第26話 白銀と毒矢
夜空を覆っていた雲が切れていく。
注ぐ青白い月明かりの下、目の前の黒服は白刃の切っ先をダリオへ向けてがっと構え直した。
体の線が分かるほど動きやすさに特化したその服装。短刀を逆手に持つ独特の構え。その姿は、まさに絵に描いたような『そのもの』だった。
まだこれを日常の続きと思い込みたい心が、視覚が出した答えを飲み込むのを躊躇う。
……目の前にいるのが他の何者でもなく、暗殺者に見えるなんてこと、普通なら飲み込み難いだろう。
ダリオの心構えなどおかまいなく、黒い覆面を目元部分だけ一直線に切り取った暗殺者は、再び丸腰の魔術師に向けて突進を仕掛けてきた。
ダリオは咄嗟に己の手に魔術で炎を灯し、暗殺者の顔に火の粉を吹きかけてなんとか白刃の軌道をそらす。
しかし相手は宮廷に潜り込んでくるようなひとかどの殺し屋だ。ダリオにできる抵抗がそれだけと判明した今、次は火の粉なんてお構いなしにこの命を取りにくるだろう。
……詰みというのはこんなにも呆気ないものか。
ふと、徐々に胸を占めていく諦めとともに、魔術師はダフネの方を見る。
彼女はなおも一本の杖を手に、睡蓮の池を囲む黒服の暗殺者達と対峙している所だった。
絶えず魔術を放って彼らに応戦しているが、しかし状況はダリオと同じのようだ。
四方から囲む黒服達に、ジリジリと距離を詰められていく。
短刀を持った前衛がダフネの集中力を散らし、その隙に奥の魔術師が魔術で攻撃する……。どうやら相手はそういう作戦でダフネに迫ってきているらしい。
何にせよ、明らかにこのための訓練を受けている者の動きだった。
最早ダリオが彼女を助けることもできないし、彼女がダリオの助けに入ることもできない。
……この美しい庭でこれから起きようとしているのは、二人の魔術師の処刑だ。
それをようやく飲み込んで最後を悟る冷静な頭が、ここにきてダリオの身に降りかかった惨劇の正体に至る。
これは恐らく、ダフネを狙った人知れぬ暗殺劇。
さっき回廊の柱の影にいた逢い引き中の男女の内どちらかは――あるいは二人ともかも知れないが、このための監視役を務めていたのだろう。
誰かがこの暗殺の邪魔をしないか、または目撃してしまわないか、それを見張る役を果たしていたのだ。
……ダリオはまんまとその監視の網を踏んだ。
動きやすいようにズボンの裾を詰めた暗殺者の足が、ざっと前に踏み出す。白刃を手にした筋肉質の腕が、一息にダリオの首元まで伸びた。
そして――。
ダリオの首を貫くはずだった白刃の閃きが、より大きく速い銀の一閃に軌道をふさがれ、次の瞬間叩き落とされていく。
終わりを覚悟したダリオの前に、何者かが割り込んでくれたのだ。
剣と同じ銀色の輝きに包まれるその姿が、雲間の月明かりに照らされる。
「白銀騎士団……」
最初に現れた騎士に続くように、闇夜の庭園を次々と銀色の輝きが走り抜けていく。
そして騎士達はダフネを囲んでいた黒服に後ろから斬りかかり、瞬く間にその陣形を崩していった。
不利を悟ったのか、暗殺者の内の一人が仲間に向けて手を上げる。
どうやらそれは撤退の合図だったらしい。
暗殺者達は身軽な動きでそれぞれ屋根に上ったり回廊の影に消えたり、散り散りにその場を後にしていった。
白銀の騎士達がすかさずその跡を追う。
ダリオを助けてくれた騎士を一人残して、甲冑の戦士達は夜闇を裂いて走って行った。
先ほどまで暗殺者達が荒らしていた庭は、一気に元の静寂へと返る。
しかしその場に残る白銀の騎士と足下に落ちた短刀が、確かにさっきの出来事が現実だったことをダリオに示すのだ。
