗りも、向こうの大陸でソルのあの懸命な姿と出会って、自分の船に乗せる気になったのだろうか。
「おやっさん……その船乗りは、ソルの抱えた使命とやらを自分の夢みたいに大事にしてた。二人は生まれた場所も過ごした時間も違ったが、まるで一つの目標を追う同志みたいだったよ」
手綱を握り、まっすぐ前を見ながら、若い商人はそう言っていた。
「ソルはきっと、自分を後押ししたおやっさんのためにも頑張ってる。あの子が抱いてる使命は、きっと自分一人のためのものじゃないんだ。……もしかしたら、この世界が変わるような大きな使命を果たそうとしてるのかもな」
――そこまで思い返して、ピエドラはそっと、自分の杖に巻き付いたままの銀製の龍の飾りに手を触れた。
結局、あの商人がソルに会えたら渡してくれと言っていたこの龍のお守りは、ピエドラが預かっておくことになってしまった。
ソルはこのお守りがなくても魔術が使える。だから魔術が心許ない魔女に貸しておいた方がいいと思ったのかも知れない。それは有難いが……。
多くの荒波を越えてきた冒険家さえ見込んで力を貸す、彼女が誰なのかまだよく分からない。この先分かることもないかも知れない。
ソルの旅に居候する身として、今は単純に前だと思う方に進むだけだ。
指の隙間に輝く、古の一族が魔力を込めたという銀色の龍の飾りからそっと手を離す。
ピエドラもまた、遠い国の、遥か昔の誰かの力を借りて魔術が使えるようになったのだ。
希望はいつどんな所で何と繋がっているか分からない。
今はソルの解毒薬探しに名乗りを上げてくれた、ウィンフレッドという名の甲冑の兵士に旅路のすべてを懸けよう。
手に馴染むポプラの杖を握り直し、魔女は盆地を歩き通した足を再び前に進めた。




