第10話 檻の中へ
八月三十日 午後零時三十分 北海道・某市役所
庁舎は、ごった返していた。
避難所の場所を尋ねる者。
給水の列に並ぶ者。
家族と連絡が取れないと、窓口に詰め寄る者。
鳴り止まない電話と、貼り出されていく紙。
職員たちの声は、とうに嗄れていた。
その喧騒の隅に、
一つだけ、静かな机があった。
環境生活課。
本間の机である。
机の端には、朝から動いていない書類が、一束。
市営動物園、飼育動物の、処分に関する件。
昨日、自衛隊に出した要請の控えだった。
返事は、ない。
当然だと、本間は思っていた。
人間のことで、手一杯なのだ。
警察も、自衛隊も、役場も。
動物の順番など、回ってくるはずがなかった。
関係各所に連絡したのなら、あとはこっちを手伝え。
そう、他の部署の上司からも言われていた。
だから、それを見た時。
本間は、自分の目を、疑った。
窓の外。
庁舎の前に、見慣れない大きな車が停まり、
迷彩服が、二人、降りてくる。
廊下の奥の方で、行き交う職員を捕まえて何かを話しかけている。
応対した職員はこちらを見て、自分のことを指差してまた走り去っていった。
それから二人はまっすぐ、こちらの窓口へ歩いてきた。
「陸上自衛隊、第◯◯普通科連隊の真壁と申します。
市の要請を受けまして――動物園の、駆除の件で参りました」
本間は、数秒、固まった。
「え…あ、はい! 環境生活課の本間です!」
それから、弾かれたように立ち上がり、
慌てて机の端の書類を、かき集めた。
処分命令書。園内の図面。飼育動物のリスト。
「す、すみません……まさか、来ていただけるとは……」
指が、うまく動かなかった。
「部長! 動物園の駆除の事で、自衛隊が来ました! 外、出てきますね!」
向こう側のデスクにいる上司に声を張るが、電話中で気づいていない。
本間は付箋にメモを走り書きし、そっと部長の視線の先に置いた。
「…すいません少々お待ちください。
すぐに出るのか?」
部長が保留ボタンを押して本間に聞く。
「えぇ…急がないと、もう時間が…」
二人は壁掛け時計を見た。
「分かった。十分に気をつけて行け。
それから、自衛隊の方。
これが終わった後の予定ってどうなってますか? 今、避難所になってるホテルから――」
「大変申し訳ございませんが、この任務の後は、別の任務の予定と準備が既に入っております」
「帰り道に立ち寄るだけでもダメですか? あまりお時間を取らせませんので…」
「…上官に確認します。許可が下りるかは内容によりますが」
「ありがとうございます! 詳しい事は本間の方に送っておきますので、どうぞ駆除に向かってください」
「分かりました、では」
二人は姿勢を正して敬礼すると、足早に玄関の方へ向かっていった。
本間は書類をリュックに入れながら、部長にぺこりと頭を下げてその後を追いかけた。
◇
高機動車は、市街地を北へ走った。
道中すれ違うのは、警察や自衛隊、消防団などの公的機関の車両と、
その後をぴったりと追うように走る民間の車など。
運転席に、真壁三曹。三十四歳。
助手席に、本間。膝の上で、園内の図面を広げている。
後部座席には、宮下士長。二十二歳。
小銃を二挺と、細長いケースを一つ、自分の脇に抱えるようにして座っていた。
誰も、そのことには触れなかった。
だが、席は、そう決まっていた。
窓の外を、シャッターの下りた商店街が流れていく。
アスファルトの上で、陽炎が揺れていた。
検問の隊員は、車体を見ただけで、バリケードを開けた。
「……この車じゃなきゃ、私一人では、来られませんでした」
本間が、ぽつりと言った。
誰も、答えなかった。
宮下は、膝の脇の銃に、目を落とした。
小銃が、二挺。
弾倉が、四本。
─これで、今からライオンや虎を駆除する
口には、出さなかった。
出さなかったが、車内の空気が、それを喋っていた。
「……本間さん。猟友会には」
真壁が、前を向いたまま言った。
「応援の件、もう一度、確認してもらえますか」
「あ、はい。……すぐに」
本間が、携帯を耳に当てる。
回線は、三度目でようやく繋がった。
『…………はぁ。…………自衛隊さんが、出たのかい』
スピーカーから漏れる、訛り、濁った声。
『…………分がった。……そしたら砂川さんに声かけてみっから。
今日はその近くで現場対応してる。
ヒグマ撃ちの名人のあの人なら大丈夫だべ』
通話が切れて、本間が言った。
