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まだ名もない物語  作者: GERO
序章
14/45

第11話 檻の外へ




八月三十日 午後一時二十分 北海道・某市営動物園




「…どうなってる…」




砂川は目の前の状況を受け入れられなかった。




確実に急所を射抜いたはず。




それなのに、目の前の象たちは立ち上がっている。




いちばん奥にいた、あの一頭が、


よろめきながら、柵へ向かってくる。




膝を、つきかけては、立て直し。


一歩、また、一歩。




足裏が床を打つたび、


低い振動が、こちらの足の裏まで、伝わってくる。




その目は、まっすぐに、


三上だけを、見ていた。




柵の前で、長い鼻が、力なく揺れた。




低い声が、漏れる。




あの日、園長の肩を、撫でた声だった。




耐えきれず、三上が、駆け出した。




「園長さん――」




宮下の手は、届かなかった。




「………おい!!」




我に返った砂川の声が、飛んだ。




その時既に、三上は、柵に、取り付いていた。




格子の間から、鼻が、伸びてくる。




あの日と同じように。


優しく、伸ばされたかのように、見えた。




だが、それは違った。




◇




ヒュンッ!




――と、風を裂く音がした。




次の瞬間、




三上の体が、宙を飛んだ。




人の体が、あんなふうに飛ぶのを、


本間は、初めて見た。




受け止めようとした真壁を、巻き込んで、


二人は、壁に叩きつけられ、




床に落ちて、動かなくなった。




◇




「……くっ!」




宮下は、銃を、構えた。




「撃つな!」




砂川の声が、飛んだ。




「そんな位置から連射して、柵に当たったらどうする!




跳ね返って、こっちに来るぞ!」




宮下の指が、引き金の上で、止まった。




◇




砂川は、ボルトを引きながら、


象たちには決して背を向けずに、


柵と、壁際の二人との間に、立つ。




薬室が閉じる、重い音。




「あんたは、二人を見ろ」




「……はい」




◇




壁際で、二人は、折り重なるように倒れていた。




上になった真壁の腕を、宮下が引く。


三上の体の上から、ずらすように、床へ下ろした。




鉄帽が、ごとりと転がった。


顎紐が、外れていた。




「三曹、…三曹!」




呼吸は、ある。


浅いが、ある。




頭に、血は、無い。




だが、目を開けない。


首から下が、力なく、床に伸びていた。




◇




下になっていた三上は、動かなかった。




こめかみの辺りから、血が、床へ流れている。




宮下は、装備品から個人携行救急品を取り出して、その場で手当を始めた。




◇




「園長さん! 園長さん!!」




本間が、駆け寄って、三上の肩を揺すった。




その手つきには、何の心得もなかった。


ただ、呼んでいた。




「……本間さん」




三上の頭部に応急包帯を巻きながら、


宮下が、低い声で言った。




「落ち着きましょう…揺すらないでください」




「あっ……す、すみません…」




本間は慌てて手を引っ込めると、膝をついたまま黙ってその様子を見ているしかなかった。




暗緑色の包帯にじわじわと血が滲み、黒く染まっていった。




◇




砂川は、銃を構えたまま、柵の向こうを見ていた。




五頭が、立っている。


血の止まった、五頭が。




――引くか。




半矢を、五つ。


置いて。




他の獣なら、まだいい。


檻に鍵をかけて、放っておけば、いずれ飢えて死ぬ。




むごい話だが、そういう手も、ある。




だが、これは違う。




もし、手負いの象が脱走したら、どうなるか。




五十年、それだけは、やってはならんと教わってきた。


やった者が、どうなったかも、見てきた。




砂川は、スコープに、目を寄せた。




◇




十字の中に、灰色が入る。




――入った、その瞬間だった。




象の体が、ずれた。




太い鉄柵の、柱の後ろへ。




ぬっ、と。


半分だけ、隠れる。




砂川は、銃口を、下げなかった。


少し、右へ振る。




象も、動いた。


柱の陰に、留まったまま。




ぎこちない。




だが、確かに、こちらの銃口を、見ている。




◇




「……なんだ、これは…」




砂川の口から、声が漏れた。




柱の陰から、鼻だけが、伸びてくる。


こちらへ向かって、ゆっくりと。




別の一頭が、柵に、体を当てた。




ドンッ!、と。




鉄が、鳴った。




もう一頭が、柵の下の隙間に、前脚を差し込んでいる。


何度も、何度も。




さっきまで、干し草の前で静かに耳を動かしていた、あの五頭が。




◇




「砂川さん」




応急処置を終えた宮下が、三上の傍らから言った。




「ここは一旦、引きましょう。怪我人の搬送が先です」




砂川は、答えなかった。




「象たちも、立ち上がったとはいえ……急所には、当たってるんですよね?