池の方からこちらへと近付いてきたダフネが、その場に残っていた騎士に軽く会釈する。
ダリオの正面に立つ彼は、ゆっくりと抜き身の剣を腰の鞘に戻した。
この騎士が身に付けているのは、普段は王の近衛を務め、この城の警備も任されている『白銀騎士団』の甲冑で間違いないだろう。しかし……。
月の光も乏しい暗闇の庭で、それでも彼は一度も甲冑の兜の面甲を開けようとはしなかった。
暗殺者達と同じく、その正体を決して明かせないことを示すように。
そうだ、さっき暗殺者の刀を叩き落とした彼の身のこなし……。
暗殺者達の動きも実に洗練されたものだったが、こっちはこっちで、暗器を持った敵への対応を叩き込まれているのがうかがえた。
近衛騎士と同じ甲冑を着ているが、彼は確実にそれ以上の手練れだ。すべての動作に隙がなく、普通の兵士との格の違いを見せつけるようだった。
……甲冑の中身は本職の白銀騎士ではなく、誰かの私兵か。
ダリオが何か言う前に、白銀の騎士は彼の方からダリオに話しかけてきた。
「今日はある貴族の館で夜会が開かれているのです。睡蓮魔術師団の団員達も出払っています。そういう日は、特に危ないのです」
ダリオの後ろで、ダフネがその言葉にわずかにうつむく。
「それじゃあダフネは今まで何度も……」
何度も、この宮廷で暗殺されかけているのか。そしてその度に白銀騎士の姿を借りた彼らに守られている。
人払いされたかのように人気がなく、警備の兵士ともすれ違わない。この静かな夜のカラクリが解明されようとしていた。
宮廷の警備を動かしたのが彼らなのか、それとも暗殺者が仕組んでいたのかは知らないが、いずれにせよ大きな力が働いて、先ほどの襲撃の場が整えられたのだ。
この暗殺は、襲ってくる側も守る側も、どちらも表沙汰にすることができない。……闇の政争が引き起こしたものなのだ。
その場を去ろうとした甲冑の背に、ダリオは思わず追いすがる。彼ほどの精鋭なら、己が何と戦っているかは主君から教えられているはずだ。
「……ダフネに刺客を送っているのは誰です?」
「お答えできません。答えればあなたも後戻りできなくなる」
そう言い残し、精鋭騎士は回廊の奥へと下がっていった。
ダフネは相変わらず静かに、杖を持ったままその場に立ち尽くしている。
庭木から聞こえる虫の声、水路の上を渡る風の音。脅威から解放された二人の間に、ようやくいつもの宮廷の夜の音が返ってくる。
騎士の背に伸ばしかけていた手を下ろし、ダリオはやっと静かに息を吐いた。
……とりあえず、ダフネが無事で本当に良かった。
もしあのままだったなら、ダリオは何もできぬまま、彼女は暗殺者の手にかかっていただろう。
「……ご迷惑をお掛けしました、ダリオ様」
窮地を乗り越えた安堵から肩を落とすダリオに向けて、ダフネはただ申し訳なさそうにそう呟く。
謝りたいのはダリオの方だ。杖を忘れるなんて大失態を犯して、ただこの場に立っていただけ。本当に何もできなかった。
しかしこんな情けない身でも、あの白銀の騎士を誰が遣わしたかだけは察しがつく。
「さっきの騎士は、レオナルドが君を守るために?」
ダフネは無言でその言葉を肯定する。
……レオナルドが彼女に出した秘密の手紙。
二人は多分、暗殺の脅威にさらされた者とその庇護者という形でつながっている。
他でもない宮廷筆頭魔術師の力が、ダフネの命を凶刃から救ったのだ。
レオナルドは、多分ずっと前からダフネの命を狙う何者かの動きを把握していた。精鋭の兵を警備に混ぜて、常に彼女を守っていた。
