第27話 甲冑と薬
黒マントの刺客から毒矢を受けたソルを背負い、ピエドラが夜の盆地をさまよってしばらく。
魔女がその要塞を見つけたのは、盆地を囲む山々を越えて朝陽が輝き始めた頃だった。
朝靄の立ち込める草だらけの地平に、徐々に大きくなる見上げるほどの巨大な影。
それこそが目指していた要塞の輪郭だと、魔女が気付くまでにはしばらくかかった。
ここが、白銀騎士団と黒銀騎士団なる二つの騎士団が合同訓練を行うという大規模基地……。
ソルから『野営地』と聞いていたから、てっきり原っぱにテントでも並んでいるのかと思っていたが、これではまるで城だ。
物見の塔をいくつも持った堅牢な石造りの要塞に、魔女は己の行こうとしている道の険しさを改めて思い知らされた。
聖典発見の功で騎士を釣って王への謁見を取り付けさせる。……それ以前に、こんな要塞にこんな魔女が容易に入り込めるはずもない。
目の前に現れた巨大すぎる壁に、ソルを抱えたピエドラはもう少しで途方にくれるところだったが……。
「小さいお嬢さんは大丈夫かな?」
ギイと、古い木戸が軋みと共に開かれる。それに続いて、薄い鉄でできた靴のガチャリという足音が鳴った。そしてその音とともに、甲冑を着た中年の兵士が部屋のドアをくぐって入ってくる。
水の入った桶を手に、彼は心配そうな表情で、部屋の奥に座り込むピエドラの方へと近付いてきた。
ランプと蝋燭の光が灯るだけの薄暗い空間に、コツコツガチャガチャ甲冑の音が響く。
そして桶を持った兵士に続いてもう一人。
乾いた金色の髪をした若い兵士が、部屋の扉を閉めながら中に入ってくる。
中年兵士のものと同じように薄汚れた甲冑に身を包んだ、何をするにも気だるげな様子の青年だった。
彼はそのまま、部屋の番をするように戸口の側に立つ。どうやらこの部屋に近付いてくる者がないか、ドアの向こうに耳を澄ませて警戒してくれているようだった。
先に部屋に入ってきた中年兵士はそのまま、冷たい石の床に座るピエドラのもとまで桶を持って近付いてくる。
彼はシワを刻み始めた顔にちょろりと口髭をたくわえた、いかにも人の良さそうな人物だった。表情に険がなく、兵士というより、普通に街中を歩いている一市民に見える。
お仕着せの鎧を相変わらずカチャカチャ言わせながら、薄暗い部屋に転がる樽やら木箱やらを避け、中年兵士はやっとピエドラのとなりに腰をおろした。
そしてその膝元に寝かされた幼い少女……固く目を閉じたまま眠りにつくソルの顔を見下ろす。
そのまま彼は布の切れ端を桶の中の水に浸し、森で倒れたときにソルの顔に付いた泥を拭ってくれた。
膝元で目を閉じたままのソルを見下ろしながら、ピエドラは改めて兵士へ礼を口にする。
ソルとピエドラはこの二人の兵士達の協力を得て、要塞の倉庫の中にかくまわれたのだ。
――遡ること数刻前。迫る要塞を前にして後戻りすることもできず、ソルを背負って朝靄の中をしょぼくれて歩いていたピエドラは、門で見張りをしていたこの二人に見つかってしまった。
こちらを指差し、慌てて近付いてくる二つの甲冑の姿に、魔女は一瞬その場で捕縛でもされるかと覚悟したが……。
「こんなときのために包帯をとっといて良かった。すまんな、傷薬はないが……」
少女の足に付いた傷に真新しい包帯を巻きながら、中年の兵士が呟く。
……正直、見つかったのがこの二人でなければピエドラは終わりだった。
朝靄の中、限界の足でこの要塞までよたよたとたどり着いたピエドラとその背に負われた弱ったソルの姿を見て、門番を務めていた二人の兵士はこの倉庫を貸してくれたのだ。
もちろんこの要塞の主である騎士達には内密に。だからこうして倉庫の奥に息を潜めて隠れているのだが。
地下に造られたこの倉庫には、下っ端が資材の調達に来るのみで、滅多なことでは騎士は近付かないという。
それに加えて、どうやら今は黒銀騎士も白銀騎士もある理由で出払っているらしく、要塞の中はがらんとしていた。
故にひとまず安心とまではいかないが、ようやく一息つくことができたのだ。
