第25話 慧眼の弟子と業火の宰相
重臣と重臣の部屋の間をつなぐ赤絨毯の廊下に、足音だけでその生真面目さを示すような高い靴音が響く。
長いローブを着たその少年は、ある人物の仕事部屋を目指してひたすらに歩を進めていた。
そして。
その部屋の前まで来た少年は、扉の前にいた先客の姿に気付く。
精悍な瞳が、いかにも不審な様子のその男をじっと捉えた。
男は頭頂部の禿げをこちらへ向けながら、何やら訝しげに扉の隙間から部屋の中を盗み見ているのだ。
中にいる者を観察しているのか、そしてその様子に何かおかしな所でもあったのか、実に不可解そうな顔でしきりに首をかしげながら、わずかに開いた口でパクパクと何か呟いている。
近付いてきた少年に気付くと、男は青い顔をしながら急いで廊下を走り去って行った。
遠ざかっていくその背を眺めながら、少年もまた軽く首をかしげていた。彼ほどの身分の者なら盗み見なんかしなくても直接部屋の主に会えるだろうに、一体どうしたというのだ。
なおも不思議そうにしながらも少年は目的のドア――宮廷筆頭魔術師の執務室のドアに手を触れた。
短いノックの後、床スレスレの長いローブを着た背がゆっくり扉をくぐる。
そして少年がその部屋に入って最初に聞いたのは……。
「ダフネ……レオナルド……手紙」
入室と同時に目に入った光景に、少年は先ほど部屋の前にいた男と同様、目を点にしていた。
彼はその奇怪な光景に深く首をかしげながらも、ピーピーと、足下を囲む黄色い雛達を踏み潰さないように気を付けながら部屋の真ん中まで進む。
そこでやっと来客に気付いたらしい今のこの部屋の主……先ほどまで自分の斜め上を見ながら宙に向けて止めどなくブツブツ言っていた男は、立派な椅子の上からまるで上の空の顔を少年の方に向けた。
「ダフネ……レオナルド……。レオナルド……じゃなくて、ルナ!」
「……何を寝ぼけているんですか」
来客を前にしてやっと現実に戻ってきたらしい宮廷筆頭魔術師代理に、少年……漆黒の髪をした年若い訪問者は、変声期を経たばかりの声で苦言を呈する。
宮廷筆頭魔術師代理は、一度あははとわずかに苦言に反応すると、すぐにまた椅子に深く掛け天井を見上げ始めた。
明らかに心ここにあらずな様子に、訪問者・ルナ少年は改めて嘆息を漏らす。
「一体どうしたんですか、ダリオ様……」
未だ考え事に取りつかれた様子の宮廷筆頭魔術師代理……ダリオ・アンヘルに、ルナはいよいよ訝しそうに一歩一歩警戒しながらその机の前まで近付いた。
そんなルナに、
「ルナは、あることがずっと心に引っ掛かって、仕事が手につかなくなることはないかい?」
「はあ?」
相変わらず宙を見たままそう呟いた髭面男に、少年は若い眉間に深くシワを刻む。
そして、ふと机の上にある書きかけの書類に目を落とした少年は……。
「ああ、そこ、署名間違ってますよ!?」
「あ、ホントだ!」
『ダリオ』と書くべき署名の欄に、いつの間にか書いていた『ダフネ』の文字に、宮廷筆頭魔術師代理はこの日一番の悲鳴を上げたのだった。
まさに目の覚めるような失態のお陰でようやくほぼ完全に現実へと戻ってきたダリオは、執務室を出て夕暮れへと向かう回廊を進んでいた。
先ほどまでの己の上の空っぷりに、情けなさから思わず額に手をやる。
そんなダリオの前を歩くのは、先ほど執務室へやって来た来訪者……宮廷筆頭魔術師レオナルドのたった一人の正式な弟子・ルナ少年だ。
彼はまったくと言っていいほど仕事が手につかない様子のダリオを、仕方がないからと気分転換がてら宮廷の散策に連れ出してくれたのだ。これではどっちが大人だかどっちが宮廷魔術師だか分からない。
前を行く黒髪の少年に連れ立って歩きながら、ダリオは改めて宮廷筆頭魔術師の弟子の姿を観察する。
利発でよく気が付いて常に一部の隙もなく真面目で、何だか魔術師というより騎士然とした少年だった。
