第11話 檻の外へ
八月三十日 午後一時二十分 北海道・某市営動物園
「…どうなってる…」
砂川は目の前の状況を受け入れられなかった。
確実に急所を射抜いたはず。
それなのに、目の前の象たちは立ち上がっている。
いちばん奥にいた、あの一頭が、
よろめきながら、柵へ向かってくる。
膝を、つきかけては、立て直し。
一歩、また、一歩。
足裏が床を打つたび、
低い振動が、こちらの足の裏まで、伝わってくる。
その目は、まっすぐに、
三上だけを、見ていた。
柵の前で、長い鼻が、力なく揺れた。
低い声が、漏れる。
あの日、園長の肩を、撫でた声だった。
耐えきれず、三上が、駆け出した。
「園長さん――」
宮下の手は、届かなかった。
「………おい!!」
我に返った砂川の声が、飛んだ。
その時既に、三上は、柵に、取り付いていた。
格子の間から、鼻が、伸びてくる。
あの日と同じように。
優しく、伸ばされたかのように、見えた。
だが、それは違った。
◇
ヒュンッ!
――と、風を裂く音がした。
次の瞬間、
三上の体が、宙を飛んだ。
人の体が、あんなふうに飛ぶのを、
本間は、初めて見た。
受け止めようとした真壁を、巻き込んで、
二人は、壁に叩きつけられ、
床に落ちて、動かなくなった。
◇
「……くっ!」
宮下は、銃を、構えた。
「撃つな!」
砂川の声が、飛んだ。
「そんな位置から連射して、柵に当たったらどうする!
跳ね返って、こっちに来るぞ!」
宮下の指が、引き金の上で、止まった。
◇
砂川は、ボルトを引きながら、
象たちには決して背を向けずに、
柵と、壁際の二人との間に、立つ。
薬室が閉じる、重い音。
「あんたは、二人を見ろ」
「……はい」
◇
壁際で、二人は、折り重なるように倒れていた。
上になった真壁の腕を、宮下が引く。
三上の体の上から、ずらすように、床へ下ろした。
鉄帽が、ごとりと転がった。
顎紐が、外れていた。
「三曹、…三曹!」
呼吸は、ある。
浅いが、ある。
頭に、血は、無い。
だが、目を開けない。
首から下が、力なく、床に伸びていた。
◇
下になっていた三上は、動かなかった。
こめかみの辺りから、血が、床へ流れている。
宮下は、装備品から個人携行救急品を取り出して、その場で手当を始めた。
◇
「園長さん! 園長さん!!」
本間が、駆け寄って、三上の肩を揺すった。
その手つきには、何の心得もなかった。
ただ、呼んでいた。
「……本間さん」
三上の頭部に応急包帯を巻きながら、
宮下が、低い声で言った。
「落ち着きましょう…揺すらないでください」
「あっ……す、すみません…」
本間は慌てて手を引っ込めると、膝をついたまま黙ってその様子を見ているしかなかった。
暗緑色の包帯にじわじわと血が滲み、黒く染まっていった。
◇
砂川は、銃を構えたまま、柵の向こうを見ていた。
五頭が、立っている。
血の止まった、五頭が。
――引くか。
半矢を、五つ。
置いて。
他の獣なら、まだいい。
檻に鍵をかけて、放っておけば、いずれ飢えて死ぬ。
むごい話だが、そういう手も、ある。
だが、これは違う。
もし、手負いの象が脱走したら、どうなるか。
五十年、それだけは、やってはならんと教わってきた。
やった者が、どうなったかも、見てきた。
砂川は、スコープに、目を寄せた。
◇
十字の中に、灰色が入る。
――入った、その瞬間だった。
象の体が、ずれた。
太い鉄柵の、柱の後ろへ。
ぬっ、と。
半分だけ、隠れる。
砂川は、銃口を、下げなかった。
少し、右へ振る。
象も、動いた。
柱の陰に、留まったまま。
ぎこちない。
だが、確かに、こちらの銃口を、見ている。
◇
「……なんだ、これは…」
砂川の口から、声が漏れた。
柱の陰から、鼻だけが、伸びてくる。
こちらへ向かって、ゆっくりと。
別の一頭が、柵に、体を当てた。
ドンッ!、と。
鉄が、鳴った。
もう一頭が、柵の下の隙間に、前脚を差し込んでいる。
何度も、何度も。
さっきまで、干し草の前で静かに耳を動かしていた、あの五頭が。
◇
「砂川さん」
応急処置を終えた宮下が、三上の傍らから言った。
「ここは一旦、引きましょう。怪我人の搬送が先です」
砂川は、答えなかった。
「象たちも、立ち上がったとはいえ……急所には、当たってるんですよね?
