第12話 防衛ラインの外で
八月三十日 午前八時五十分 北海道・某市
小林裕太は、昨夜から寝ていない。
夜通し、呼ばれ続けていた。
◇
スマホのナビ通りに、車を走らせる。
国道を外れて、砂利道に入った。
防衛ラインの、外側だった。
この数年で、多くの集落に避難勧告が出ている。
何かあっても、助けに行けないからだ。
ほとんどの住民は、それに従って街へ移った。
人のいなくなった家々が、そのまま残された。
それでも、残る者はいた。
勧告に、強い拘束力はない。
出ていかないと決めた人間を、引きずり出す法律もない。
理由は、それぞれだった。
誰も、確かめには行かなかった。
◇
その日々が、昨日の朝、終わった。
電気が落ちる。柵が消える。ラインが、無くなる。
そうと知らされて、人々は、ようやく動いた。
何十年住んだ家に、鍵をかけ。
かけたところで、もう意味などないと知りながら。
それでも、かけて、出てきた。
そうするしか、なかった。
◇
両側は、畑だった。
今年、誰も手を入れていない畑だ。
人の背丈まで伸びた雑草が、風でゆっくりと波打っている。
荷台の積荷が、ゴンゴンと音を立てて跳ねだした。
砂利道では、いつもこうなる。
二人しか乗れない、荷台の長いピックアップトラックだ。
乗り心地で言えば、実家の軽トラの方が、よほどましだった。
それでも、こっちを買った。
ダッシュボードのホルダーに立てた画面に、ピンが一つ。
昨夜、通報のあった家だった。
残り、七百メートル。
前を走る消防団の車両が、速度を落とした。
裕太もブレーキを踏む。
◇
道の先に、その家が見えてきた。
門柱に、表札が出ている。
末永
敷地を、フェンスがぐるりと囲んでいた。
上端には、有刺鉄線が二段。
どう見ても、あとから足したものだった。
その隣に、畑とビニールハウス。
そちらは電気柵で囲われている。
支柱の間隔も、線の段数も、素人の仕事ではなかった。
母屋の一階は、窓という窓に板が打ち付けられていた。
色の褪せた板と、まだ新しい板が、混じっている。
必要になるたび、一枚ずつ打ってきたのだろう。
その上から、金網。
二階の窓だけが、開いていた。
そこしか、開けられないのだ。
◇
二台を、道幅いっぱいに横に並べて停めた。
裕太は窓を下げた。
隣の車両でも、克俊が窓を開けている。
エンジンは、切らない。
まずは、この距離から見る。
畑。ハウス。車庫。母屋。塀の陰。
それから、林の縁まで。
「──おおい! こっちだ! こっちぃ!」
二階の窓から、老人が身を乗り出していた。
両手を、大きく振っている。
「大丈夫かー! 怪我ぁ、ねぇかー!」
克俊が、窓から顔を出して怒鳴り返した。
「ねぇ! ねぇけども、下りらんねぇんだわ!」
「何頭いる!」
「五頭! 車庫だ、車庫の中さいる!」
◇
「裕太、見えるか」
「見えます」
門越しに、敷地の奥が見えた。
屋根だけの、車庫。
その奥に、収穫した野菜のコンテナが積み上げられている。
その手前で、蝦夷鹿が五頭。
雌が四頭と、角のある雄が一頭。
コンテナに顔を突っ込んで、食っていた。
車のエンジン音がしても、顔を上げただけだった。
こちらを見て、また、下げる。
それだけだった。
◇
「……相変わらず、逃げねぇな」
克俊が、低く言った。
「逃げませんね」
裕太は、雄の角を見ていた。
まだ袋角だ。
表面に、うぶ毛のような皮が残っている。
この時期なら、それでいい。
だが。
雌を、四頭。
雄が雌を囲うのは、秋のはずだった。
発情期に入って、角が固まってからの話だ。
今は、八月の末である。
本来なら、雄は雄同士でいるか、一頭でいる時期だった。
裕太は、それ以上は考えなかった。
考えている時間は、ない。
「──行きます。皆さんは、そのままでいてください」
「おう。気ぃつけろよ」
◇
ドアを開けて、外に出た。
荷台から、銃を取る。
上下二連の、中折れ式。
実包を、二発。
カシャン、と閉じて、車の前へ回った。
背後を、確認する。
畑。その先には、人のいない家。
人のいる方角では、ない。
ボンネットに肘を置いて、銃を載せた。