彼は今、宮廷筆頭魔術師代理として何かと至らぬダリオの補佐をしてくれている。宮廷の事情に通じたルナ少年がいなければこの代理生活、ダリオは三日と持たなかっただろう。
歳は十七、八だと聞いたが、それよりいささか幼く見える。
まだダリオより頭一つ分背も小さくローブもぶかぶかで、だからダリオはつい彼を子ども扱いしてしまうのだが、そのたびに彼を憤怒のごとく怒らせてしまうのだった。
まあ、幼く見えるというのは外見だけの話で、言葉遣いも態度もダリオが一生及ばぬほど大人びて立派だ。
おっとりした師匠とは正反対で、すべてにおいて熱量が多くしっかりした少年だった。
「……大臣補佐殿が部屋の外であなたのことを気味悪がってましたよ。彼に小言を言われ過ぎておかしくなってしまったんですか?」
過ぎていく庭木を横目に放たれた少年の言葉に、それまで情けなさでうつむきがちだったダリオは思わず顔を上げる。
「僕は彼に影響されるほど落ちぶれてないよ」
と、すかさず宮廷筆頭魔術師代理は少年に反論したが……。
「とか言いながら、執務室に杖を忘れてますよ。宮廷の中と言えど、何時なんどき不届き者の襲来があるとも限りません。宮廷内の人々を守るのも宮廷魔術師の重要な職分です。レオナルド様も、常に杖を持ち歩いていらっしゃいます。魔術師の誇りをお忘れにならないで下さい」
と、すぐに怒涛のような言葉が返ってきた。
ダリオは慌てて執務室まで杖を取りに戻った。署名を間違う、杖を忘れる……これは確かにダリオが落ちぶれている。
執務室から取ってきた樫の杖を握り、ダリオは今日一番のため息をついた。気を引き締めねばならないが、今日は一日この調子だろうな……。
ダリオがこうなった原因はルナに話してある。あることが猛烈に心に引っ掛かって抜けなくなったのだと。
そう。睡蓮魔術師団のダフネにレオナルドが出した手紙のことが、頭から拭いされないのだ。その手紙を巡って、一気に色んなことが起きたから。
中でもダリオの心をとらえて離さないのは……。
ルナの待つ廊下の先を見据えつつ、ダリオの心はすでに過去のその光景に再び戻りつつあった。
……あのとき、水色のトルマリンの瞳が回廊の隅で流した涙。
それが今も頭から離れない。
一体、突然もらった手紙に何と書かれていたら、人はあそこまで滂沱するのか。
ダリオから事の一部始終を聞いたルナ少年も、拳を顎に当てながら軽く首をかしげていた。
「ダフネ殿から手紙の内容を聞かなかったのですか?」
「聞かなかった。僕が立ち入っていいことかどうか分からないし」
「……」
呆れられたのだろうか。ルナ少年はしばらく真顔でダリオを見ていた気がする。
確かにあんな風に目の前で大号泣されたらもっと踏み込みたくなるのが人情かもしれない。
ダリオは謎の手紙を運ぶだけ運んで受取人の涙だけ見て帰ってきたのだ。宮廷に生きる人間としてはかなり半端な対応をしただろう。しかし……。
ダフネからは手紙の内容を聞けなかったが、ダフネ自身については睡蓮魔術師団の他の団員から聞くことができた。
ダフネに手紙を渡したその帰り道。
案の定、ダリオは令嬢達からそれとなくダフネと何を話したか探りを入れられてしまったのだ。
適当に業務上の連絡だと返したが、ダリオのその下手な返答のせいで、あれはやはり逢い引きに違いないととられてしまっただろう。令嬢達の目はその方向で納得しているように見えた。
完全に誤解されたのは分かったが、しかしあえてその誤解を解くつもりにもなれなかった。
あそこでダフネに本当に用があったのがレオナルドだなどと知れたら、それこそ一事件起きただろうから。
ましてや手紙を見たダフネのあの反応の話などしたら、明日にはあの女性達の社交場は崩壊していただろう。
女性達の間で終始戸惑っていたダリオだったが、逆に彼女達からダフネのことを教えてもらうことには成功した。というよりダリオがあまりに『逢い引き』相手のことを知らないから、彼女達の方から教えてくれたのだ。
令嬢達はこう言っていた。