なら、ひとまず体制を整えるべきです。
中隊長からも、何かあったらそうしろと、指示が出ています。
すぐに連絡して、重装備の一個小隊を派遣してもらえるように――」
「そいつらが来るまで、どれくらいかかるってんだ」
宮下の口が、止まった。
「……それは……恐らく、一時間以内には……」
「無理だ。間に合わん」
砂川は、スコープから目を離さなかった。
「待ってるうちに、太陽フレアが来る。
それに、ただでさえ避難やら獣害対応やらで、人手が足りてねえはずだろ」
「……それは……」
宮下は、それ以上、言えなかった。
ドンッ! と。
また、柵が鳴った。
◇
「…弾はまだ残ってるな?」
「……はい、自分のはまだ満タンです」
「儂のは、十六だ」
砂川は、ようやく、スコープから顔を上げた。
「……撤退はする。だが、こいつらを殺してからだ」
「砂川さん――」
「あれが脱走でもしたら…次に襲われるのは、その辺の避難所だ」
柵の向こうで、鼻が、伸びている。
隙間から、前脚が、差し込まれている。
「手前の二頭からやる。
あんたはなるべく足を狙え。
動きが鈍ったところを、儂が、止めを刺す」
宮下は、真壁の顔を、一度見た。
それから、銃を、構えた。
◇
二挺の銃口が、柵へ向いた、その時だった。
象が、叫んだ。
◇
五頭が、いっせいに、走り出した。
ズン、ズン、と。
床が、跳ねた。
天窓から落ちる光の帯を、灰色の巨体が、次々に横切っていく。
光。影。光。影。
「ど、どれから狙えば…!?」
「――こうなったらどれでもいい! 撃て!!」
小銃が、火を噴いた。
当たっている。
確かに、当たっている。
止まらない。
◇
砂川は、スコープの中を、追った。
追いつかない。
いくら被弾しようと、動きが鈍らない。
巨体は、思っていたよりも、ずっと速かった。
砂川が撃つ。
当たる。
だが、急所ではない。
走り続ける灰色の、どこか。
もう一発。
また、どこか。
◇
象たちは、走り回っていた。
最初は、ばらばらに。
柵へ。壁へ。
また柵へ。
だが。
◇
いつの間にか。
五頭の軌跡が、重なっていた。
広い放飼場を、大きく、円を描いて。
同じ方向に。
回っている。
◇
轟音だった。
地面が、絶え間なく、揺れていた。
砂埃が舞い上がり、天窓の光が、白く濁っていく。
その中を、五つの巨体が、回り続けている。
宮下の指が、引き金から、離れていた。
「…なんなんだ…これ…」
本間は、声も出せずに、震えながら床に伏せていた。
◇
その円の、いちばん外側が。
壁に、触れた。
ドウ!、と。
建物が、揺れた。
天井から、細かい埃が、降ってきた。
◇
象が、止まった。
一頭が、頭を、壁に押し当てている。
鉄柵とは、違う。
押した分だけ、向こうへ、動く。
◇
そこから先は、早かった。
一頭が、また同じ場所に、当たった。
もう一頭が、続いた。
回りながら。
何度も。
何度も。
同じ場所へ。
ドウ!
ドウ!
ドウ!!