なら、ひとまず体制を整えるべきです。


中隊長からも、何かあったらそうしろと、指示が出ています。




すぐに連絡して、重装備の一個小隊を派遣してもらえるように――」




「そいつらが来るまで、どれくらいかかるってんだ」




宮下の口が、止まった。




「……それは……恐らく、一時間以内には……」




「無理だ。間に合わん」




砂川は、スコープから目を離さなかった。




「待ってるうちに、太陽フレアが来る。




それに、ただでさえ避難やら獣害対応やらで、人手が足りてねえはずだろ」




「……それは……」




宮下は、それ以上、言えなかった。




ドンッ! と。




また、柵が鳴った。




◇




「…弾はまだ残ってるな?」




「……はい、自分のはまだ満タンです」




「儂のは、十六だ」




砂川は、ようやく、スコープから顔を上げた。




「……撤退はする。だが、こいつらを殺してからだ」




「砂川さん――」




「あれが脱走でもしたら…次に襲われるのは、その辺の避難所だ」




柵の向こうで、鼻が、伸びている。




隙間から、前脚が、差し込まれている。




「手前の二頭からやる。


あんたはなるべく足を狙え。


動きが鈍ったところを、儂が、止めを刺す」




宮下は、真壁の顔を、一度見た。




それから、銃を、構えた。




◇




二挺の銃口が、柵へ向いた、その時だった。




象が、叫んだ。




◇




五頭が、いっせいに、走り出した。




ズン、ズン、と。




床が、跳ねた。




天窓から落ちる光の帯を、灰色の巨体が、次々に横切っていく。




光。影。光。影。




「ど、どれから狙えば…!?」




「――こうなったらどれでもいい! 撃て!!」




小銃が、火を噴いた。




当たっている。




確かに、当たっている。




止まらない。




◇




砂川は、スコープの中を、追った。




追いつかない。




いくら被弾しようと、動きが鈍らない。




巨体は、思っていたよりも、ずっと速かった。




砂川が撃つ。




当たる。




だが、急所ではない。




走り続ける灰色の、どこか。




もう一発。




また、どこか。




◇




象たちは、走り回っていた。




最初は、ばらばらに。




柵へ。壁へ。


また柵へ。




だが。




◇




いつの間にか。




五頭の軌跡が、重なっていた。




広い放飼場を、大きく、円を描いて。




同じ方向に。




回っている。




◇




轟音だった。




地面が、絶え間なく、揺れていた。




砂埃が舞い上がり、天窓の光が、白く濁っていく。




その中を、五つの巨体が、回り続けている。




宮下の指が、引き金から、離れていた。




「…なんなんだ…これ…」




本間は、声も出せずに、震えながら床に伏せていた。




◇




その円の、いちばん外側が。




壁に、触れた。




ドウ!、と。




建物が、揺れた。




天井から、細かい埃が、降ってきた。




◇




象が、止まった。




一頭が、頭を、壁に押し当てている。




鉄柵とは、違う。




押した分だけ、向こうへ、動く。




◇




そこから先は、早かった。




一頭が、また同じ場所に、当たった。




もう一頭が、続いた。




回りながら。




何度も。


何度も。




同じ場所へ。




ドウ!




ドウ!




ドウ!!