「あの娘は、羽振りのいい海の商人の娘よ。異大陸まで冒険した大きな船の船長の娘だって。ここに来たのはそう……三か月も前じゃないわ」
「お金の力で宮廷に入ったような娘よ。魔術学校にも通ってないようだけど、そこそこ魔力があるから……」
と、大半の令嬢がダフネに対してこのような印象を抱いている様子だった。
睡蓮の池の周りに集まりわいわいと楽しげな令嬢達の隅で、終始目を伏せがちだった彼女のことを思い出す。
確かにあんな評価を受けている場所で他人に心を開くことなどできないだろう。それに加えて、彼女は何か……レオナルドから直接手紙を受けるだけの『何か』を抱えているのだ。
……ひとしきり涙にくれたダフネに、手を差しのべたときのことを思い出す。
ダフネはあのとき涙ながらに、心配するダリオに「大丈夫だ」とだけ返したのだ。
あれはきっと、ダリオが彼女から話を聞くことで、ダリオまでその事件に巻き込まれることを厭ったのだろう。
だからこそあの手紙が何か、深くこの宮廷の闇に根ざす事件の一端を結んでいるのだと確信せざるを得なかったが……それ故にダフネの厚意を無にしてまで、自分が頭からそこに突っ込んでいくことが吉か凶か、その場で答えを出せなかったのだ。
ダフネにはきっと、ダリオがその事件に巻き込まれて生還するに足る人間とは思えなかったのだろう。だから何も教えてくれなかった。
……彼女を救えるのは多分、手紙の差出人であるレオナルドだけなのだ。
気分転換どころか、さらに深くあの一件にとらわれていくダリオの体重を支える樫の杖が、コツンコツンと回廊を叩く。
ダリオとルナ少年は、歩き続けて城門の付近まで差し掛かっていた。
ふと。回廊を吹き抜けるような強い風が一帯を吹いた。流れる雲が陽光を遮っていく。
……嫌な予感がした。
その予感の通り、ダリオが深く過去の記憶に沈んでいられたのはそこまでだった。
回廊を進んでいたダリオとルナは、ある声に足を止められたのだ。
「イクリプス公だ! イクリプス公が登城なされたぞ!」
その音の並びが鼓膜を揺らした瞬間、ダリオの目は瞳孔まで開いていた。
ルナが怪訝そうな顔でダリオを見上げる。それくらい、その人物の名を聞いた自分はとんでもない表情を浮かべていたのだろう。
先に叫んだ誰かの声を継ぐように、回廊のそこかしこから「イクリプス公が登城した」と声が上がる。
その声の広がりを待たずとも、城門前の美しい庭の石のアーチを、その一行が歩いてくるのが見え始めていた。
……ダリオはしばらく、微動だにせずにその様子を見守っていた。
その一行が早く通りすぎてくれればいいのにという願いも虚しく、大鷲の率いるその一団はダリオのいる回廊の方へと進んできていた。
回廊を歩く人々が一斉に道を開ける。
ダリオとルナもそれに従った。
先頭を行く一人の宰相。それに続く十人ほどの側近達。
回廊を歩くだけにしては大仰な行列だが、あれがいつもの『彼』の登城姿だ。この城にいるどんなときでも、彼が権威をその身に纏っていないときはない。
久しぶりの登城なのか、宰相は廊下に立つ一人一人と言葉を交わす。
道を譲った人々は、皆大袈裟に恭しく頭を下げ、彼に挨拶の言葉やら謝辞やら賛辞やらを送っていた。
そしてそれを受ける男の、何と不遜なことか。宮廷のどこよりも天井の高いこの回廊に響き渡るように、朗々とした笑い声が空気を震わせる。
その様子に苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるダリオを、相変わらずルナは不安そうにしながら眺めていた。
……それくらい。あの男が自分にもたらすこの衝動は激しい。
あの嫌みな大臣補佐には抱いたこともない、心の奥底から沸き上がってくるような忌避感と警戒心。
顔を合わせるたびに、棍棒で頭を殴られるような感覚を脳が錯覚する。
険しい表情を引っ込められないダリオの心情などおかまいなく、側近を引き連れた宰相は、すぐその前まで迫ってきていた。