完全に毒が回りきってしまったのか、ソルの容態は森で倒れたときより幾分悪くなっている。
今はもう目を開けることもなく、痛みに耐えるように歯を食い縛り、ときどきうなされるように頭を振って。最早ピエドラに話しかけてくる余裕もないようだった。
その様子を眺め、魔女はふうと一つ息を吐く。
ソルの下には、傷病兵のための備品か、兵士達が薄い敷布を敷いてくれていた。
要塞中を回ってランプと蝋燭を探してきてくれたのも彼らだ。
しかしピエドラのとなりにいる中年の兵士も扉の側に立つ若い兵士も、二人ともここに詰める騎士ではなく、騎士達の不足を補うために徴集された一般兵だという。
「普段は近くの街の門に立っているんだが、人手が足りないからと騎士達の下働きとしてここに駆り出されてな」
ピエドラとともにソルの様子を見下ろしながら、中年の兵士は言う。扉の側の若者もその言葉にため息をついた。
不遇をかこつチョロ髭の兵士は、相変わらず荒い息をつくソルの痛々しい姿に、兜を乗せた頭をかしげる。
「しかし一体どうして、こんな小さな子がこんなことに……」
病とも怪我とも違う苦しみ方に、どうやら少女が毒に冒されていることは言わずとも察したらしい。
中年の兵士のその言葉に、ピエドラは思わず肩をこわばらせていた。
――領主イクリプスに罪人として追われている。そのために毒をくらってしまった。
真実を述べれば、その一言だけでこの暖かい待遇は終わりを迎えてしまうだろう。
……ここでこの二人に不審人物として突き出されたらすべてが終わる。
適当な理由でその場を乗り切ろうと、魔女は慌てて口を開きかけたが……。
「もしかして、魔女狩りから逃げてきたのかい?」
咄嗟に、その言葉に首を振れなかった。
ピエドラは口を開きかけのまま、大きく目を見張ってしまう。
その様子に、中年兵士はゆっくり首を振った。
「いや、いいんだ。どこにも通報したりしないよ。……そうだよな。こんな子が毒に当たるなんて、魔女狩りしかないよな」
心の底から、悲嘆する口調だった。
そのまま彼がソルを見下ろす視線にこもる悲哀の色に、ピエドラはひたすら戸惑う。
こんな山間の盆地の真ん中まで歩いてきているということも相まって、ソルとピエドラは魔女狩りのために人里を追われて逃げてきた者達と思われたらしい。
実際はその通りではないが、完全な的外れでもなかった。罪人として追われているのは確かだし。
……それよりも。目の前に倒れているのが魔女と知っても態度の変わらぬその男の姿に、ピエドラはしばらく何も言えなくなってしまっていた。
彼も誰か身内に、魔女狩りで追われた者や亡くした者がいるのだろうか。
例え口先だけだとしても、ピエドラにとって先の言葉は百年に一度放たれるかどうかの言葉だった。
世間の人は、倒れた魔女に対して同情より先に沸き上がる感情があるのが常だったから。
もう一人の若い兵士も、相変わらず二人の会話を黙って聞いているだけだ。弱った魔女の存在を、騒ごうとも笑おうともしない。
驚きに満たされた魔女の頭では、今はまだこの二人のことを変わった二人組だとしか認識することができないが……。
一つ頭を振って、ピエドラは目の前のことに意識を戻す。
この兵士達が何者かは知らないが、この物置にいつまでも隠れていられるわけではない。動けるピエドラにはやらなければならないことがあるのだ。
薬……。魔力と結合して魔術師を苦しめるというこの毒を解毒するための薬を探さないと。
この要塞でピエドラ一人で動くのはあまりに危険だ。ソルが復活しなければ、騎士に王城への案内を頼むどころではないのだから。
改めて、ピエドラはチョロ髭の兵士に向き直る。そしてソルを治すための希望の所在を知らないか尋ねた。
「この要塞に、薬は置いてない?」
「薬か……。俺達もこの要塞の隅々まで知っているわけじゃないが、置いてあるとしたらまさにこの部屋だろうな。色んな物資の置き場になってる」
