6話:あとは敵が、踏むのを待つだけ
それから私は、丁寧に死んでいった。
白粉をやめ、頬に薄く青を仕込み、紅を一段沈ませる。ドレスは詰めずに、あえて緩く。痩せた、と人の目が勝手に補ってくれる。食事は人前で三口。給仕が泣くので、二口目をことさら長く噛んだ。
毒の皿には、口をつけたふりだけ。検査の舌先一滴は、毎食欠かさず。同僚は、鳴らない。鳴らないことを毎晩確かめて、夜中に毛布の中で、彼の手配した干し肉を齧る。
これがね、悔しいことに、悪くないのよ。死にゆく令嬢の夜食にしては快活すぎる音がするので、毛布は必須だけれど。
*
ひと月もすると、社交界が私を殺し始めた。
いわく、アルディスの令嬢はもう寝台から起きられない——起きてます。
いわく、お顔の色が土気色——青よ。調合を間違えないで。
いわく、元婚約者のユリアン様は、健気にもお見舞いの品を絶やさない——ええ、来たわ。美しい砂糖菓子が。
同僚は、その菓子に沈黙した。
(あら。綺麗なものね)
(婚約を白紙にした相手からの見舞いで死なれたら、真っ先に疑われる。だから毒は入れない。——わかっている人の、贈り物の顔ね)
手はつけず、けれど捨てもせず、飾っておいた。見舞いの品を粗末にする病人は、不自然だもの。
*
医学書は、よく働いた。
寝台の脇に置いて、毎日読む。死を悟った令嬢が、自分の病を調べる。絵としては満点だし、実際わりと面白い本だった。彼が書き足した頁には、几帳面な字でこうある。
『末期に至りて、指先より黒変す。黒変の現れたる後は、半月を保たず』
その頁に栞を挟み、読んだ形跡を重ね、指先を眺めて溜息をつく。部屋に人の気配があるときだけ、念入りに。
ハンナは週に三度、私の部屋の掃除に入る。
栞の位置が、二度、わずかに動いていた。
(読んでるわね)
(いいのよ。ちゃんと、雇い主に報せなさい)
*
ただ、演じていて一つだけ、背筋の冷えることがあった。
ある昼下がり、半開きの扉の向こうから、母の声が漏れ聞こえた。
「……その、黒いレースは、まだ。まだ、いらないわ」
仕立屋を相手にしているらしかった。声が泣きそうに震えている。
「でも、その、万が一のときに、急いで仕立てたのでは、あの子が可哀想だから。……もしものときのために、生地だけ、見ておくだけ」
急いでもいない。ただ、動けなくなった手を、どうしていいかわからない。そんな声だった。
(……お母様)
私の死は、まだ一歩も進んでいないのに。周りでは、その次の支度が、もう静かに始まっている。
社交界の噂は、笑って聴かせた。けれど、これは笑えない。演技をやめて「元気よ」と駆け込めば、一瞬で楽にさせてあげられる。でも、そうはいかない。
(……もう少しだけ、待っていて。全部終わらせたら、黒いレースなんて、燃やしてしまいましょうね)
そっと、扉の前を離れた。聴いてしまったと知られる方が、母を傷つける。
*
季節がすっかり秋になった頃、医務局通いをやめた。歩けない、という設定になったからだ。代わりに、彼が来る。週に二度の往診。父が頭を下げて頼んだ形になっているが、頼まれる側の手筈を整えたのは、私たちだ。
「容態は」
「順調に悪化中よ。社交界では、先月から寝たきりなの」
「実際の数値を聞いています」
「健康。同僚は静か。……ねえ、夜食の干し肉、もう少し塩気の薄いものにできない?」
「できます」
彼は脈を取りながら、ほんの少しだけ、口の端を動かした。
「——カルテに書けない診察だ」
冗談を言ったのね、この人。脈を測る指は、それでも、いつも正確に30秒だった。
*
ただ一つだけ、どうしても人手の要ることがあった。
仕上げの晩には、家の中に、信じられる腕が要る。それも、本当のことを打ち明けて、それでも動じない腕が。
選ぶ余地は、なかった。
ある夜、人払いをした書斎で、私は父と向き合った。
叱られるかもしれない。止められるかもしれない。そう身構えながら、口を開いた。
「お父様。落ち着いて聞いてね。——あの診断は、嘘なの。私は、病なんかじゃない。なぜそう言い切れるかというと」
「健康なのか」
話の途中だった。理屈を、父が食い気味に折った。
「……ええ。とびきりに」
「そうか」
その一言で、父の体から、あらゆる力が抜けていくのが見えた。病名も、証拠も、これからどうするかも、何ひとつ訊かないまま。ちゃんと順番に説明するつもりだったことを、この人は全部飛ばして、ただ「娘が生きている」という一点だけを掴み取った。
(……あら)
拍子抜けしたのは、私の方だった。叱責も、追及も、もっともな計画の説明も、全部不要だった。この人にはただ、娘が生きていることが、何よりも先だったのだ。
「だとすれば——ああ、母さんに。母さんに、すぐ知らせてやらねば」
父が、椅子から腰を浮かせた。妻の涙を、一刻も早く止めてやりたい。それだけの顔だった。
「待って、お父様」
私は、その袖をつかんだ。
「お母様には、まだ言わないで。……お母様は、優しすぎるの。きっと、顔に出てしまうから」
父は、半身を浮かせたまま動きを止めた。それから、ゆっくりと椅子に座り直す。腰を下ろすまでに、難しいものをひとつ飲み下した顔をしていた。
そうよ。この話は、そういう話なの。
「食卓に、毒が盛られているの。それも、少しずつ、長い時間をかけて。私はそれを知った上で、毒を避けながら、弱ったふりをしている。——そして近いうち、その『仕上げ』のための者が、この屋敷に忍び込んでくる」
父は、長いこと黙っていた。
掌を見つめて、何かをこらえるように、テーブルの上で両手を組んだ。それから、低い声で言った。
「誰を、何人、屋敷に入れればいい」
怒ってはいなかった。ただ、冷たく、静かだった。あの診察室で、不敬を承知で侍医に楯突こうとしたとき——あれと同じ温度。いや、あれより、もっと低い。
(……ああ。この人、本気だわ)
月の雫に飛びついて、見栄えのいい名医に頭を下げようとした、あの空回りの人が。娘の敵を、静かに、本気で、数え始めている。
「お父様は、その夜、ちゃんと生きて、ギデオンを私の部屋へ通してくださるだけでいいの。あとは、私たちがやるわ」
「ギデオン、というのは。その、軍医か」
「ええ。信用していい人よ」
父は、それ以上は訊かなかった。
未婚の娘が、見ず知らずの軍医を名前で呼ぶ。その意味に、この人はきっと気づいていた。けれど、今は言わない。娘を生かすことが先だと、そういう顔をしていた。
この人にだけは、打ち明けておいて良かった。
お母様には、言えない。
(ごめんなさい、お母様。あなたに黙っているのが、いちばん、胸が痛むの)
あなたは優しすぎて、きっと芝居を顔に出してしまう。だから、全部終わってから、謝るわ。何十回でも。
*
罠は、仕掛け終えた。
毒の経路。演じる病。崩れない診断書を崩すための、最終段階。栞は動き、噂は育ち、医者は通い、父は腹をくくった。盤面は、もう私の手の中にある。
あとは敵が——自分の都合で、踏むのを待つだけ。
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