◇
「――まずい!」
砂川が、言った。
「こいつら…まさか壁を!?」
宮下もすぐに察した。
「このままじゃ壁が持たんぞ!」
宮下が、弾倉を、叩き込む。
だが、その手が、途中で止まった。
もう、狙う意味が、なかった。
◇
轟音と、白い煙。
象舎の奥の壁が、内側から、崩れ落ちた。
鉄骨がねじれ、ブロックが割れ、
白い光が、一気に、差し込んだ。
◇
「本間さん! 外の様子は?!」
宮下が、銃を構えたまま言った。
「えっ?! ……あぁ、はい!」
本間が、象舎の出入り口へ、恐る恐る近づいていく。
扉を細く開けて、外を覗いた。
象舎の外壁が、そこから見渡せる。
崩れているところは、無い。
穴も、無い。
本間は、扉の隙間と、崩落した壁の方とを、何度も見比べた。
膝の上で何度も広げた、あの図面を思い出す。
あの壁の向こうは、外ではない。
まだ、建物の中だ。
「……見えません……いや」
その声が、途中で止まった。
崩れた壁の穴の、向こう。
土煙の奥で、大きな影が、動いていた。
「……たぶん、います。まだ…この建物の中に」
外へは、出ていない。
──まだ。
◇
砂川は、柵の脇の扉に、目をやった。
放飼場へ通じる、飼育員用の扉。
錠前が、下りている。
鍵を持っているのは、この床に倒れている男だけだった。
砂川は、そこから、動かなかった。
「……砂川さん」
宮下が言った。
「これ以上はもう……危険すぎます」
砂川は、しばらく、穴の向こうを見ていた。
「……あぁ」
低い声だった。
「撤退だ」
銃口が、下がった。
「急いで、ここから出るぞ」
◇
宮下は黙って頷くと、無線機に手を伸ばした。
「こちら宮下。緊急、送れ。
現在、◯◯市の動物園にて駆除任務中。
象に襲われ、負傷者二名。
一名は真壁三曹。外傷は認められませんが、意識不明。
頸椎損傷の可能性あり。
一名は園長の三上氏。頭部より出血、意識不明。
応急処置は完了。
任務を中止し、負傷者を搬送します。
……なお、駆除対象のアジアゾウ五頭、
半矢の状態で、象舎の内壁を突破。
園外への脱出は確認されていませんが、
建物内のどこかに、五頭とも所在不明です」
無線の向こうが、数秒、黙った。
『……こちら中隊本部。宮下士長、待機せよ』
「はい」
『そのまま回線を開けておけ。……確認する』
回線は、繋がったままだった。
その向こうで、誰かが誰かに何かを言っている。
途切れ途切れの、声。
内容までは、聞き取れなかった。
宮下は、無線を握ったまま、待った。
◇
それを見て、本間も、慌てて公用のスマホを取り出した。
回線は、やはりすぐには繋がらなかった。
三度目で、ようやく本庁に届いた。
「本間です! 動物園で事故です!
園長が……三上園長が、意識不明で……!」
電話の向こうで、部長が、誰かと話し始めた。
保留にもせず、受話器を手で押さえたまま。
くぐもった声が、漏れてくる。
「……象が、五頭だ。いや、まだ園の中にいるらしいが……」
「……救急に。それと警察と、あと自衛隊にも……」
「……いや、こっちから行ったって、どうにもならん。誰も撃てんのだから」
しばらく、待たされた。
◇
やがて、本間が、スマホを耳から離した。
「……あの」
一同を、順に見る。
「うちの方でも、あちこちに、当たってくれたそうです」
「まず、救急は……フル稼働で、回せる車がないと。
……自力で、救急外来まで来てくれ、と」
「警察も、同じで。余力がないそうです」
本間の目が、宮下へ向いた。
「自衛隊さんには、市の方からも要請済みで……
もう、状況は把握されていると。
ただ、今は、まだ協議中だそうで……
回答は、直接そちらの無線に伝える、と」
それから、砂川を見た。
「猟友会さんには、こちらから何度も掛けたんですが……
ずっと、話し中で。
すみません、砂川さんから、直接連絡を取っていただけないかと」
◇
「だろうな」
砂川は、柵から目を離さずに答えた。
「今日は、どこの支部も、電話は塞がってる」
それから、肩の無線機に、口を寄せた。
「砂川だ。動物園にいる。
……象だ。五頭、全部、半矢のまま壁ぶち抜きやがった。
ライフルもスラッグも効かん。
こっちは怪我人が二人。まだ象は建物ん中だ。
だが、そう長くは持たん──」
無線は、一度で、通じた。
『……ちょっと待ってろ砂川さん。今、支部長に代わる』
待つ間、砂川は、柵の向こうを見ていた。
土煙の奥で、影が、動いている。
◇
『……砂川さん』
支部長の声だった。
『……無理だべ。今から誰も行がせられねぇ。
みんな、それぞれの現場に散ってる。
戻すにも、行かせるにも、もう時間がねぇんだわ』
「……だろうな」
『……すまん。あんたが、自分で判断してくれ』
砂川は、答えなかった。
無線を、肩に戻した。
◇
残ったのは、宮下の握る、無線だけだった。