恐らく彼は、誰がダフネを暗殺しようとしているかも、その何者かがダフネを暗殺したがる理由も知っている……。
一気に押し寄せてきた事実に、ダリオは思わず額に手を当てる。
あの一通の手紙の重さが、今になって肩にのしかかってくるようだった。
……レオナルドが相手取る暗殺者が誰の手の者か。騎士が答えてくれずともある程度は推察できる。
宮廷内にいくらでも兵を伏せておける者……すなわちレオナルドと並ぶような、相当の権力者だ。
ダフネが巻き込まれているのは、この国の根幹を揺るがしかねない、権力の粋がぶつかり合う政争と陰謀……。
この宮廷に入ったばかりだと言う彼女の細い肩には、ダリオには計り知れない何かが負わされているのだ。
手の中の杖を握りしめながら、渦中の人は水色の瞳を地面に伏せる。喉の奥から、絞り出すようにこう言った。
「暗殺の黒幕が誰かは、私もレオナルド様から教えていただいておりません。……でも暗殺の目的は知っています。彼らは多分、私が『秘密』を漏らすことを恐れているのです」
「……秘密?」
か細い呟きに首をかしげるダリオに、ダフネは一瞬、何かを躊躇うように口を閉じる。
しかし中途半端に事実を知っていることが一番危険だと思ったのか、その先を話してくれた。
……そうだ。ダリオはもう、ダフネと同じ船の上にいるのだ。
未遂とはいえ、ダフネを狙う襲撃の現場を目撃してしまった。それだけで、ダリオはあの殺し屋達の次の標的となるには十分だろう。
魔術師は杖のない両手に力を込め、腹の底へと静かに覚悟を沈めていく。……何を知ることになっても、動じないつもりだった。
しかし。
「……聖典ギャラクシアを、見たのです」
「え?」
目の前の女性が放ったその言葉に、再びダリオの周りから音が消える。
……そう錯覚してしまうくらい。
ダリオの覚悟の甘さを嘲笑うように、運命は魔術師の身の丈を越えて大きく打ち寄せたのだ。
月光を覆うように雲が流れる。
再び迫る闇の中で、ダフネはこう続けた。
「刺客が私の命を狙っているのは、私が聖典ギャラクシアの姿を目撃した一人だからです」
しばらく、宮廷筆頭魔術師代理は何も言うことができなかった。反応すらできずにいた。
銀河の魔術師が誕生するはずのこの年。
聖典は未だ影も形もなく、どこを探しても見つからず、誰に聞いてもかすかな情報さえなく。とにかく、その姿を見た者はいない……はずだった。
しかしそんな宮廷筆頭魔術師代理の内に宿る常識さえ引き裂くように、ダフネは言葉を続ける。
「聖典は確かに、この国のどこかにあります。誰かがその存在を隠し、王宮から遠ざけているのです」
無知なる魔術師の見ている世界が、静かにひっくり返っていく。
……レオナルドが、自分に謎の手紙を託しダフネと引き合わせた理由。
当代宮廷筆頭魔術師は、無知の魔術師をここへ導きたかったのだと、このときダリオは心のどこかで漠然とそう感じたのだった。
ソルとピエドラ、そして聖典の番人の老人。不可思議な一行は、ギャラクシアを王都へと運ぶ旅の途上にあった。
悪魔の城を出て旅を再開した晩から、さらに野宿の二晩を越え。
一行は周りを背の低い山々に囲まれた広い盆地へと差しかかっていた。
この盆地を抜ければ、イクリプス領を半分越えたも同然だ。
そうだ、そこまで順調に旅が進んでいたのに……。
「うお! ちょっと、待ってよソル!」
「こっちだよ、ピエドラ」
小柄な体格を活かして森を抜けていくソルの後ろで、魔女は杖で茂みをかき分けながら一人奮闘していた。
生い茂る棘にスカートを引っ掛けながら、それでも何とか足を速める。