◇




「――まずい!」




砂川が、言った。




「こいつら…まさか壁を!?」




宮下もすぐに察した。




「このままじゃ壁が持たんぞ!」




宮下が、弾倉を、叩き込む。




だが、その手が、途中で止まった。




もう、狙う意味が、なかった。




◇




轟音と、白い煙。




象舎の奥の壁が、内側から、崩れ落ちた。




鉄骨がねじれ、ブロックが割れ、


白い光が、一気に、差し込んだ。




◇




「本間さん! 外の様子は?!」




宮下が、銃を構えたまま言った。




「えっ?! ……あぁ、はい!」




本間が、象舎の出入り口へ、恐る恐る近づいていく。




扉を細く開けて、外を覗いた。




象舎の外壁が、そこから見渡せる。




崩れているところは、無い。


穴も、無い。




本間は、扉の隙間と、崩落した壁の方とを、何度も見比べた。




膝の上で何度も広げた、あの図面を思い出す。




あの壁の向こうは、外ではない。




まだ、建物の中だ。




「……見えません……いや」




その声が、途中で止まった。




崩れた壁の穴の、向こう。




土煙の奥で、大きな影が、動いていた。




「……たぶん、います。まだ…この建物の中に」




外へは、出ていない。




──まだ。




◇




砂川は、柵の脇の扉に、目をやった。




放飼場へ通じる、飼育員用の扉。




錠前が、下りている。




鍵を持っているのは、この床に倒れている男だけだった。




砂川は、そこから、動かなかった。




「……砂川さん」




宮下が言った。




「これ以上はもう……危険すぎます」




砂川は、しばらく、穴の向こうを見ていた。




「……あぁ」




低い声だった。




「撤退だ」




銃口が、下がった。




「急いで、ここから出るぞ」




◇




宮下は黙って頷くと、無線機に手を伸ばした。




「こちら宮下。緊急、送れ。




現在、◯◯市の動物園にて駆除任務中。


象に襲われ、負傷者二名。




一名は真壁三曹。外傷は認められませんが、意識不明。


頸椎損傷の可能性あり。




一名は園長の三上氏。頭部より出血、意識不明。


応急処置は完了。




任務を中止し、負傷者を搬送します。




……なお、駆除対象のアジアゾウ五頭、


半矢の状態で、象舎の内壁を突破。




園外への脱出は確認されていませんが、


建物内のどこかに、五頭とも所在不明です」




無線の向こうが、数秒、黙った。




『……こちら中隊本部。宮下士長、待機せよ』




「はい」




『そのまま回線を開けておけ。……確認する』




回線は、繋がったままだった。




その向こうで、誰かが誰かに何かを言っている。


途切れ途切れの、声。




内容までは、聞き取れなかった。




宮下は、無線を握ったまま、待った。




◇




それを見て、本間も、慌てて公用のスマホを取り出した。




回線は、やはりすぐには繋がらなかった。




三度目で、ようやく本庁に届いた。




「本間です! 動物園で事故です!