ダリオとルナのすぐ隣にいた若い宮廷魔術師が、嬉しげに彼に頭を下げ、肩を叩かれている。
……ダリオも、もし無知でいられたならそうしただろう。
宰相イクリプス。そして領主イクリプス。
その人となりも。彼が何をしてきたかも。
全部知らなければあの若者のように笑えたのに。
そして。イクリプスに頭を下げていた若者は回廊を去り、いよいよダリオの番がやってきた。
回廊の隅に控えるダリオを、宰相は一瞬無視しようとしていたように見えた。
そのまま通り過ぎてくれれば良かったのに、途中で気が変わったのか、彼はいかにも怠惰な様子でこちらへと向き直る。
他の者に向けていた愛想笑いは消え、今はただ態度と同じく気だるげな表情がその顔には浮かんでいた。
「これはこれは。宮廷筆頭魔術師代理殿ではないか」
白髪混じりの灰銀色の髪は後ろの方へと撫でつけられ、鷲のような鋭い目に陽光とは別の鈍い光が宿っている。笑みの消えた口元を丁寧に整えられた髭が囲み、大きな背で相手を見下ろす姿が、相対する者に自然と威圧感を植え付けた。
すべての挨拶もダリオとの交歓もすっ飛ばして、宰相はただ目の前に立つ魔術師の『属性』に言及する。
「どこの貴族でもない者を代理に選ぶとは、レオナルドも考えたな。これなら公平だ」
どこの家の者でもないな。お前など簡単に潰せる。
その言葉を、この宮廷にいる誰もがそう受け止めるだろう。
言いたいことはとにかく何でも言っていい地位にいる男だ。目の前にいるのがとるに足らない相手なら、歯に衣着せる必要もない。
ダリオのとなりで、ルナがわずかにびくりと反応するのが分かった。
構わず、宰相は言葉を続ける。
「血筋も悪く、レオナルドにも遠く及ばぬとはいえ、我が領地から宮廷魔術師が出たのは喜ばしいこと。せいぜいこれからも励むように。レオナルドの顔に泥を塗ってやるなよ」
「は……公も領主ご就任の頃からお変わりなく。宰相まで上られたことを次代に誇れるよう、領民一同期待いたしております」
ルナが今度は目を剥くのが分かった。
先のダリオの言葉に、イクリプスはいかにも面白そうに笑みをこぼす。後ろに控える側近達も、ニタニタとそれぞれ嫌らしい笑顔で顔を見合わせあった。
宰相は、「ならば貴殿にも私の道を開く役に立ってもらわねばな」と、ダリオの鼻先まで顔を近付けてくる。そしてこう言った。
「貴殿は、戦場に出たことはあるかな?」
「は?」
ダリオがイクリプスに完全に聞き返す前に、バリーンと、厚い陶器の割れる音が回廊に響き渡った。
ルナ少年が、ちょうど彼の後ろの柱の影に置いてあった、花が活けられた壺を足で倒したのだ。
「も、申し訳ありません……」
と、少年は割れた壺のもとにかがみ込む。
「おおっと。気を付けねばならんな」
その様子にダリオに向けていた興が冷めたのか、宰相はさっさと回廊の先へと歩を進め始めた。
後に続く側近達が、まるで邪魔な置物を見るような目をしながら、ダリオと花活け壺の破片を集めるルナ少年の前を通りすぎていく。
「これからはせいぜい上手くやることだな、陛下のお気に入り魔術師殿」
最後にふざけながら手をヒラヒラ振り、そう言い残してその場を過ぎようとした側近に、ダリオは一瞥をくれる。相手はぎょっとした顔で上げていた手を引き、早足でその場を去っていった。
壺に蓄えられていた水に濡れた床から顔を上げながら、ルナが険しい顔で呟く。
「……あのままイクリプス公の言葉に答え続けていたら、本当に戦場に送られていましたよ」
「……。おぞましい問いをなさるお方だ」
一緒になって破片を片付けながら、ダリオもその場の空気に呟いていた。床に広がった陶器の欠片を集める手が、今さら震えている。
「そういうお方です。気に入らない者はすぐに消してしまえばいい。それくらいにしか考えていない……」
「知ってるよ。僕は彼の領地の出身だから」