回線は、繋がったままだった。
三人が、それを見ていた。
◇
そして。
声が、戻ってきた。
『――宮下士長』
中隊長の声だった。
「はい」
『追加の派遣は、できん』
「――」
『こちらでも検討した。ヘリも、増員も、全部だ。
だが、到達まで、二時間を切っている。
今から向かわせれば、部隊が路上でフレアを迎える。
動けなくなった車両と隊員が、街道に取り残される。
それが、次の被害を生む』
宮下は、無線を握ったまま、答えられなかった。
『……分かるな』
「……はい」
『よく聞け。お前たちの任務を、変更する。
一つ。負傷者を、医療機関へ搬送すること。
二つ。園を出たら、すべての門を閉ざすこと。
一頭たりとも、外に出すな』
「……門を、閉ざす」
『それだけだ。それ以上は、するな。
駆除は中止する。象は、園の中に閉じ込めたまま、置いていけ』
◇
回線の向こうで、中隊長が、一度、息を吸うのが聞こえた。
『――宮下』
「はい」
『すまん』
「…………」
『真壁を、頼む』
◇
関係各所は、この件を、把握していた。
把握した上で、誰も、来られなかった。
◇
宮下は、真壁を背負った。
膝が、一度、笑った。
装備の分まで、重い。
本間も、三上の腕を肩に回して、立ち上がろうとする。
一度、崩れた。
二度目で、なんとか、背に乗せた。
砂川は、銃を肩に掛け、本間の脇を支えた。
一行は、象舎の扉を、出た。
◇
外は、変わっていた。
園中の獣が、激しく、鳴いていた。
近くの檻から、その隣の檻へ。
さらに、その向こうへ。
銃声と、象の声と、あの音と震動が、園の端まで届いていた。
来た時とは、まるで違う園を、一行は歩いた。
◇
虎は、もう並んで歩かなかった。
柵の際で、こちらに向かって、低く吠え続けている。
ヒグマの檻の前を通る。
さっきまで、左右に、左右に、揺れていた巨体が。
今は、金網に、正面から体を打ちつけていた。
ガン! ガン! ガン!!
宮下の膝が、また笑った。
背中の重みが、ずり落ちてくる。
◇
その時。
背後の、遠くから。
──パオォォォ!!
と。
あの声が、園に響いた。
一つでは、なかった。
◇
本間が、足を止めた。
「……あれ!」
フェンスの向こう。
木立の間を抜ける、反対側の順路。
その木々の隙間を、灰色の巨体が、横切っていった。
一頭。
続いて、もう一頭。
「外に出てる……!」
「騒ぐな! いいから歩け!」
砂川の声が、飛んだ。
◇
エントランス前の広場を、通り過ぎた。
門が、見えた。
半分だけ開いた、あの門が。
◇
その時。
背後で、けたたましい音がした。
何か大きなものが、地面に、倒された音。
一行が、振り返る。
◇
自動販売機と、ベンチの並んだ東屋。
来る時に、通り過ぎた場所だった。
自販機が一台、倒れている。
その隣で、キッチンカーが、横倒しになっていた。
飛び出した紙コップと、缶と、包装紙が、
地面に散らばって、転がっている。
象が、一頭。
その前脚が、車体の扉を、踏み抜いていた。
鼻が、器用に、車内をまさぐっている。
食べ物を、探すように。
◇
鼻の動きが、止まった。
顔が、こちらを向いた。
そして、眼が合った。
◇
「――お前らは、先に行け!!」
砂川が、銃を肩から下ろした。
「砂川さん!!」
「いいから! はやく!!」
砂川が、構える。
銃口が、向いた。
◇
象が、耳を、真横に張った。
鼻が、地面すれすれまで、下がる。
僅かに伸びた牙の先が、砂川の方を、向いていた。
老人と、象が、
向かい合ったまま、動かない。
◇
門は、半開きのままだった。
人が一人、通れるだけの幅を残して。
さっき、三上が開けたきり、誰も閉めていない。
その向こうに、二台の車が停まっている。
高機動車と、軽トラック。
どちらも、まだ誰も、乗っていない。
◇
園の中から、音が、聞こえてくる。
咆哮。唸り声。
金網を、柵を、扉を、壁を。
叩く音。揺らす音。打ちつける音。
その底を、地鳴りが、走っていく。
重い足音が、いくつも。
◇
銃声が、二発。
続けて、もう一発。
そして――
誰のものとも分からぬ、叫び声が、聞こえた。
◇
それきり、人の声は、しなくなった。
獣たちの声だけが、続いている。
◇
風向きが、変わった。
今度は、園の中から、外へ。
その風に乗って、何枚かの紙が、門の隙間から流れ出てきた。
ひらひらと舞って、門の外の、乾いた地面に落ちる。
飼育動物の、処分に関する書類だった。
いちばん下の欄に、署名がある。
園長、三上の名だった。
◇
蝉の声が、降っている。
象舎の方角から、白い土煙が、まだ、立ち上っていた。
東屋の方で、無線機が、
ざっ、ざっ、と、鳴り続けている。
応答する声は、なかった。
鴉が、一声、鳴いた。
◇
フレアの到達まで、あと、一時間ほど。




