4話:暴食を叱られた
三日目の夜に、来た。
その晩の食卓は、いつもより少しだけ豪勢だった。
キジ肉のローストは皮がぱりりと飴色に焼けて、肉汁が皿に小さな池を作っている。豆のスープは、とろりと白く濁って立ちのぼる湯気が甘い。付け合わせの根菜は照りが出るまでバターで炒められ、焼きたてのパンの匂いが、部屋の隅々まで満ちていた。
(……お母様、また私の皿だけ品数が多いわ)
死にゆく娘に、せめて美味しいものを。母の愛は、いつも量で表現される。泣きながら厨房に立ったに違いない母を思うと、一口残らず平らげてあげたくなる。
なるのだけれど。
まずはスープから。匙を、ひとさじ。
豆の甘み。バターのコク。塩は控えめで、上品。ああ、美味しい。厨房の腕は、今日も確かね。
ふたさじ目。
……みさじ目を、口に運ぼうとした、そのとき。
視界の端が、灯った。
【肝臓——異物の代謝。軽微】
匙が、止まりかけた。
(——来た)
止まりかけるのを意志の力で動かし続けた。何でもない顔。何でもない手つき。三さじ目は、飲むふりをして、そっと皿へ戻す。
(異物。健康な18の娘の肝臓が、夕食どきにわざわざ処理するもの)
(薬は飲んでない。お酒もまだ。なら——盛られた、と考えるのが、いちばん早い)
「セレナ? お口に合わない?」
母が、心配そうに身を乗り出した。
「ううん、美味しい。少し胸がつかえるだけ」
嘘は言っていない。つかえているのは胸というか、感情だけれど。
さあ、落ち着いて。考えるのは犯人じゃない。まず、経路。
このスープのどこに、いつ、誰の手で。
——確かめる方法は、ひとつしかないわね。
「お母様。このスープ、本当に美味しいわ。お代わりをいただける?」
「まあ……! ええ、ええ、いっぱい召し上がれ」
母が、ぱっと顔を輝かせた。お代わりは鍋から直接よそわれ、誰の手も寄り道せずに私の前へ来た。
一匙。二匙。三匙。
——同僚は、黙っている。
(鳴らない。けど、これだけじゃ「鍋は無事」とは言い切れないわ)
(たった今、一杯目で異物を検知したばかり。蓄積した分が消えないうちに二杯目を重ねたなら、表示はもっと濃くなっていいはず。それが増えない。つまり——この二杯目には、おそらく、何も入っていない)
(おそらく、よ。確証じゃない。同じ鍋から、同じ匙で。なのに片方だけ毒、ということは——盛られたのは、鍋でも料理でもなく、最初に私の前へ運ばれた、あの一杯)
(配膳の、最後のひと工程。そこに、誰かの手が入ってる)
もっとも、それも「おそらく」の話。
(いっそ、お父様とお母様の身体を覗ければ早いのにね)
(同じ食卓を囲んで、同じ料理を食べている二人。あの人たちの肝臓が静かなら、毒は全員の皿じゃなくて、私の一杯だけに入っている——そう、一発で裏が取れるのに)
(でも、私の力が報せてくれるのは、私の身体だけ。他人の中までは、覗けない。……ないものねだりね。自分の心臓の音さえ、他人には聴かせられないのだから)
では、スープ以外は?
キジ肉は。付け合わせは。パンは。今夜の毒がスープ一杯きりだという保証は、どこにもない。
……確かめる方法は、やっぱり、ひとつしかないじゃない。
食べた。
まずはキジ肉のロースト。皮の焦げたところが、香ばしい。肉汁がじゅわりと滲んでしっかりした肉なのに、口の中でほどけていく。
(……うん。同僚は黙ってる。これも、綺麗ね)
よし。安全確認。次。
付け合わせの根菜を、ひと口。甘くて、ほろりと崩れて、バターの香りが鼻へ抜けていく。
(——あら、これ、思った以上)
根菜の甘みを追いかけるようにパンをちぎる。バターをたっぷり。焼きたては、外がぱりっとして、中がふわりと湯気を立てる。
(うん。安全。……もう一つ、確かめておきましょう。これは検証よ。そう、検証だから食べないといけないの)
気づけば、もう一つ、パンに手が伸びていた。
木苺の焼き菓子は、酸味と甘みがちょうどよくて思わず頬がゆるんだ。さくほろの生地が、口の中で溶けていく。最後のひとかけを、名残惜しく舌の上で転がす。
同僚は、どの皿にも、沈黙を守ってくれた。優しい同僚は、暴食を見逃してくれるらしい。
「セレナ、あなた……」
母が、口元を押さえていた。泣き笑いの顔だった。
「食欲が、あるのね……よかった……よかったわ……」
「ええ。今夜はなんだか、いただける気がするの」
ごめんなさい、お母様。そして、ごちそうさま。
焼き菓子の最後のひとかけを飲み込んだとき——視界の端が、また灯った。
【胃——過負荷】
(——!?)
一瞬、本気で背筋が凍った。まさか、別の皿にも——
……いえ。違う。違うわね、これ。
(食べすぎよ、ただの)
毒を検知する力に、暴食を叱られた、18の秋。同僚、あなた、本当にそういうところよ。
でも、収穫はあった。主菜も、付け合わせも、菓子も、綺麗。今夜の仕込みは、最初の一杯のスープ、それだけ。
私はお茶を一口飲んで、こっそり胃のあたりを撫でた。
給仕は、いつもの二人。けれど今夜は、母付きの侍女のハンナが珍しく配膳を手伝っていた。
(……珍しく?)
いえ。決めつけない。観察はしても、断定は証拠が出てから。
診断を急ぐ医者から、患者は死ぬのよ。
この食卓のどこかに、私の死を運ぶ手がある。
明日からは——その手の数を、ひとつずつ数えていきましょう。
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