「……ハンターに連絡してくれるそうです。
園のすぐ近くに、ヒグマ撃ちの名人がいると…」
宮下の肩から、ほんの少しだけ、力が抜けた。
「それは…とても心強い。ありがとうございます」
前を向く真壁の表情も、心なしか一瞬緩んだように見えた。
◇
動物園の門の前に、園長の三上が、一人で立っていた。
事務所で一人待機していたところへ、連絡が来た。
三上自身、本当に来るとは思っていなかった。
もうすぐ、約束の時間になる。
木陰にいるとはいえ、炎天下の気温とアスファルトの照り返しで、
じわじわと汗が噴き出してくる。
やがて、エンジン音が聞こえてくると、一台の車が視界に入った。
そのままウインカーを出し、園内へと入ってくる。
一目見て、自衛隊の車だと分かった。
その瞬間、心臓が強く鳴ったのを三上は感じた。
目の前で高機動車が停まる。
蝉の声が、降るようだった。
少し遅れて、砂埃を上げて、一台の軽トラックが停まった。
降りてきたのは、日に焼けた、痩せた老人だった。
蛍光オレンジのベストに、同じ色の帽子。
ベストの背には、色の褪せた「◯◯猟友会」の文字。
その下に着ているのは、自衛隊のものとは柄の違う、枯葉色の迷彩シャツ。
足元は、泥の染みた、使い込まれた山靴だった。
ベストの肩には、黒いハンディ無線機。
留め具のゴムが、白く劣化している。
荷台の隅には、畳まれたブルーシートと、
乾いた血の色が、残っていた。
老人は、そこから、銃ケースを二つ、無造作に降ろした。
一つは、短く、太い。
もう一つは、それよりずっと長い。
どちらも、傷だらけだった。
それを見て、三上の心臓はまた一つ跳ねた。
「……猟友会の砂川だ」
それだけ言った。
「お疲れ様です。園長の三上です…」
首からかけたタオルで汗を拭きながら、三上は深々と頭を下げた。
「お疲れ様です、市役所の本間と申します。この度はご協力ありがとうございます」
本間が慌ただしく名刺を配る。
それに続くように真壁が敬礼し、名乗る。
「陸上自衛隊、第◯◯普通科連隊の真壁と宮下と申します。
この度は──」
砂川は、それには構わず、言った。
「その前に…あんたらの装備を見せてみろ」
◇
砂川は、宮下の構えた小銃を、覗き込むように見た。
手は、出さなかった。
「……五・五六か」
「はい」
「弾数は」
「一人、六十発です」
「中身は」
「中身…?
普通弾…です」
砂川の目が、少しだけ、動いた。
「ソフトはないのか?」
「……ソフト、ですか」
宮下は、答えられなかった。
「ホロー……ポイント、みたいな話でしょうか。
……そういうのは、その、うちでは」
砂川は、しばらく黙って、宮下の顔を見ていた。
それから、小さく、息を吐いた。
「……あんたら、カラスでも撃ちに来たのか」
「えっ? ……いや、その……」
宮下は、苦笑した。
苦笑する以外に、なかった。
「――自衛隊に、対人用の弾しかないことは」
真壁が、横から言った。
「砂川さんも、ご存知ですよね」
砂川の動きが、止まった。
それから、ふっ、と笑った。
「……悪かったよ。からかって」
真壁は、何も言わずに、小さく頭を下げた。
「で」
砂川が、顎で示した。
「そのケースの中身は、なんだ」
真壁が、ケースを開ける。
黒く長い銃身と、大きなスコープ。
砂川の目の色が、変わった。
「口径は」
「七・六二」
「……当てられるのか」
真壁は、少しだけ考えて、答えた。
「三百で、1MOAを切ります」
宮下と本間は、意味が分からず、顔を見合わせた。
砂川は、じっと、真壁の目を見た。
「……三百メートル先の、拳の大きさか」
それから、ふっと息を吐いた。
「大したもんだ」
◇
半開きになった門をくぐった、その時だった。
砂川の足が、止まった。
風向きが変わり、園の奥から、匂いが流れてきた。
獣の匂い。糞と、藁の匂い。
その底に沈んだ、鼻の奥にこびりつくような、腐敗臭。
そして、声。
遠く、近く、園のあちこちから、
低い唸りと、檻を打つ音が、混ざり合って聞こえてくる。
砂川の目が、細くなった。
再び歩き出したその足は、
さっきまでと、音が違っていた。
◇
事務所までの道は、獣舎の前を通る。
最初は、ヒグマの檻だった。
檻の奥の暗がりで、巨体が、ゆっくりと揺れていた。
左右に、左右に。
同じ場所を、行き来しながら。
その目だけが、こちらを追って、動いていた。
喉の奥から、地を這うような音が、途切れずに漏れている。
───ガンッ!
