10話:うちは、昔からそういう家だ
ユリアン様が出ていって、しばらく。
廊下の方からばたばたと、慌ただしい足音が近づいてきた。
扉が勢いよく開く。
「セレナ……!? 今、出ていかれたのは、ユリアン様……いえ、それよりあなた、起きて……起きてるの!?」
母だった。見送りに出て、放心したユリアン様とすれ違って、それで何かを察して——いえ、察するというより、混乱したまま、駆けてきたのだろう。
息を切らして、目を真ん丸にして、私を見ている。
「お母様。あのね、落ち着いて聞いて」
「だ、だって、あなた、お医者様が、もう長くないって……寝台から、起きられないって……」
「うん。それ、嘘なの」
「……うそ?」
「私、健康なの。最初からずっと。病気じゃなかったの」
母が二、三度、まばたきをした。
言葉の意味がゆっくり、染み込んでいくのが見えた。健康。最初から。病気じゃない。——その一つ一つが、母の中で並び終わったとき。
母の顔が、くしゃりと歪んだ。
「……ひどいわ」
ぽろぽろと涙がこぼれた。
「ひどいわ、ひどいわセレナ。わたし、あなたが死んでしまうと思って……毎晩、毎晩、眠れなくて……黒い、生地まで……っ」
「……お母様」
「どうして、言ってくれなかったの……!」
怒っていた。泣きながら、本気で怒っていた。
いつもの私ならここで理屈が出てくる。言えば顔に出る、顔に出れば敵に悟られる、だから——そういう、正しくて冷たい説明が。
でも、母の涙を前にすると、その理屈はぜんぶ口の中で溶けてしまった。
正しさで、この涙は拭えない。
「……ごめんなさい」
それしか、出てこなかった。
「ごめんなさい、お母様。本当に、ごめんなさい」
「っ、……ぐすっ、……だって、心配したのよ……」
「うん」
「ほんとうに、心配したのよ……」
「うん。ごめんなさい」
冷静に毒を見抜いて、死んだふりまでして、始末役を釣り上げた女が、母の前ではただ、ごめんなさいを繰り返すしかできなかった。
ひとしきり泣いて、母は、ようやく少しだけ落ち着いて。それから、はっと顔を上げた。
「……でも、待って。じゃあ、あの土気色のお顔は」
「白粉と紅よ。調合したの」
「お食事を、三口しか食べなかったのは」
「人前では、ね。夜中に、こっそり干し肉を齧ってたわ」
「干し肉……」
母が、ぽかんとした。
「……わたしの作ったお食事を、三口で残して……夜中に、干し肉を……」
「……あの、お母様。それは、その、作戦上やむを得ず」
「ひどいわ!」
今度はさっきと違う「ひどいわ」だった。涙は引っ込んで、頬がふくらんでいる。
「だって、しょうがないでしょう。言ったらお母様、絶対お顔に出るもの。演技ができなくなっちゃう」
「……そう、だけど」
母は口をとがらせた。
「そうだけど……でも……わたしだって、やればできたかもしれないわ」
(できないわ、お母様。あなた先週も誕生日プレゼントの隠し場所を自分で忘れていたもの)
そう思ったけれど、今日は言わないでおいた。すねている母は、ちょっと可愛かったので。
*
騒ぎを聞きつけて、父も入ってきた。
事情はすでに飲み込んでいる父は、泣きはらした母の背を不器用にさすった。それから、一つ、咳払いをして。
「……ハンナのことだが」
ああ。その話。
あの夜、裏口の閂を外した侍女。母付きで、私の部屋の栞を、雇い主に報せていた娘。取り調べのあと、彼女の処分が、決まっていた。
「領地の北の、修道院へ送る。それで、手は打った」
「……北の修道院。ずいぶん、遠いのね」
「遠い。だが、牢ではない」
父は、少し言葉を探した。
「あれにも、事情があった。弟が、長く病でな。その薬代のために、金に転んだ。……愚かだが、わからん話でもない」
(弟の薬代)
駒は使い潰される前に、切り離される。ハンナが仕えていたのは、そういう雇い主だった。彼女自身もまた、誰かの計画の安く買い叩かれた駒だったのだ。
「お父様。その弟さんの薬代は」
「……手配した。医者を、な」
父は私と目を合わせずに言った。さすった手を止めて、窓の外なんかを見ている。
「裏切った侍女の弟の薬代を、お父様が?」
「……うちは昔から、そういう家だ」
甘いと言う人も、いるでしょうね。
でも、私はこの家風が嫌いじゃない。むしろ——前世も含めて、いちばん帰りたかった場所の温度かもしれない。
「ありがとう、お父様」
父は何も言わず、窓の外を見たままだった。耳が少し赤かった。
*
話が一段落して、母がふと、思い出したように言った。
「そういえば、セレナ。あの軍医の先生……ギデオン様、とおっしゃったかしら」
どきり、とした。
「……ええ。それが、何か」
「立派な方ねえ。あなたを、ずっと診てくださって。お父様から伺ったわ、あの晩、あなたを守ってくださったって」
「お仕事よ、お母様。お医者様だもの」
「あら。お仕事で、あんなに必死になってくださるかしら」
母が涙のあとも乾かぬ顔で、にっこりと笑った。さっきまで泣いていた人とは思えない、いい笑顔だった。
「ねえ、あなた。今度、改めてお礼にお招きしましょうよ。ゆっくり、お食事でも」
「いいな」
父まで頷いた。
「あの男は信用できる」
(待って。なんで二人とも、そんなに乗り気なの)
「お、お礼なら、もう十分に——」
「セレナ。あなた、あの先生のこと、名前で呼んでいたそうじゃないの」
……お父様。
あの晩のことを、お母様に、何を、どこまで。
「ち、違うのよ、お母様。あれは、その、共同で事に当たっていたから、効率的に呼称を——」
「効率的に」
母が楽しそうに繰り返した。
「あなたが殿方を、効率的に、お名前で」
「……っ」
言葉に詰まった。
毒の経路を解き、診断書の嘘を暴き、小物の企てを破綻させたこの私が。母のたった一言で、こうも言葉に詰まるとは。
(……おかしいわ。さっきまで、あんなに頭が回っていたのに)
前世の分まで、生き切ると決めた。お茶会も、ドレスも、美食も、恋も。「いつか」の箱に放り込んだもの、全部、今度こそ期限内に——なんて、威勢よく数えていたはずなのに。
いざ、その「恋」が、両親の口から、自分の名前と一緒に転がり出てくると。
どうしてかしら。
ちっとも余裕がないのだ。
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