その会話の間に、すでに若い兵士が辺りを検分して薬を探してくれていた。ランプを片手に辺りを見回す甲冑がガチャガチャ音を立てる。
しかし……。
しばらくして、並んだ棚から顔を戻した彼は苦く呟いた。
「薬……。狩りに行った騎士どもが多分全部持っていってるぜ。棚がほとんど空だ」
「嘘だろ? ……ほんとだな」
中年の兵士も彼と同じ棚を見に行って肩を落とす。
どうやら薬類は、今はここを離れているという騎士達がすべて持ち出しているらしい。
それに……。
「懇親だか何だか知らないが、あいつら二つの騎士団そろって仲良く狩りをするんだとよ。テントまで持って行ってるから、多分数日がかりだ」
潰えた希望に眉間にシワを寄せるピエドラに向けて、さらに若い兵士は言う。
つまり薬箱は騎士達が数日後に要塞に帰るまでこの倉庫に戻ってこない。その間ソルはこのままだということだ。
一同に冷たい沈黙が下りる。
「あんな大人数で狩りなんて、騎士様達は一体何を狩りに行ったんだか」と、若い兵士はなおも苦い顔で宙を眺めながら腕を組んだ。
そこで諦められなかったのか、そのまま兵士二人は他のめぼしい部屋を探してくると、扉を出ていってしまう。
再び沈黙に返った倉庫の中で、ピエドラは一人肩を落としながらソルを見下ろしていた。
どうやら少女を治療するという望みは儚く消えそうだ。
そりゃそうだ。そんなに都合良くなんていかない。
こうなったからには、ソルが自力で回復するまで何とかここで息を潜めていないと……。
唇の隙間から荒い息を吐く幼い少女の姿に、ピエドラは改めてため息を漏らす。
何とか要塞の中には入り込めたが、ここでもやはり魔女は無力だ。
「ほんとにこの毒、自力で解毒できるの?」
魔女の呟きに、それまで姿を隠していた聖典の番人が薄闇にぼんやりと現れる。
『ああ。ソルの体力が続けばな』
「……とりあえず命があって良かったけど、どうして黒マント達はこんなじわじわ苦しめるみたいな毒を……」
『銀河の魔術師が必要なのじゃろう』
「え?」
『敵はソルを生け捕りにしようとしているということじゃ。――銀河の魔術師は千年に一人の逸材。他の誰にも代われぬ。聖典の真の力に至るには、その一人がどうしても必要なのじゃ。向こうはソルがその銀河の魔術師だと把握したのじゃろう』
つまりソルはイクリプスにとってただの『盗っ人』ではなく、捕えて利用すべき『獲物』に格上げになったと。
老人の言葉に、ピエドラは改めて目の前に倒れる少女の行こうとしている道の途方もなさを知らされる。
千年という悠久の時の狭間に、たった一人だけ現れる伝説の魔術師。
それがこの少女で、世界の覇者の如き権力を持った宰相がその行方を追っていて……。
未だすべてが、ピエドラの生きてきた日常とはまったく別世界の話に思える。正直、今でも悪い夢の中をさまよっているような気分だ。
しかし目の前のソルは、真実その聖典とやらのためにこんなに弱っているのだ。これはまごうことなく、ピエドラが目にしている現実だ。
ふと、魔女は件の魔導書の青い表紙に視線を移す。
ギャラクシアは今もソルの傍らに。
少女は固く目を閉じながらも、その手は常に聖典の表紙に触れている。
この奇跡の存在を、どうなっても決して離さぬとばかりに。
奇跡の聖典などよりも、この根性の方がよっぽど信じがたい。
ふと……。
「……ネ」
何事か呟きながら、うなされるソルがゆっくりと薄目を開いた。
しばらく宙を見つめて、それからまだ虚ろな瞳で側にいるピエドラを捉える。
そして、
「ダフネ……」
かすれる声で再びそう呟いた。
……ダフネ、一体誰だろう。
どうやら霞む視界の中に見えるピエドラの姿を、誰かと勘違いしているらしい。
少女はそのまま、ぼんやりした意識の中でうわ言を続ける。
「ダフネ、私……聖典を見つけたから……絶対……持って帰るから……」
表情が険しいのは、決して毒のせいだけではないだろう。
少女が負っているものの一端が、その言葉に現れるようだった。