と、
太い金網が、内側から、鳴った。
本間が、跳ねるように、飛び退いた。
「ひっ……」
書類が、腕の中で崩れかける。
次の獣舎では、虎が、歩いていた。
柵の内側を、こちらの歩調に、ぴたりと合わせて。
音もなく、並んで、歩いてくる。
目だけが、ずっと、こちらを見ていた。
宮下は、銃を握る手に、汗が滲むのを感じた。
檻の中だ。
分かっている。
分かっているのに、足が、勝手に速くなる。
◇
ザザッ…、と。
砂川の肩で、無線機が鳴った。
『……ゥ……沢の……ァ……回った……ら、……頭……』
潰れた音の奥で、訛った年寄りの声が、何かを言っている。
宮下には、一語も、聞き取れなかった。
砂川は歩きながら、口元だけを、無線に寄せた。
「……んだ。……そっちで、まくれ」
それだけで、通じたらしかった。
今この瞬間も、どこかで誰かが獣を追っている。
◇
「……ここまで、変わるものなんですか」
本間が、掠れた声で言った。
「私…何度か、家族と来たことがあるんです、ここ。
……こんな雰囲気の場所じゃ、なかった」
三上は、すぐには答えなかった。
「……そうでしたか」
それだけ、言った。
その声には、驚きも、恐れも、もう残っていなかった。
――そうだよな、と三上は思う。
毎日見ていると、分からなくなる。
少しずつ、少しずつ、変わっていったから。
この人たちも、きっと、休みの日に、
ここや、どこかの動物園に、来たことがあるはずなのに。
恋人を連れて。
子供の手を引いて。
ソフトクリームを持って。
あの頃のこの場所を、知っているはずなのに。
◇
「……他の職員は?」
歩きながら、砂川が訊いた。
「もう、帰しました」
三上が答える。
「昨日から、泊まり込みで、世話をしてくれていたんです。
最後まで残ると、聞かない者もいましたが……
家族が、いますから。
さすがに…もう」
「そうか」
砂川は、前を向いたまま、続けた。
「念のため聞くが…
…安楽死させる方法は、なかったのか?」
「それは……もちろん、考えました」
三上の声が、少しだけ、低くなった。
「ですが、全頭を安楽死させられるだけの薬を、
常に置いてある動物園なんて、ありません。
うちの獣医も、先週、本州の家族の元に……。
打てる者も、もう、いないんです」
「……そうか」
しばらく、蝉の声だけが続いた。
それから、砂川が、ぽつりと言った。
「うちの孫が、動物好きでな。
東京から帰ってくるたびに、ここに来たがった。
儂も、何度も、連れてきた」
園内には所々、売店やキッチンカーが置かれている。
人気動物を模したメニューの数々。
それらを砂川は、懐かしそうに見た。
「……ここへ来るたび、ついつい、獲物として見ちまうんだ。
熊も、虎も。職業病だから、仕方ねえが。
いざという時、こいつらをどう仕留めるか。
そんなことを、孫の手を引きながら、考えとった。
……まさか、本当に、こんな日が来るとはな」
三上は、何も、言わなかった。
言えることが、何も、なかった。
◇
事務所の机に、園内の図面と、飼育動物のリストが広げられた。
爬虫類館は、リストから外された。
電気が止まれば、保温が切れる。
この土地の秋を、彼らは越せない。
小型の動物たちは、檻に施錠し、
ありったけの餌と水を入れて、閉じる。
決めるべきは、大型だけだった。
ホッキョクグマ。ヒグマ。虎。ライオン。狼。
そして――象をはじめとする、食性が変わった大型の草食獣たち。
◇
砂川はリストと図面を指でなぞりながら、ぶつぶつと独り言を言っていた。
その横で、三上が、二人の自衛官に向けて、
低い声で、話していた。
「ご存知かもしれませんが、熊は、正面の眉間は、だめです。
骨が厚くて、弾かれることがある。
耳の後ろから、斜めに……。
虎やライオンなどの大型の猫科動物は、肩甲骨の、すぐ後ろを。
心臓が、そこにあります」
自分が育てた動物たちの、殺し方だった。
真壁は、黙って、頷いた。
「……なるほど」
宮下は、メモを取る手が、途中で、止まっていた。
砂川は、肩に下げていた二つのケースを、机の脇に立てかけた。
短い方と、長い方。
「そっちは……」
本間が、短い方を見て言った。
「上下二連だ。散弾銃」
「散弾銃も、使うんですか」