前を行く聖典の番人の老人が、くるりと振り返って魔女の後方を眺めて言った。
『敵が迫っておるぞ』
「分かってるって……分かってるけど体はそんなにすんなり動かないのよ!」
精霊である老人は当然棘だらけの茂みに体を囚われたりはしない。ひたすら動きが鈍いのはこの一行でピエドラだけだ。
しかしここで置いていかれることはそれ即ち人生の終わりを意味する。だから無理矢理にだって走らねばならない。
そう。今日も今日とて、ソルとピエドラはイクリプスの刺客とおぼしき黒マント達に追われていた。
今も。暗い森の中を、剣を構えた追跡者達はソルとピエドラの後ろにぴったりくっついて追いかけてきている。
最初は十名ほどいた刺客はソルの魔術で今や二人に減っていたが、その残った二人というのがやたらしつこい。恐らく刺客達の中でも手練れの兵士なのだろうが、ピエドラとソルの足ではまったく振りきれる気配がなかった。
……月明かりの街道で、一行の行く手にいきなり姿を現した黒マント達の姿を思い出す。
どうやらソルとピエドラはこの盆地で待ち伏せを食らったようだった。
聖典奪取の報はイクリプス領全土に広がり、今やそこかしこに兵が伏せられているのだ。
後ろからも追っ手が迫っているし、向かう先にも予想外の奇襲が仕掛けられている。
逃走者たった二人のために、相手は実に周到な網を張ったようだった。よっぽどこの聖典ギャラクシアとやらを領外に出したくないらしい。
後ろからガサガサと、明かりもない木々の隙間を大人の男の足音が迫っているのが聞こえる。
街道を外れ、近くの森の中に追い込まれてしばらく。
ソルの魔術をかわしながら、残る二人の追跡者は相変わらず恐ろしいほどの執念でこちらを追ってきていた。
そう……恐ろしいほど執念深く。
奇襲が仕掛けられたのは、ピエドラが彼らの執念深さにある疑念を持ち始めた頃。
前を行くソルが、少し開けた場所に足を踏み入れた瞬間だった。
まだ茂みの中にいたピエドラは、どうすることもできずにその光景を見ていた。
……いくらソルといえども、目の前に迫った待ち伏せまでは回避できない。
矢が飛んできたのは、ソルの斜め前に迫った低い木の上からだった。
二人は単純に粘着されていたのではなく、そこに追い込まれたのだと、魔女はその攻撃でようやく理解したのだ。
ソルの前に飛んできたのは、闇に目を凝らさなければ捉えられないような小さな矢だった。わずか木の芽ほどの大きさしかない、吹き矢が飛んできたのだ。
『危ない、ソル!』
奇襲に気付いた聖典の番人の老人が叫ぶ。
しかしその声が聞こえても、飛んでくる物体に気付けたとしても、それを避ける身体能力がなければどうしようもない。
いくら魔術が得意な天才少女とはいえ、万能ではないのだ。
「……っ!」
幸か不幸か、矢はソルの足をかすっただけのようだった。
ピエドラが杖を構える前に、攻撃を受けたソル自ら、聖典を開いて魔術を唱える。木の上に潜んでいた者は、瞬く間にその魔術に撃沈していった。
前方の脅威が消えた瞬間、少女はそのまま後ろを振り返り、茂みを走ってきていた他の刺客達に狙いを定める。
夜の森に注いだ激しい雷撃が、しつこい追っ手に降り注ぎ、とうとうその足をその場で止めさせた。
しんと、辺りに静寂が落ちる。先ほどの雷に気付いた他の追っ手がやってくる気配もない。
ソルとピエドラはようやく、刺客達を撒いたのだ。
しかし魔女は即座に嫌な予感に囚われていた。
確実に獲物を仕留めたいなら、普通吹き矢なんて小さなものを使うだろうか……。