ダフネという人物が何者かは知らないが、ソルはその人と何かを約束していて、それを果たそうとしているのか。
しかし聖典を『持ち帰る』とは一体……。
思いを巡らす魔女の膝元で、ソルはなおもダフネなる人の名を呼ぶ。呼びながらうなされ続けている。
だからピエドラには、その言葉を否定しようもなかった。
「ええ、分かってる。……待ってるから。どんなに道が険しくても、きっとあんたは成し遂げる。それまで待ってるから……だから今は寝てていい」
ピエドラの言葉に、そのままソルはすうっと安らかな息とともに目を閉じた。
その寝顔を見ながら、魔女は今日一番大きなため息をつく。
そしてあることを思い浮かべていた。
「……海を越える勇気があったんだから、あんたなら聖典くらい余裕で王都に持っていけるわよ」
「何を一人でブツブツ言ってんだ?」
魔女の呟きの直後。ふいに倉庫に戻ってきた若い兵士の言葉に、ピエドラは思わず飛び上がっていた。
どうやら他の部屋の探索が済んで戻ってきたらしい。
一つだけ持ち出していたランプを片手に首をかしげる彼に、「な、何でもないわ」と魔女は咳払いした。
若い兵士の後ろから、中年の兵士もバタバタと倉庫に入ってくる。
「すまんな。やっぱり薬はどこを探してもなさそうだ。医者も騎士達が狩り場に連れていってるし……」
そのままドサリと、彼は床に大きな本を置く。そしてその本の表紙をピエドラに示して見せた。
「何とか薬学辞典だけ拝借してきた。ここに載ってる薬草で何とかできたらいいが……何の毒を盛られたかは分かるかい?」
「魔力に干渉する毒……みたい。載ってるとしても、多分早々手に入らない珍しい薬よね」
ピエドラの言葉に中年の兵士より先に反応したのは、薬学辞典を前に顔を突き合わせる二人を眺めていた若い兵士だった。
「その薬なら知ってるぜ」
「本当か、ウィン?」
中年兵士がばっと本から顔を上げる。
不鮮明な記憶をたどるように、若者は首を傾けながら言葉を続けた。
「前に魔術師の護衛の仕事をしたことがある。そのときにその魔術師が確かそんな毒に効く薬を使ってた」
「何だ。知ってるって言っても昔の話じゃないか……」
「話を最後まで聞けよ。その薬を最近この辺りでも見たんだ。ほら、騎士がよく哨戒に出る例の廃村……そこにある薬師の家の跡で見た。こないだ騎士の巡回に付き合わされたときだ」
「それは朗報だが、確かあの村に入るには……」
「魔力があるやつが必要だ。あの村は色々と特殊だからな」
中年の兵士は難しい顔をして黙ってしまったが、若者はピエドラの方に視線を向けた。そして魔女の持つ杖にその視線を移す。
「あんた、もしかして魔術師か?」
「魔力はあるわ。……あたしならその村に入れるのね?」
二人のやり取りに、中年の兵士は目を丸くする。
「ウィン、まさかお前……」
「何だよ、ここまで紳士ぶっといて今さら手を引くつもりか?」
「いいや、『まさか行かないつもりじゃないよな』と言おうと思ってた。門の見張りは俺が続けとくから、この人をそこまで案内してやれ」
「……普段は俺の行動に逐一お小言添えるくせに、こういうときは大胆だな」
「困ってる女性に手を貸すのが本当の騎士の仕事だ」
「俺たちは騎士じゃなくて兵士だって……まあどっちでもいいや」
口をへの字に曲げる若者に、中年の兵士は倉庫に立て掛けてあった剣を差し出しながらさらに言葉を重ねる。
「どうせ当分騎士達はここに帰らないさ。それに、兜を脱がなきゃ俺達は皆同じ顔だ。誰が要塞の外に出てるかなんて気にも留められない」
「……」
胸を張る年長者の言葉に、若い兵士は呆れ顔をしながらも受け取った剣を腰に差した。そしてピエドラの方を見る。
どうやら薬のある場所まで、彼が連れて行ってくれる方向で話がまとまったらしい。
しかし……。
その場に立ち上がっていたピエドラは、再び足下のソルに目を移す。
やっぱりソルを一人でこんな所に置いてはいけない。
あの娼館の館長のこと然り。この兵士達を信用していないわけではないが、絶対の信頼があるわけでもない。