「場合によって、使い分ける」
砂川は、リストに目を落としたまま答えた。
◇
指が、リストの上を滑っていく。
「こいつは、どこにいる」
砂川が、一行を指した。
ホッキョクグマ。
三上が答える。
「プールのある、大きな展示場で……
柵からだと、いちばん遠いところで、四十メートルはあります」
「近くには寄るか」
「……最近は、人が通ると、水から上がってきます。
ガラスの前まで来て、ずっと、見ています」
砂川は、少し考えた。
「じゃあ、ライフルだ。
遠くにいるうちに、片す」
指が、次の行へ動く。
「虎は?」
「檻の幅が、十五メートルほどで……
今は、こちらが歩くと、ずっと横を、付いてきます」
「なら、散弾銃だな」
「散弾銃……?」
本間が、思わず、聞き返した。
あの、粒がばらばらに飛ぶやつで、虎を…。
そう思ったのが、顔に出ていた。
「散弾銃っつってもな。ばらばらの弾じゃねぇぞ」
砂川は、ベストの胸ポケットから、赤い薬莢を一つ出して、机に立てた。
親指ほどの太さの、ずんぐりした弾だった。
「スラッグ弾ってやつだ。
一発、でかい鉛の塊が、そのまま飛ぶ」
本間が、それを覗き込む。
「近けりゃ、これでヒグマもやれる。
……急所に、当たればな」
◇
砂川は、その薬莢を、指で軽く倒した。
「だが、最近は、急所に当たっても倒れねえ」
「……え?」
「人間なら、掠っただけでぶっ倒れる弾だぞ。
それを、五発、六発だ。
そこまで撃ち込んで、ようやく止まる。
この前、札幌の郊外まで押し寄せた羆たちはどいつもそうだった。
市街地だからライフルは使えなかった。貫通してどこまでも飛ぶからな。
その点、スラッグ弾は有効射程が五十メートルしかないから、市街地には向いている。
その分、目の前まで十分引きつけて撃つ必要があった。
こっちに向かって全速力で突進してくる羆に五、六発撃ち込んで、ようやく、目の前で倒れる。
そんな世界だ」
砂川は、倒れた薬莢を、また立てた。
「急所なんぞ、もう関係ねえのかもしれん。
どんだけ傷を与えるか。どんだけ苦痛を与えるか。
……そういう撃ち方に、
なっちまってる」
「苦痛を……与える」
三上が、呟いた。
その顔が、曇っていた。
砂川は、初めて、三上の方を見た。
「儂だって、そんなことは…したくねえ」
低い声だった。
「猟師ってのはな。一発で仕留めて、なんぼのもんだ。
半矢……仕留め損なって、手負いで逃がす。
あれがいちばん、おっかねえ。
……獣にとっても、そうだ」
三上は、何も言わなかった。
ただ、小さく、頭を下げた。
◇
指が、最後の行で、止まった。
「……象は」
「いつも、いちばん奥にいます」
三上が答えた。
「私が行くと、寄ってきますが…」
砂川の指は、そこから動かなかった。
しばらく、リストを見ていた。
◇
「それで……最初は、何から、いきますか?」
三上が、切り出した。
「そうですねえ……」
真壁が、リストを見ながら答える。
「危険度で言えば、やはり、ホッキョクグマか、ヒグマからでしょうか?」
三上は、頷きかけた。
自分も、そう思っていた。
そして、心のどこかで――象は、最後に、と願っていた。
「いや」
砂川だった。
「象からやる」
きっぱりと、言い切った。
三上が、固まった。
「な……なんで、象からなんですか」
声が、上ずった。
「うちの象たちは、おとなしいんです。
肉も、食うようには、なりましたが……
気性は、ほとんど、変わっていません。
もっと攻撃的になった動物なら、他に、いくらでも――」
「この中で、象がダントツで、しぶといからだ」
砂川は、リストから、顔を上げた。
「さっき、弾数を確認した。
儂の弾も、自衛隊さんの弾も、無限じゃねえ。
弾が満タンのうちに、いちばんの大物からやる。
急所を外して手負いにした大物ほど、恐ろしいもんは、ねえからだ。
……それとな、園長さん。
昔、外国で、サーカスの象が暴れてな。
警察が来て、撃って、撃って……八十六発だ。
八十六発食らって、倒れるまで、二十分かかった。
象ってのは、怒って人を殺す生き物じゃねえんだ。
……ただ動くだけで、人が死ぬ。
だからライフルで、
一番最初に、確実に仕留める」
三上は、何か言いかけて、