園長が……三上園長が、意識不明で……!」




電話の向こうで、部長が、誰かと話し始めた。




保留にもせず、受話器を手で押さえたまま。




くぐもった声が、漏れてくる。




「……象が、五頭だ。いや、まだ園の中にいるらしいが……」




「……救急に。それと警察と、あと自衛隊にも……」




「……いや、こっちから行ったって、どうにもならん。誰も撃てんのだから」




しばらく、待たされた。




◇




やがて、本間が、スマホを耳から離した。




「……あの」




一同を、順に見る。




「うちの方でも、あちこちに、当たってくれたそうです」




「まず、救急は……フル稼働で、回せる車がないと。


……自力で、救急外来まで来てくれ、と」




「警察も、同じで。余力がないそうです」




本間の目が、宮下へ向いた。




「自衛隊さんには、市の方からも要請済みで……


もう、状況は把握されていると。




ただ、今は、まだ協議中だそうで……


回答は、直接そちらの無線に伝える、と」




それから、砂川を見た。




「猟友会さんには、こちらから何度も掛けたんですが……


ずっと、話し中で。




すみません、砂川さんから、直接連絡を取っていただけないかと」




◇




「だろうな」




砂川は、柵から目を離さずに答えた。




「今日は、どこの支部も、電話は塞がってる」




それから、肩の無線機に、口を寄せた。




「砂川だ。動物園にいる。




……象だ。五頭、全部、半矢のまま壁ぶち抜きやがった。


ライフルもスラッグも効かん。




こっちは怪我人が二人。まだ象は建物ん中だ。


だが、そう長くは持たん──」




無線は、一度で、通じた。




『……ちょっと待ってろ砂川さん。今、支部長に代わる』




待つ間、砂川は、柵の向こうを見ていた。




土煙の奥で、影が、動いている。




◇




『……砂川さん』




支部長の声だった。




『……無理だべ。今から誰も行がせられねぇ。




みんな、それぞれの現場に散ってる。


戻すにも、行かせるにも、もう時間がねぇんだわ』




「……だろうな」




『……すまん。あんたが、自分で判断してくれ』




砂川は、答えなかった。




無線を、肩に戻した。




◇




残ったのは、宮下の握る、無線だけだった。




回線は、繋がったままだった。




三人が、それを見ていた。




◇




そして。




声が、戻ってきた。




『――宮下士長』




中隊長の声だった。




「はい」




『追加の派遣は、できん』




「――」




『こちらでも検討した。ヘリも、増員も、全部だ。




だが、到達まで、二時間を切っている。


今から向かわせれば、部隊が路上でフレアを迎える。




動けなくなった車両と隊員が、街道に取り残される。


それが、次の被害を生む』




宮下は、無線を握ったまま、答えられなかった。




『……分かるな』




「……はい」




『よく聞け。お前たちの任務を、変更する。




一つ。負傷者を、医療機関へ搬送すること。




二つ。園を出たら、すべての門を閉ざすこと。




一頭たりとも、外に出すな』




「……門を、閉ざす」




『それだけだ。それ以上は、するな。




駆除は中止する。象は、園の中に閉じ込めたまま、置いていけ』




◇




回線の向こうで、中隊長が、一度、息を吸うのが聞こえた。




『――宮下』




「はい」




『すまん』




「…………」




『真壁を、頼む』




◇




関係各所は、この件を、把握していた。




把握した上で、誰も、来られなかった。




◇




宮下は、真壁を背負った。




膝が、一度、笑った。


装備の分まで、重い。




本間も、三上の腕を肩に回して、立ち上がろうとする。




一度、崩れた。




二度目で、なんとか、背に乗せた。




砂川は、銃を肩に掛け、本間の脇を支えた。




一行は、象舎の扉を、出た。




◇




外は、変わっていた。




園中の獣が、激しく、鳴いていた。




近くの檻から、その隣の檻へ。


さらに、その向こうへ。




銃声と、象の声と、あの音と震動が、園の端まで届いていた。




来た時とは、まるで違う園を、一行は歩いた。




◇




虎は、もう並んで歩かなかった。




柵の際で、こちらに向かって、低く吠え続けている。




ヒグマの檻の前を通る。




さっきまで、左右に、左右に、揺れていた巨体が。




今は、金網に、正面から体を打ちつけていた。




ガン! ガン! ガン!!




宮下の膝が、また笑った。


背中の重みが、ずり落ちてくる。




◇




その時。




背後の、遠くから。




──パオォォォ!!




と。




あの声が、園に響いた。




一つでは、なかった。




◇




本間が、足を止めた。




「……あれ!」




フェンスの向こう。


木立の間を抜ける、反対側の順路。




その木々の隙間を、灰色の巨体が、横切っていった。




一頭。




続いて、もう一頭。




「外に出てる……!」




「騒ぐな! いいから歩け!」




砂川の声が、飛んだ。




◇




エントランス前の広場を、通り過ぎた。




門が、見えた。




半分だけ開いた、あの門が。




◇




その時。




背後で、けたたましい音がした。




何か大きなものが、地面に、倒された音。




一行が、振り返る。




◇




自動販売機と、ベンチの並んだ東屋。




来る時に、通り過ぎた場所だった。




自販機が一台、倒れている。




その隣で、キッチンカーが、横倒しになっていた。




飛び出した紙コップと、缶と、包装紙が、


地面に散らばって、転がっている。




象が、一頭。




その前脚が、車体の扉を、踏み抜いていた。




鼻が、器用に、車内をまさぐっている。




食べ物を、探すように。




◇




鼻の動きが、止まった。




顔が、こちらを向いた。




そして、眼が合った。




◇




「――お前らは、先に行け!!」




砂川が、銃を肩から下ろした。




「砂川さん!!」




「いいから! はやく!!」




砂川が、構える。




銃口が、向いた。




◇




象が、耳を、真横に張った。




鼻が、地面すれすれまで、下がる。




僅かに伸びた牙の先が、砂川の方を、向いていた。




老人と、象が、




向かい合ったまま、動かない。




◇




門は、半開きのままだった。




人が一人、通れるだけの幅を残して。




さっき、三上が開けたきり、誰も閉めていない。




その向こうに、二台の車が停まっている。




高機動車と、軽トラック。




どちらも、まだ誰も、乗っていない。




◇




園の中から、音が、聞こえてくる。




咆哮。唸り声。




金網を、柵を、扉を、壁を。


叩く音。揺らす音。打ちつける音。




その底を、地鳴りが、走っていく。




重い足音が、いくつも。




◇




銃声が、二発。




続けて、もう一発。




そして――




誰のものとも分からぬ、叫び声が、聞こえた。




◇




それきり、人の声は、しなくなった。




獣たちの声だけが、続いている。




◇




風向きが、変わった。




今度は、園の中から、外へ。




その風に乗って、何枚かの紙が、門の隙間から流れ出てきた。




ひらひらと舞って、門の外の、乾いた地面に落ちる。




飼育動物の、処分に関する書類だった。




いちばん下の欄に、署名がある。




園長、三上の名だった。




◇




蝉の声が、降っている。




象舎の方角から、白い土煙が、まだ、立ち上っていた。




東屋の方で、無線機が、


ざっ、ざっ、と、鳴り続けている。




応答する声は、なかった。




鴉が、一声、鳴いた。




◇




フレアの到達まで、あと、一時間ほど。


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