ここにも黒マント達が乗り込んでこないとも限らないし、やはりここは下手に動かずにソルの自然治癒を待った方が……。
しかし杖を握りしめながら二の足を踏むピエドラに、下方から当の少女のか細い声がかかった。
「……行ってきて、ピエドラ」
話し込む大人達の声で目が覚めたのか、ソルがかすれ声で呟く。ピエドラは即座に彼女のもとへとしゃがみこんだ。
「でも……」
「自然治癒を待って、何日も物置に隠れてられないでしょ。早くしないと、ここにもイクリプスの手が回る。……聖典を抱えてる私を見たこの兵士達も危ない」
「……」
「聖典さえあれば……襲われても魔術で抵抗できる。それに、最悪捕まってもとりあえず殺されないって分かったんだから……」
その言葉にピエドラは顔をしかめるばかりだったが、少女の言うことに賛同するように、聖典の番人も声だけでピエドラの頭の中に呟く。
『行ってきてくれ、ピエドラ。薬を持ち帰れたら、その薬が正しいかどうかはわしが見よう。兵士達の話を聞く限り、ここから村までそこまで時間もかからぬようじゃ』
その言葉に、魔女はようやく上げていた肩を下ろした。
一つ息を吐き、杖を握り直して二人の兵士に向き直る。
「じゃあその村とやらまでよろしく頼むわ。その……」
「ウィンフレッドだ。そっちのおっさんはマルコ」
「気を付けてな、お嬢さん。ウィン、しっかり役目を果たせよ」
なおも気だるげな様子で、ウィンフレッドなる若者は仕方なさそうに甲冑を着た肩をふんわり回す。
案内してもらう身でこれ以上注文は付けられないが、果たして彼と二人で大丈夫だろうか……。
眉間にシワを寄せながら、魔女は急に行く先への不安にかられ始めていた。
かくして、甲冑の兵士ウィンフレッドとピエドラは、少女を治療するための薬を求めて謎の村への侵入を試みることになったのだった。
――とある森の中で、子どもを背負った魔女が盆地を歩き出す決意を固める少し前。
『彼』の姿は、その盆地にほど近い街の中にあった。
長く滞留していた雲はすっかり流れ、よく晴れた空には大きな月が浮かんでいた。
まだ地面に残されていた浅い水溜まりを、上等な長靴が踏みしめ雫を撒き散らしていく。
暗い水面に映った月光が大きく輪を描いて乱れた。
魔術師の纏う、夜の黒より数段濃い黒が、彼が目指すその館に灯る煌々とした光に照らされる。
館の前に立っていた鋭い目をした衛兵が、渋々といった様子で黒衣の魔術師と、それに付き従う軍服姿の魔術師二人を中に通した。
そして。
魔術師達の目的の男は、赤い広間の最奥の長椅子に深く腰掛け、優雅に足を組んで訪れた客人を待っていた。
「お前がこんな場所に現れるとは、一体何事だ?」
言葉のわりに落ち着いた口調で、豪奢なその部屋の主は黒衣の魔術師を迎える。
彼と同じ長椅子にかけ、その両脇にべったりくっついて男の体に腕を回す妖艶な女達が、面白そうに客人の姿を眺めていた。
その様を深い青の瞳に映しながら、黒衣の魔術師は何者にも乱されぬ落ち着いた声音で彼に切り返す。
「ここはちょうど帰路の途中でしたので。ご挨拶に上がりました」
表向きだけなら刺さえ感じさせない耳触りのいい言葉に、対する男は薄い唇を大きくつり上げて笑った。
野性的に口を囲む髭。鋭く釣り上がった目、色の濃い太い眉。
胸元を大きくはだけ、椅子にふんぞり返る筋肉質な長い体躯は、まるで古の戦士の理想体型をかたどった石膏像そのままで。
緩慢に一つ息を吐き、男は両脇にはべらせる華美な格好の娼婦達の手をゆっくりと外す。そしてそのまま彼女達を部屋の外へと下がらせた。
女達は相変わらず面白そうに、その場に並ぶローブと軍服姿の客人達を舐めるように眺めながら赤絨毯の上を去っていく。
彼女達が部屋の扉を閉めると同時に、黒衣の魔術師は正面に見据える男に向けて顔を上げ口を開いた。
「この近くの盆地でかなり大規模な狩りをなさるようですね。騎士の不足を補うために、街頭警備兵まで動かしているとか」
尋ねられた男は構わず、手近にあったテーブルの上のグラスに手を伸ばし杯をあおった。