車が、そのまま台になる。
肩に当てて、頬をつける。
息を、半分だけ吐いた。
◇
その時。
雄が、頭を上げた。
こちらを、見た。
雌のうち二頭も、口を止める。
顔を、向けてくる。
「ピィッ」
雌の一頭が、鋭く鳴いた。
逃げようとする姿勢では、なかった。
「ピィッ、ピィッ」
雄が、一歩、前に出る。
首を、下げた。
角を、こちらへ向けた。
◇
「……裕太」
克俊の声が、後ろでした。
裕太は、答えなかった。
答える必要も、なかった。
雄が、地面を蹴った。
車庫を飛び出して、まっすぐ、走ってくる。
門まで、二十メートル。
十五。
十。
バーンッ。
◇
前脚が折れて、砂利に突っ込んだ。
その勢いのまま、二メートルほど滑って、止まる。
「ピイイッ」
甲高い声が、四方から上がった。
裕太は、銃口を動かした。
次。
残り四頭のうち、一番手前にいた雌へ、照準を送る。
だが、そこにはもう、いなかった。
「ピィッ」
「ピイッ」
四頭が、車庫から飛び出していく。
畑を突っ切り、電気柵のたわんだ所を飛び越えて、林の縁へ。
草を鳴らす音が、遠ざかった。
数秒で、見えなくなる。
あとには、蝉の声だけが残った。
◇
裕太は、銃を構えたまま、林の縁を見ていた。
三十秒ほど、そうしていた。
戻っては、こない。
銃を下ろし、銃身を折った。
カシャン、と薬莢が跳ねて、足元の砂利に落ちる。
ポーチから実包を抜いて、込め直す。
バチン。
車には、逃げない。
人の声にも、逃げない。
それでも、銃声にだけは、まだ逃げる。
だから、一頭撃って、あとは散る。
そして、しばらくすれば、また別の家の庭にいる。
昨夜から、ずっと、その繰り返しだった。
◇
「──いいですよ」
裕太が手を上げると、隣の車両のドアが、一斉に開いた。
克俊と、若い団員が三人。
それぞれ、透明の盾と、刺股を手にしている。
どこの学校にもあるような、不審者対策の備品だった。
鹿に効くとは、誰も思っていない。
それでも、素手よりは、ましだった。
「おーい! 爺さん! 開けられるかー!」
克俊が、二階に向かって怒鳴った。
「今、下りるわ!」
◇
窓が閉まって、しばらく、何も起きなかった。
家の中で、何かをどける音がする。
重い音だった。
それが、一つ。
それから、もう一つ。
鍵の回る音。
ようやく、玄関の戸が開いた。
◇
老人が、出てきた。
物干し竿を、一本、握ったまま。
突っかい棒にしていたのだろう。
七十は過ぎている。
作業着の上から、厚手の前掛けのようなものを巻いていた。
自分で縫ったものらしかった。
老人は、そのまま門まで歩いてきて、内側から閂を外した。
鉄の門が、軋みながら開く。
「……ああ、助かった。ほんとに、助かった」
開け終わると、その場に、座り込んだ。
「爺さん、怪我は」
「ねぇ。ねぇんだわ」
「そりゃよかった」
克俊が、腕を取って立たせた。
◇
団員たちが、敷地に入る。
盾を構えたまま、ハウスの陰と、母屋の裏を見て回った。
「うわ……でけぇ」
若い団員の一人が、倒れた雄を見て、思わず声を漏らした。
「近づくな。まだ足が動くことあっからよ」
克俊が、その肩を引き戻す。
倒れた雄が、一度だけ、喉を鳴らした。
「……ヒュッ」
それきり、動かなくなった。
◇
克俊が、屈んで、雄の頭の方を覗き込んだ。
「……まだ赤角じゃねぇな」
「そうですね」
裕太は、答えながら、口元も確かめた。
汚れてはいる。
だが、血ではない。
「でも、この時期にメスを四頭も連れてました」
「あぁ?」
「秋の話ですよ、本当は。角が固まってからの」
「……そうだったか」
「相変わらず、習性がめちゃくちゃになってます」
克俊は、返事をしなかった。
ただ、倒れた鹿を、しばらく見ていた。
◇
「……赤角って、なんだべ」
末永が、言った。
「爺さん、知らねぇか」
「聞いたことねぇなあ」
「猟友会の方で、そう呼んでんだわ」
克俊は、倒れた雄の角を、指で軽く叩いた。
「普通の鹿は、年に一回、角が落ちる。
落ちて、また生えて、秋には固まる。
毎年、それの繰り返しだべ」
「んだな」
「それが、落ちねぇのがいるんだわ」
末永が、眉を寄せた。