「知っているなら控えて下さい。……公の言葉を借りるわけではありませんが、あなたはレオナルド様に選ばれて宮廷筆頭魔術師代理を務めているのです。要らぬ対立を招けば帰ってきた師匠の立場が悪くなります」
最早ぐうの音も出ない。
ダリオはこの少年に何もかも救われたのだ。容赦なく首に手を掛けてきた宰相から、この向こう見ずの考えなしを救ってくれた。
庭を通りかかった小間使いが、破片の片付けを引き継いでくれる。
どこかへ引き上げられていく割れた花活け壺とルナ少年の背を眺めながら、ダリオはいつの間にか樫の杖を握りしめていた。
結局その日は一日中、まったく仕事がはかどらなかった。
机に向かい、しかし視線は開けた窓の方に向けたままのダリオの上に、とうとう月が昇る。その青い光が、黄色いふわふわ達の走る執務室を照らした。
何もできないのに目まぐるしく色んなことが起きて、大変な一日だった。
今になって、やっと宮廷筆頭魔術師代理という職分の重さを実感したような気がする。
こんな一つの間違いが生死を分ける薄氷の上のような世界で、レオナルドは十二年も宮廷筆頭魔術師を務めているのか。
ならば一層、ダリオがダフネのことにこれ以上首を突っ込むのは無意味な気がした。
この宮廷には、ダフネとレオナルドしか知り得ない事件が確かに起きている。ここに属するどの宮廷魔術師も、気付いていないことがある。
それは事実かも知れないが、ダリオにはそこに深く踏み込んでいく力がない。
……『血筋も悪くレオナルドにも遠く及ばぬ』、先の計算もできず自分よりずっと年若い少年に救われるような魔術師なのだ。
あの手紙の受け渡しの一件で、ダリオはとっくにレオナルドが想定していた役を果たしている。
宮廷筆頭魔術師が、わざわざ代理となったダリオに睡蓮魔術師団の女性への手紙の手渡しを頼んだ理由。それは、その行為自体に誰が手紙の差出人であるかを霞ませる効果があるからだ。
睡蓮魔術師団には、あの後ダリオがダフネを逢い引きに誘ったという噂だけが広まった。
レオナルドからダフネへ、何らかの機密の書かれた手紙のやり取りがあったなんて誰も知る由がない。
普段女の園に踏み込まない男がたどたどしく一人の女性を呼び出し、文を渡す姿だけが周りの人々の心に刻まれたのだ。
多分、レオナルドはそれを想定してダリオに手紙を持たせた。ダリオに任せられる役目はそれくらいだと考えたのだろう。
はあ、と一つ息を吐いて、ダリオは掛けていた椅子を引いた。
そのまま部屋のことを小間使いに任せて、赤絨毯の上を自分の部屋へと下がっていく。
使われたとは思わない。小さなことかもしれないが、自分の存在がレオナルドの役に立ったならそれで何よりだ。
問題なのは、これ以上自分に何もできないと知っているのに、それをさっさと忘れられないダリオ自身だ。
カツカツと、廊下に靴音を響かせながらダリオは自室まで急ぐ。
静かな夜だった。
雲が出て、だんだん月の光も弱くなって。
まるでこの宮廷にダリオ一人だけのようになったかのように錯覚するくらい、音がしない。
静かなのも当然だ。さっきから警備の兵と全くすれ違わないのだ。
いつもならこれくらい歩けば、必ず重い鉄鎧の足音が聞こえてくるのに。
警備はいないが、回廊の壁にかかる燭台にだけは火が灯されている。それが今日は何だかやけにおどろおどろしかった。
まるで一人回廊を歩くこの男を、その明かりだけがどこかへ導くようで。
ふと、杖に光を灯そうかと考えて、ダリオははっとしながら己の手の中を見た。
……今日は本当にどうかしている。
杖を執務室に忘れてきていた。
取りに返ろうにも、今からではもう遅いだろう。従僕があの部屋に最後に鍵を掛けてしまうはずだった。
仕方ない。明日の朝執務室が開くまでは杖無しだ。
この日を締めくくる失態に、ダリオは大きく肩を落とす。これはまたルナ少年に叱られるな……。
そうして歩いて、やがてその身は城の離れ、睡蓮の池の近くへと差し掛かっていた。
ふと、ダリオは流れてきた風に顔を上げる。
昼間聞いたダフネのことを、魔術師はこの期に及んで思い出していた。