そしてその予感は、すぐさまピエドラの前で結実したのだ。
ピエドラの目の前で、先を歩いていたソルが突然膝を折る。聖典を抱えた格好のまま、彼女は左半身からどさりと地面に倒れ込んだ。
「ソル!?」
ピエドラが慌てて駆け寄るが、少女は相変わらず地面に倒れたまま。その呼吸は荒く、目蓋をぎゅっと結んで、まるで高熱にうかされているようだった。
『……吹き矢に毒が塗られていたようじゃ』
言いながら、老人はソルの足に付いた傷跡の側に立つ。
その言葉に、ピエドラは一気に取り乱していた。
「嘘でしょ!? こ、こういうときはどうすればいいんだっけ? 毒を吸い出す? 傷口を洗う? 毒が回らないように、足を縛って……」
『落ち着け、ピエドラ。もう手遅れじゃ』
「手遅れって何よ! 諦めろって言うの?」
『この毒は一瞬で体に回る。お主にできることはない』
冷酷とも言える老人の発言に、魔女はもう少しで杖を取り落とす所だった。しかし、
『一瞬で回るが、これは死に至る毒ではない』
「……何でそんなことが分かるの?」
『ソルの魔力に少しずつ異物が取り憑いておる。これは魔力と結合し魔術師を苦しめる毒じゃ』
ソルを見下ろし着物の袖を組みながら、老人はなおも冷静に言う。
どうやら彼のその落ち着いた態度は、ソルの容態にまだ希望が持てる故のようだった。
『魔力の循環と代謝によって毒は少しずつ体外に排出される。普通の魔術師なら三、四日で解毒できると思うが……』
「何よ?」
『この毒は、魔力が強い者ほどよく効くのじゃ。ソルの魔力だと、普通の魔術師より解毒に時間がかかるじゃろう。痛みも相当のはずじゃ……』
冷静ながらもどこか苦々しげに、ソルを見下ろす老人は眉根を寄せる。
そのとなりで、魔女は何とか少女を地面から抱き起こした。
「とにかく、ここから少しでも離れないと……」
この状態でまた刺客に襲われたら、それこそ一巻の終わりだ。
ピエドラはそのまま、悪戦苦闘しながらもソルを背中に負う。
……どんなに意識が朦朧としていても、この少女、聖典ギャラクシアだけは片時も腕の中から離さない。
ソルの体重に加算されて背中にずっしりと来るその重みに、ピエドラが片手につく杖が地面にめり込んだ。
「うう……重い。聖典が重い……」
『仕方なかろう』
片手で聖典を抱き抱えたまま背中におぶさるソルを支え、もう一方の手で杖をついて前に進みながら、魔女の口を情けない声がついて出てくる。
「ねえ。これ……どっちに行けばいいの?」
『やれやれ……』
「やれやれって言わないで。いま月を見ながらここがどこだか頭をフル回転させてんだから」
「そのまま……まっすぐ行って……」
「ソル?」
背中から聞こえた弱々しい声に、魔女は思わず足を止める。
そんなピエドラに、再びソルは前進を促した。どうやら彼女には、この盆地で確固たる行き先が定まっているようだった。
そしてその行き先とやらには、聖典を確実に王都へ運ぶためのある作戦が絡んでいたのだ。
ピエドラの背で、相変わらず喉から絞り出すような弱々しい声でソルは語る。
この盆地には、イクリプスの私兵である『黒銀騎士団』と王国近衛兵である『白銀騎士団』の合同訓練が行われている大規模野営地があるのというのだ。
そしてなんと、少女はピエドラにそこを目指せと言ってきた。
そんなの敵の懐にみすみす踏み込むようなものじゃないかと、ピエドラは一瞬声を上げそうになったが……。
『野営地にいる騎士に、王への謁見を取り付けさせるつもりなのじゃな?』
ソルが言わんとしていることを、番人の老人が引き継ぐ。
