7話:それ、何の調合?
宣告から三月あまりが過ぎた夜。
その晩の食卓は、湯気まで静かだった。
給仕が下がる。母が私の皿を見て、何か言いかけて、やめる。死にゆく娘との夕食に慣れる家族は、いない。最近の食卓は、いつもこうだ。口数の少ない、長い夜。
一皿目はいつも通り。匙の先を、ちょんと舌に。
【肝臓——異物の代謝。中等】
(——鳴った)
ふた月あまり、無音だった検査が鳴った。
(舌先の一滴。いつもなら検知の下をくぐる量よ。それが今夜は、一滴で中等)
(濃さが、桁で違う。この一皿、まともに飲んだら——止まるわね。心臓が)
予定では私の余命はまだ三月近く残っているはず。それをこんなに前倒しで。栞は効いたんだ。指先が黒くなる前にと、誰かが急いだ。
ごめんなさいね、急がせて。あなたたちの大事な診断書に傷がつく前に終わらせたいものね。
それに——皿が下げられたら、この致死量ごと洗い流されてしまう。証拠は卓の上にあるうちに。
私は匙を置いた。胸元の布を、掴む。
「……お母、様」
声は小さく、掠れさせて。
「セレナ?」
「むね、が——」
椅子から崩れた。膝から落ちると痛いので、肘掛けに体重を逃がしながら。左胸を押さえ、呼吸は浅く、短く。床は間近で見ると埃ひとつなくて、うちの使用人は優秀だと思った。
母の悲鳴。父の怒号。駆ける足音。誰かが「先生を! 離れの先生をお呼びして!」と叫んでいる。
そう。呼んで。今夜のために泊まり込ませてある、私の主治医を。
*
駆けつけた彼の仕事は、完璧だった。
脈を取り、瞳孔を覗き、低い声で「今夜が山です」と告げる。母がその場に崩れるのが、薄目の視界の端に映った。
(……ごめんなさい、お母様。朝には全部、謝るから)
「皿には、誰も触れないように。死因の特定に要ります。——全て、このままで」
卓上の皿が彼の手で封じられていく。私の一皿目は、ほぼ手つかずのまま。致死量が丸ごと、物証になった。
私は寝室へ運ばれた。彼の指示で、人払い。蝋燭は、一本だけ。
部屋に残ったのは、三人。
寝台の私。そして——廊下に通じる扉の手前で、父が低く声をかけた。
「ギデオン殿、と言ったな」
今夜初めて父はこの男と言葉を交わす。娘が名で呼ぶ軍医と。
「娘を、頼む。……私は、隣の部屋にいる。何かあれば、すぐに」
「お預かりします」
短い答えだった。けれど、父はその二つ折りの言葉に、たしかに頷いた。
父が従者を連れて続き部屋へ下がる。扉は、細く開けたまま。
ギデオンは、寝台の脇の衝立の陰へ音もなく身を寄せた。蝋燭の灯が届かない、ちょうどの位置。
配置は整った。
あとは、布団の中で、死にかけているふりをするだけ。
*
布団の中で、私は死にかけていた。
呼吸は浅く長く、顔には今朝より濃い青。役作りは、本職の監修付き。
体の内側では、舌先の一滴ぶんの「中等」が、ゆっくり下がっていくのを待っている。微量とはいえ、本物の毒。芝居の裏側で、本物の時間が流れている。
「……来ると思う?」
囁くと衝立の陰から、囁きが返った。
「来ます。雇い主への報告には、死亡の確認が要る。伝聞では、金が出ない」
「詳しいのね、悪事に」
「軍の医務にいると、人間の底を見る機会には、事欠きませんでした」
それきり、二人とも黙った。
来るのは、ハンナのはず。息を確かめて、報せに走る。震える小娘の役目なんて、その程度——私たちはそう読んでいた。
蝋燭が三分の一になった頃、扉が軋まずに開いた。
軋まないように、開けられた。
薄目に映った輪郭に、私は呼吸の芝居を、一拍忘れかけた。
(——誰)
知らない男だった。
使用人のお仕着せを着ている。でも、うちの人間じゃない。屋敷の顔ぶれは、この三月で配膳の並び順まで頭に入っている。その中にこの背格好は、ない。
(ハンナじゃない。話が、違う)
心臓が、芝居じゃなく跳ねた。
落ち着け。何者であれ、枕元に来た以上、することはひとつ。
男は足音もなく枕元へ来た。手際が違う。覗き込む目に、震えはない。呼吸も乱れていない。仕事の目だった。
男の手が、懐から平たい革の道具入れを出した。開く。並んだ小瓶。迷いなく、その一本に、指がかかる。抜き取り、栓を抜く。
(飲ませる気ね。死に損ないへの、追加の処方)
男が私の頭の脇に、ひざをついた。瓶の口が、私の唇へ、近づいてくる。
悪いけど。
処方箋を書くのは、こっちなのよ。
瓶の口が唇に触れる、その瞬間。
私は、目を開けた。
「それ、何の調合?」
死人が、口をきいた。
男の指が瓶の上で凍りついた。
完璧だった手際が、初めて、止まる。蝋燭の炎がひとつ、揺れた。
その一瞬の隙は、国境で修羅場をくぐってきた者には、十分すぎた。
「動くな」
衝立の陰から出たギデオンが、男の腕を背中へ極める。同時に、続き部屋の扉が開いて、灯りと一緒に、父と屈強な従者が二人。
「——貴様か」
父の声が、唸った。
娘を殺しに来た男が、目の前にいる。あの静かな本気が、一息に振り切れた。父が一歩、踏み込む。その手は、もう拳になっている。
「ギデオン殿!」
「侯爵様。——この男は生きていなければ、糸口になりません」
ギデオンの声が、低く鋭く割って入った。
「殴るのは、口を割らせた後で。いくらでも、お付き合いします」
父の拳が空中で止まった。荒い息のまま、しばらく男を睨んで、それからゆっくりと拳を解いた。
「……そうだな。すまん」
短い詫びだった。けれど、娘の前でもう一度自分を律したその横顔は、診察室で取り乱したあの夜より、ずっと父親らしかった。
男は暴れなかった。状況を数えて、即座に諦めた。最後まで、仕事の目のまま。
私は寝台に身を起こし、男の道具入れを取り上げて、蝋燭の灯りに小瓶を透かした。
ギデオンが私の手元を覗いて、低く言った。
「……スープのものとは、調合が違う。こちらは精製が深い。——素人の手配じゃ、ありませんね」
「ええ」
誰の手配かはこの男は吐かないでしょうね。そういう顔だもの。
でも、いいの。糸口なら、もう一本ある。
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