異大陸まで航海した大きな船の船長の娘。睡蓮魔術師団の大半の団員は、入団して日の浅いダフネのことをそれくらいにしか認識していないようだったが、その中で、気になった言葉があったのだ。
「変わった子よ。暇さえあれば遠くのほうを見て祈りを捧げて。まるで喪に服してるみたい」
「この前も夜中にふらふら一人で睡蓮の池の周りを歩いているのを見たわ。おぼつかない足取りで、今にも池の中に飛び込むつもりかと思ったわよ」
と、声を潜めて話す令嬢達の姿を思い返す。
……今日はそこに、ダフネは立っているだろうか。
ささやかな好奇心の波が、いつの間にかダリオの足を、誰もいない離れ宮の庭の中まで歩ませていた。
睡蓮の池の淵にダフネはいるか。
それだけ確かめて、この件のことを考えるのはこれで終わりにしようと。
……まさか杖を持たずにそこへ歩を進めたことを、あれほど後悔することになるとは思わなかったが。
一歩回廊から離れると、そこはもう弱い月明かりだけが頼りの夜闇の中だ。
貴族達が滞在しているはずのどの部屋の窓からもすでに明かりが消え、貴婦人達の声に包まれる昼間と違い、今はただひたすらこの場を静寂だけが支配している。
その中を進みながら、だんだんと、ダリオの胸に燃えていた好奇心の火は小さく消えかけてきていた。
まるで一歩一歩、別の世界へと足を踏み入れているようだった。
陽光のもとでは青い水を張る水路は闇の中でどす黒く、庭木はただ道に影を落とし、豪奢な彫刻を施された回廊の柱の影からは、今にも得体の知れぬ何かが飛び出してきそうだった。
……遠くからちらりと睡蓮の池を見て、何もなければそれで帰ればいい。
そんな風に考えるダリオの斜にある柱の影ので、ふいに何かが動く気配と、短く荒い吐息が漏れ出す音した。
一瞬びくりと背を震わせたが、すぐにその正体は生きている人間と分かった。
わずかな月光に目を凝らせば、そこには闇の中で重なり合う、逢い引き中の男女の姿があったから。
離れて聞いているのも羞恥で堪らなくなるほど、べったりくっついた男女は熱い吐息混じりにお互いへの愛を語り合っている。
月明かりが弱いのをいいことに、彼らはこの時間まで外でいちゃついていたらしい。
暗すぎて彼らがここに滞在している貴族かはたまたそれに仕える使用人かは分からなかったが、ダリオの靴音が迫ると、二人ともすぐにどこかへ行ってしまった。
はあ、と息をつくダリオの周りは再び静寂へと帰る。例の男女がいた柱の向こうに、いよいよ睡蓮の池が見えてきていた。
そして。
「ダフネ……」
雲を破って、にわかに月がその場を照らす。
池のほとりの東屋の下に立つ彼女の姿に、ダリオは思わず回廊の柱の影を飛び出そうとしていた。
しかし暗闇に慣れて少しずつ見えてくるダフネの様子に、柱の影を出かけたその格好のまま首をかしげる。
彼女、片手に杖を持っている。その表情は喪に服しているというより、まるで何かを待ち受けるように険しくて……。
そう、端的に表すなら戦いの前のような気配を纏っているのだ。
……何故だろう。そこまで観察したダリオには、ふいに、さっき柱の影にいたあの男女の姿が急におぞましく思えてきていた。
がさりと、ダリオのすぐ側から音がした。
回廊の屋根の上からだった。
「……!」
自分の喉元のすぐそばを通りすぎた白刃に、ダリオの意識は一気に覚まされていく。
自分の前に立つ、屋根から下りてきた黒服の何者かに、魔術師は心もとない素手を前に出して何とか臨戦態勢をとった。
睡蓮の池の淵から、魔術の炸裂する音が響く。
見ればダリオと同様……いや、それ以上の人数の黒服に囲まれたダフネが、彼らを相手どって魔術を放っている所だった。
……まごうことなき、それは『戦い』の様相で。
目の前の黒服が、白刃の切っ先をダリオへ向けて構える。
ダリオはやはり、自分の住む世界からある種の境界を超えて、別の世界へと来てしまったようだった。