そのまま、彼は長椅子の上に放られていたビロードの上着を羽織りながら立ち上がる。
「毎年やってるただの親睦会だ。どっちの騎士団もお互い対抗意識があるもんだから、妙に気合いが入っちまうみたいでな。特にうちの連中の張り切りようといったら……」
「その黒銀騎士の長ともあろう人が、いつまでもこんな所にいてよろしいので?」
黒衣の魔術師が首を傾けるとともに、淡い色の髪もともに横に流れる。
その様子を、男はつり上がった目をさらに細めて斜に眺めていた。
「俺がいなくてもあいつらだけで狩りはできる。団長はここでもうしばらくゆっくりさせてもらうさ」
その言葉に、魔術師のラピスラズリ色の瞳がわずかに細められた。
「それは結構。その狩りとやらに俺達も加えていただけますか? ちょうど一つ捕り物を終えてきたところですが、まだ力が余っているので」
その言葉を聞いて、ようやく得心がいったというように男はグラスに酒を注ぎ直す。
「何だか領内が騒がしいと思ったら、お前の仕業だったか、レオナルド。……今夜はその捕り物の成果の報告に来てくれたのか? それとも、」
注いだグラスに輝く琥珀色の液体を、しかし男はそのままあおらず自分と魔術師の間に掲げた。
「次の狩りのために俺のご機嫌うかがいに来たのか?」
琥珀色のグラス越しに、獲物を捉える虎のような鋭い眼光が魔術師に向けられる。
しかしその圧倒的な威圧に、黒衣の魔術師はただうっすら微笑んだ唇で答えた。
「この地では人狩りだろうと人さらいだろうと特に何の咎を受けることもない。……怠惰な虎が狩りをサボっているから。悪党は色んな商売をし放題だ」
「……」
「俺達に狩りを任せてくれれば、もっと娼館暮らしを楽しめますよ、団長殿」
騎士の長と魔術師の長。二人の英傑は豪奢な部屋の奥と手前で一瞬も視線を反らさずにらみ合う。
徐々に張り詰めていくその場の空気を、黒衣の魔術師の後ろに控えた部下達は微動だにせず見守っていた。
やがて。どちらも譲らぬにらみ合いに辟易したのか、騎士の長がはあっとため息をつく。
そしてようやくグラスに注いだ酒を喉に流し込んだ。
「俺がお前のすることに容易に口を出せると思うか、獅子の魔術師殿? この領内でやりたいことがあるなら好きにすればいい。……ほら、この言質を取りにきたんだろ? 用が済んだならさっさと、」
「……あなたが狩りをサボる理由をお聞かせ願いたい」
その言葉に、今度は男が目を丸くする。
まるで予想だにしていなかった言葉を聞いたとでも言いたげに。
「この領内でいくら女が死んでも動かぬ理由を聞きたいのです。下から賄賂を受けているのか、はたまた上からの命令か。どちらです?」
真顔でそう続けた青年に、相対する男は……。男は唇をつり上げて一気に破顔した。
魔術師の後ろに控える部下達が肩をこわばらせる。それほどに、見る者の肝を冷やすような邪悪な笑みを青年に向けていた。
「宰相閣下のなさることでお前の知らないことがあるとはな、レオナルド。……いや、知ろうとしていなかっただけか?」
「……」
「だとしたらお前の手にかかった狩りの獲物はとんだ災難だったな。悪魔の手の平で踊らされて、最後は火消しのために捨てられたわけか。……結構な汚れ仕事を任されたな、獅子の魔術師よ」
その笑みに、黒衣の魔術師は無言のまま。彼の後ろにいる部下達だけが杖を片手に色めき立つ。
その様子を視界におさめながらも、男はなおも溢れる余裕を崩さなかった。
長椅子に深く座り直し、黒銀騎士の団長は再び優雅な仕草で足を組む。そして正面に立つ魔術師を見上げて言った。
「この国は、どこまで行ってもイクリプス公の手の平の上だぞ、青年。勧善懲悪の旅は諦めた方がいい」
そして……。
「お前が銀河の魔術師になれば、閣下はこれ以上ない待遇を与えて下さるだろう。英雄ごっこはそれまで待ったらどうだ?」
不敵な微笑みとともに放たれた男の言葉に、魔術師の青年はしばらくその場で口を引き結んでいた。