ピエドラの背に負われた少女は、かすれる声でそれを肯定した。
「今は……王命で国中の騎士や兵士が聖典を探しているはず……騎士を手柄で釣って、王のもとへ案内させるの」
「……どんな状況でも頭が働くのね」
「釣るのは、聖典の価値をよく知らない騎士がいい……下手に価値を知ってると、私達を消して聖典を奪い取ろうとする可能性が……」
「分かったから、もう喋らないで」
ここに至って聖典を運ぶ使命が最優先といわんばかりの背中の少女の情熱に、ピエドラはただ狼狽する。
何にせよ、一縷の希望が残されているならそれにすがらねばならない。それ以外に、ピエドラが行ける道もないのだから。
「とりあえず、その騎士の野営地とやらに行けばいいのね」
『もしかしたら、そこに解毒薬も置いてあるかも知れん。協力してくれる騎士が現れればの話じゃが……』
「……ここまで遮二無二やって来たけど、やっぱりあたし達詰んでるわ。そんなもんどうやって探すのよ」
希望は確かにまだある。しかしピエドラの目の前にちらついている一縷の希望というのは、既に消えかけているも同然の希望のようだった。
こんな不思議な二人組の話を聞いてくれる騎士なんて、果たしてこの世に存在するものか。……しないだろうな。
「正義の騎士様ってのは、意外と魔女には厳しいもんなのよ……」
弱ったソル以上に情けない声を漏らしながら、膝をガクガクいわせる魔女は頭の上に昇る月を見上げていた。
「うーん、さすがに一晩の見張りは堪えるな……」
立ち込める朝靄に濡れていく甲冑の中で、中年の男は眠たい目を瞬きながらポツリと愚痴をこぼす。
そのまま彼は凝り固まった体をほぐすように、籠手をはめた手を朝陽に向けて伸ばした。
その甲冑の兵士の後ろには、石を積み上げた造りの立派な門扉が。そしてその門扉にも負けない巨大な灰色の要塞が、盆地に垂れ込める朝靄の中に静かにたたずんでいた。
腕を伸ばす中年兵士のとなりで、「ふあ~あ」と巨大なあくびが炸裂する。
それを聞いていた中年の兵士は、そのあくびの主……自分と同じ甲冑に身を包んだ若者のだらけきった様子に、すっと眉間にシワを寄せた。
「ウィン、こっから一人だからってサボるなよ?」
「分かってるよ。……しかし狩りだかなんだか知らねえが、お偉い騎士様達のお留守を何で俺たち街頭警備兵が守ってやんなきゃいけねえんだ」
「仕方ないだろう。これも仕事だ」
頭の後ろに手をやり、なおも気だるげな様子を見せる若い兵士に、中年の兵士は小言を続ける。
「くれぐれも騎士様に目をつけられないように。……ここから生きて帰れるかどうかは、お前の行動次第だからな」
「それも分かってるって。兜を脱がなきゃ兵士なんて皆同じ顔だ。誰が何をやったなんて気にも留められねえよ」
「そんなわけあるか。……いいか、特に黒銀騎士には近付くなよ。お前とあいつらには、」
「ん? 何だあれ?」
腕を組み、これから小言の本番とばかりに意気込んだ中年兵士のとなりで、若い兵士は兜の面甲を上げながら手の平を目の上に当てる。
その視線の先には、昇り始めた朝陽の下を、せっせと何かを背負ってこちらへと歩いてくる人間の姿があった。
若い兵士と同じ方を見て、中年の兵士も慌てた様子で叫ぶ。
「大変だ! 女性と子どもが助けを求めてるぞ!」
その言葉の通り。
子どもを一人背負って杖をつき、疲れきった足取りでこちらへ向かってくるボロボロの女の姿に、甲冑姿の若い兵士はポカンと口を開く。
……近付いてくる者が自らの運命の分水嶺となることを知ることもなく、彼はただ朝靄の中の不思議な光景を眺めていた。