「落ちねぇまま、伸び続ける。
伸びて、枝分かれして、また伸びて。
だから、鹿の角に見えねぇような形になる」
「……はあ」
「んで、そういうのは、たいてい赤い」
克俊は、そこで一度、言葉を切った。
「自分の血だったり、他所の血だったり。
どっちもだったり、な」
◇
「去年の暮れからだ」
克俊は、少し声を落とした。
「人が、やられ出した」
末永が、顔を上げた。
「羆じゃねぇんだわ。
羆なら、傷見りゃ分かる。
でも、そのどれとも、違った」
「……」
「んで、荒らされてんだ。
むしったみてぇな跡が、残っててよ」
末永が、物干し竿を握り直した。
「去年の終わりごろに、ドローンが撮ったんだと。
あれ、長いこと飛ばしてっと鳥に落とされっからよ。
撮れたのは、数分だけだ」
克俊は、それきり、しばらく黙った。
「……そこに、映ってたんだわ」
「なにが」
「鹿が」
克俊が、言った。
「人ぉ、襲って。
……食ってた」
◇
蝉の声が、一段、大きくなった気がした。
「そんで、決まったんだ。
見つけたら、撃つ。
猟友会も、自衛隊も、警察も、みんな同じだ。
角と口元さえ確かめたら、あとは、撃つ」
撃つ、と言った。
捕獲でも、駆除でも、なかった。
「……即時駆除の対象です」
裕太が、補った。
「見つけた時点で。誰の許可も要りません」
◇
「んで、これが厄介なんだけどもよ」
克俊は、倒れた雄を、顎で示した。
「撃っても撃っても、また出てくんだわ」
「……どっから」
「分からん」
克俊は、あっさりと言った。
「そもそも、鹿にやられる人なんて、毎日いんだわ。
こんな時代だもの。
どれが赤角にやられたんだか、誰にも分からん。
紛れちまうんだ。全部」
末永は、しばらく黙っていた。
それから、自分の家の方を、ちらりと見た。
板を打ち付けた、一階の窓を。
◇
「──あぁ!」
突然、末永が声を上げた。
「見たことあるわ、それ!」
「あん?」
「去年の秋だ! あそこさ、立ってたんだわ!」
末永は、畑の向こう、林の縁を指差した。
「おっかねぇ角した、でっけぇのが!
枝みてぇに、ぐちゃぐちゃになっててよ。
病気でもしてんのかと思ったんだわ!」
「……赤かったか」
「赤かった、赤かった!
夕方でよ、最初は陽のせいかと思ったんだけども──」
そこで、止まった。
自分が今、何を言ったのか。
あれが、何だったのか。
顔から、血の気が引いていくのが、分かった。
「……あれ、そういう、やつだったのか」
◇
裕太と克俊は、顔を見合わせた。
去年の秋。
この家の、すぐそこに、いた。
誰も、知らなかった。
誰も、報告を受けていない。
そして、この老人は、それから一年、ここで暮らしていた。
「……爺さん。早く積もうや。時間ねぇ」
「……んだな」
末永の声は、さっきより、ずいぶん小さくなっていた。
◇
玄関の三和土に、段ボールが積んであった。
二つや三つでは、ない。
「爺さん、これ、全部かい」
「んだ」
「悪ぃけどよ、全部は無理だわ。うちの車、もう人しか乗せらんねぇ」
「ああ、いいのいいの。自分の車で行くから」
◇
車庫に、白いSUVが停めてあった。
だいぶ古い型だ。
その前面に、太いパイプのバンパーが組んである。
車体の色とは、まるで合っていない。
塗装が剥げて、下地が錆びていた。
ボンネットが、へこんでいる。
バンパーの、すぐ脇。
側面にも、何か所か。
右のヘッドライトは、割れていた。
ひびが、放射状に入っている。
直さないまま、走ってきたのだろう。
鹿が倒れているのは、門から十メートルほどのところだった。
走り出したのは、その運転席のドアの、すぐ横からだった。
◇
「……昨日の夕方からよ、下りらんなくてよ」
段ボールを抱えながら、末永が言った。
「一晩かい」
「一晩だ」
克俊が、手を止めた。
「荷造り終わってよ。
あとは積むだけだと思って、ふっと外見たら、もういたんだわ」
「どっから入った」
「畑だ」
末永は、電気柵の方を、顎で示した。
「……電気、切れてたんだわ」
◇
裕太は、畑の方へ歩いた。
支柱に沿って、線を目で追っていく。
切れては、いない。
