9話:あなたの企ては、破綻しています
翌日の昼下がり、ユリアン様は本当に来た。
私は寝台で、危篤の令嬢をやっていた。
顔には今朝より念入りに青を仕込み、呼吸は浅く、長く。瞼は閉じて、けれど薄く、世界は見えている。枕元には、ギデオン。今日は主治医として、私の脈を取る位置にいる。
扉が開いて、ユリアン様が入ってきた。
足音が神妙だった。悲しみを背負った人の歩き方を、よく研究している足音。
「……ああ、セレナ嬢。こんなにお痩せになって」
声が湿っていた。涙ぐむ手前の、絶妙な湿り具合。
(あら。お上手ね、それも)
私はまぶたの裏で感心していた。これだけ哀切を演じられるなら、本当に私が死んだ後の弔辞も、さぞ立派なものになったでしょうね。
「ユリアン様、でいらっしゃいますね」
ギデオンが、静かに立ち上がった。
「主治医を務めております。本日はご足労を。——ご令嬢は、もう、長くはありません。お声は届いているかもしれませんが、お返事は難しいかと」
「そう、ですか……」
ユリアン様が寝台の脇に膝をつく。湿った吐息が、ひとつ。
その背にギデオンがそっと言葉を添えた。
「立ち入ったことを申しますが。アルディス侯爵家は、最後にユリアン様をお招きできたことを、たいそう喜んでおられました。かつて婚約を結ばれたお方に、見送っていただけるなら、ご令嬢も本望でしょう、と」
(——上手いわ、軍医殿)
餌だった。お前は歓迎されている、お前の善意は信じられている、という餌。
哀しみの仮面の下で、人が一番ゆるむ瞬間。それは自分の善人ぶりが、ちゃんと値踏みされて、高く買われたと知ったとき。
果たしてユリアン様の声が、わずかに弾んだ。
「……ええ。ええ、僕も、そのつもりで参りました。彼女とは、一度は将来を誓った仲です。あんな形で婚約を解消することになって、僕がどれほど胸を痛めたか」
「お辛かったでしょう」
「ええ。ですが、あれは僕の本意ではなかったのです。家の者が——その、よかれと思って、書面を急いでしまって。僕は署名をしただけで」
(あら)
(一通目から、お家の人のせいなのね)
「ご病状のことも、僕は後から知らされて。心臓の、重いご病気だと。……可哀想に。あんなに健やかだった人が」
ギデオンが脈を取るふりをしながら、ごく自然に尋ねた。
「失礼ですが病名は、どのように聞いておられますか。ご縁の深い方には念のため、お伝えしておくのが筋かと」
「……いや、詳しくは。心の臓の、とだけ。難しい名は私のような者には」
(知らないのね。病名も症状も、何ひとつ)
(——でしょうね)
私は薄目の奥で、静かに答え合わせをしていた。
診断書の文面も、毒の種類も、蓄積の速さも、あの実行役の段取りも。この人はひとつも知らない。知っていれば、医者を前にしてこんなに無防備に喋れない。
ユリアン様は診断を「後から知らされた」と言った。書面は「家の者が急いだ」と言った。
手紙を書き、婚約を切り、見栄えのいい砂糖菓子を贈る。そこまではこの人の領分。
でも、王宮侍医を動かし、診断書をでっち上げ、職人の毒師を寝室に送り込む。——それはこの人の手の届く高さじゃない。
(ギデオン。聞こえてる? この人、たぶん、私たちが思っていたよりずっと小さいわ)
衝立越しではないけれど、彼の伏せた目がわずかに動いた。同じ結論にもう着いている目だった。
糸を引いていたのは、この人じゃない。
この人は誰かの描いた絵の中で、自分の小さな得のために、小さな悪事を足しただけ。
——なら。
主犯でないからといって、許す理由には、ならないわよね。
私はゆっくりと、目を開けた。
「ユリアン様。わざわざ、ありがとう」
湿った哀しみの仮面が、凍りついた。
「……セ、セレナ、嬢?」
「あら、お返事は難しいはずだったかしら。ごめんなさいね、思ったより、口が動くものだから」
私は寝台の上で、ゆっくりと身を起こした。青を仕込んだ顔のまま、けれど目だけはきっと、ちっとも病人らしくなかったと思う。
「顔色のことならご心配なく。これ、白粉と紅の調合なの。死にゆく令嬢ってこういう色をしているでしょう?」
ユリアン様の口が開いて、塞がった。
私は袂から一通の書状を取り出した。公爵家の封蝋。彼の署名。
「拝見するたび、感心するの。診断が下りたのが、あの日の昼。このお手紙が届いたのが、同じ日の夜。——婚約の解消って、両家の友誼に関わる重いお話でしょう。それを当主様のご決裁から、清書、封蝋まで、半日で」
「そ、それは、さっきも申し上げた通り、家の者が——」
「ええ。家の者が急いだのよね。あなたが診断を『後から知らされる』より、ずっと前に」
ユリアン様の喉が鳴った。
「古い書状はわかるものなの。インクの沈み、折り目の馴染み、蝋の縮み。——この手紙、書かれてからずいぶん日が経っているわ」
嘘である。紙からそんなことはわからない。
でも、彼はそれを知らない。彼が知っているのは——私が毒の盛られた食卓を自分の舌で見抜いて、死んでみせて、送り込まれた始末役を寝室で釣り上げた女だ、ということだけ。
「ち、違う。あれは——僕は、ただ、署名を」
「さっきは『家の者が急がせた』。その前は『僕の本意ではなかった』。今度は『署名をしただけ』。——どれかに、揃えてくださる? お話が、記録できないわ」
「ぼ、僕は……僕は、君のためを思って……!」
「私のため」
静かに繰り返すと彼は口をつぐんだ。額に汗が浮いていた。
「ねえ、ユリアン様。難しい話じゃないのよ。あなたには次の縁談があった。侯爵家との婚約を、こちらに非を残さず畳む方法を探した。——死んでくれるのが一番きれいだった。それだけのこと」
「違う……違う、僕は、ただ……」
彼の視線が泳いだ。テーブルの書状に落ちて、また泳いで。
そして、口が勝手に滑った。
「……あの診断は、完璧だった、はずだ……」
応接間が静かになった。
彼が自分の言葉に気づくまで、二拍。
みるみる顔から血の気が引いて、慌てて何かを言い足そうと口を開いて——もう、出る言葉はなかった。
完璧だったはず。ええ、そうね。診断書も、お手紙も、毒の手配も、何もかも完璧だった。
たったひとつ、患者が健康だったことを除けば。
私は寝台を降りた。そして、医者の声であの日モルガン先生が私にくれたのと同じ文型をお返しした。
「ユリアン様。お労しいことですが——あなたの企ては破綻しています。進行を止める術はございません」
彼はしばらく、立ち上がれなかった。
やがて、よろめくように退出していく。その足が自分で持ってきた見舞いの花束を踏んでいった。
扉が閉まる。
「……どう見た?」
私が訊くと、ギデオンは静かに言った。
「主犯ではありません。あれは絵を描いた人間の顔じゃない。描かれた絵の隅に、自分で勝手に、小さな染みを足した——その程度の男だ」
「同感。がっかりするくらい、小物だったわね」
婚約者を用済みにしようとした男が結局、誰かの計画の用済みの駒だった。
では——その絵を、描いたのは。
私は踏まれた花束を見下ろした。
糸の端がまた一本、ぷつりと宙に残った。
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