支柱も、倒れていない。
草も、きちんと刈ってあった。
線の下、三十センチほどの幅が、帯のように地面まで剥き出しになっている。
手で刈ったのだと、分かった。
区画の隅に、本体の箱がある。
蓋を開けた。
スイッチが、切ってあった。
「……克俊さん」
「あん」
「落ちてます」
「壊れたのか」
「いえ。切ってあります」
◇
末永が、その場に立ったまま、目を閉じた。
「……草、刈ってたんだわ」
「ええ」
「除草剤、効かんくなってよ。
前は一回撒けば済んだんだ。今は、撒いても伸びる。
だから、手でやってた。
線の下だけ、刈ってやらんと漏れるからよ」
「そうですね」
「切ってからやんだ、いつも。触るもんだからよ。
周り見て、切って、刈って、終わったら、入れる。
三年、そうしてきた」
◇
「……昨日の朝だ」
末永の声が、少し掠れた。
「ラジオかけながら、やってたんだわ。
そしたら、太陽が、どうのって言い出してよ。
最初、なに言ってんだか、分からんかった」
「……ああ」
「それで、テレビ見ようと思って、家さ戻って」
末永は、そこで一度、息を吸った。
「……そのまんまだ」
◇
昨日の、午前十時前。
それから、今朝まで。
その間、この家の畑は、何にも守られていなかった。
末永は、テレビの前にいた。
電話をかけ続けた。
荷物を、まとめた。
◇
裕太は、線をもう一度、目で追った。
支柱と支柱の間。
一箇所だけ、ワイヤーが下がっている。
切れてはいない。
ただ、たわんでいた。
何度も、またがれたのだろう。
その下の草が、帯のように倒れて、道になっている。
通用門は、その先だ。
畑に入れれば、敷地にも入れる。
◇
「……俺が、やったんだべな」
末永が、言った。
裕太は、しゃがんで、目の高さを合わせた。
「末永さん。三年、保たせたんでしょう」
「……」
「その柵、素人の仕事じゃないです。
段数も、間隔も」
末永は、答えなかった。
ただ、自分で刈った草の帯の方を、見ていた。
◇
「追い払ったか」
克俊が、話を戻した。
「やったさ。
怒鳴っても、鍋叩いても、動かんもの。
ライトも焚いた。爆竹も鳴らした。
前は、それで退いたんだわ」
「今は」
「今は、こっち見るだけだ」
末永は、そこで一度、言葉を切った。
「暗ぇべ。よく見えねぇんだけども、いるのは分かんだ。
んで、こっち見上げてくんだわ。
目ぇ合うんだよ、暗ぇのに」
「……」
「しばらく、そうして見てんだ。
んで、また食い出す」
末永は、そこで、自分で少し笑った。
「馬鹿みてぇな話だべさ。鹿だべ、鹿」
克俊も、裕太も、笑わなかった。
◇
段ボールを二つ、裕太が運んだ。
一つは、毛布。
もう一つには、位牌と、写真の束が入っていた。
「末永さん。重いの、こっちで持ちますよ」
「悪いねぇ、若いの」
「団長、こっちの荷物、積み終わりました」
「おう」
◇
「爺さん、行き先は」
克俊が、手帳を開いた。
「市民体育館だ。いっぱいだって言われたけども、昨日かけたら、入れるってよ」
「んだな。そこなら、大丈夫だ」
「あんた方は」
「俺らぁ、まだ回るとこある」
◇
エンジンが、かかった。
古いディーゼルの、太い音が響く。
白いSUVが、敷地の外へ、ゆっくりと出ていく。
克俊が、最後に門を閉じた。
末永は、窓を開けて、一度だけ、家の方を見た。
板を打ち付けた、一階。
開けたままの、二階の窓。
その隣の、畑と、ハウス。
三年分の、いや、何十年と続いた、この家の全部だった。
「……死ぬまでにまた、帰って来れるべか……」
その言葉に、誰も、返す言葉が見つからなかった。
末永は小さなため息を吐くと、それから、前を向いた。
「──世話になったな」
「あぁ。悪いが、体育館までは送ってやれねぇ。
気を付けてな、爺さん」
末永は小さく頷くと、そのまま全員に頭を下げて、車を走らせた。
白いSUVが、砂利を鳴らして走り去っていく。
◇
「……よし、次行くか」
「はい」
裕太たちは末永の車を見送ると、車に乗り込んで、次の家へと向かった。
二台の車が、土埃を残して消えていく。
残されたのは、誰もいなくなった家だけだった。