結局、何も、言えなかった。
本間が、書類を持つ手を、握り直した。
◇
象舎へ向かう道すがらも、
園のあちこちから、獣たちの声が、追いかけてきた。
唸り。咆哮。檻を打つ音。
だが。
象舎の扉を開けた、その中は――
静かだった。
◇
屋内は、薄暗く、空調が効いていてひんやりとしていた。
高い天窓から、白い光が、何本も、床に落ちている。
鉄柵の向こう、広い放飼場に、
五つの、大きな影。
藁と、糞の匂い。
その中に、微かに、血の匂いが混じっている。
手つかずの干し草の山と、
その脇に転がる、白く乾いたもの。
象たちは、騒がなかった。
ゆったりと、耳を動かし、
長い鼻を、静かに、揺らしている。
巨体が息をするたび、
空気が、ゆっくりと、動いた。
いちばん奥の一頭が、三上の姿を認めて、
小さく、鼻を、持ち上げた。
まるで――ここだけ、何も、変わっていないかのようだった。
◇
配置は、すぐに決まった。
柵から十分に距離を取り、
砂川が右に、真壁が左に。
宮下は、その後ろ。
三上と本間は、さらに後ろの、壁際に。
「右の三頭は、儂だ。左の二頭を、頼む」
「了解」
砂川がケースから銃を出す。
小銃より、ひと回り太い銃身だった。
慣れた手つきで、四発を、込める。
薬室が閉じる、重い音がした。
それから、砂川は、振り返らずに言った。
「……最後の別れは、いいのか」
一拍、間があった。
「え…」
「さっきのあんたの様子が気になっててな。
こいつらは、あんたにとって何か特別な動物じゃないかと思ってよ」
宮下と真壁が、そっと銃口を下げる。
本間は、園長の顔を見ながら、口の中の唾液を飲み込んだ。
「いえ。……さっき、済ませたので」
三上の声は、揺れなかった。
涙も、まだ、こぼれてはいなかった。
砂川はそれ以上は何も聞かず、代わりに一度だけ頷くと、ゆっくりと銃を構えた。
「耳を、塞いでいてください」
真壁が、後ろの二人に言った。
宮下は、銃を、握り直した。
手のひらの汗が、グリップに、吸いついた。
◇
ズパァァァーーーン!
最初の銃声は、体の芯まで、届いた。
壁という壁が、音を、跳ね返す。
いちばん右の一頭が、崩れた。
膝から。
それから、横腹から。
床が、震えた。
「次」
ボルトが引かれ、薬莢が、床で跳ねる。
二発目。崩れる。
残りの象たちが、鼻を上げ、身をよじった。
甲高い声が、コンクリートを、突き抜けた。
だが、それだけだった。
三発目。真壁の一発。続いて、砂川の一発。
鼻が、上がりきる前に。
声が、悲鳴になる前に。
一頭ずつ、確実に、崩れていった。
最後の銃声が鳴り響くと、
最後の一頭が、床に沈む。
すべてが終わるまで、十秒と、かからなかった。
◇
硝煙の匂いが、藁の匂いを、塗り潰していた。
薬莢が、床で、澄んだ音を立てて、転がっていく。
それきり、銃声は止み、
耳の奥で、細い音だけが、鳴り続けた。
本間と三上は、耳を塞いだまま身を屈めていた。
ゆっくりと、体の緊張が解けていく。
柵の向こうに、五つの巨体が、横たわっている。
荒い、大きな呼吸。
風の抜けるような音が、五つ、重なっている。
絞り出すような、低い、低い声。
灰色の体の下から、血が、
コンクリートの床を、ゆっくりと流れていく。
天窓の光の中を、埃が、舞っていた。
三上は、目を、逸らさなかった。
口を、真一文字に結んで、
ただ、立っていた。
◇
「……あの」
沈黙に耐えかねたように、本間が言った。
「やはり、トドメを、刺した方が……」
「いや」
砂川は、柵の向こうの呼吸を、じっと見ていた。
「急所は、外しちゃいねえ。呼吸があの荒さだ。
持って数十分……早けりゃ、すぐだ。
……念のため、足に何発か、入れておくか?」
誰も、答えなかった。
砂川は、ふっと息を吐き、
胸ポケットから、潰れたタバコの箱を出した。
一本くわえ、火をつける。
煙を吐く、その顔は、
何とも、後味の悪そうな顔だった。
誰も、それを、咎めなかった。
象の呼吸だけが、聞こえていた。
◇
宮下が、床に散らばった薬莢を拾い始めた、
その時。
音がした。
──ゴツッと。
硬い床を、何かが打つ音。
宮下は、柵の向こうを見た。
一頭が、前脚を、立てていた。
ズ、と巨体が床を擦り、
よろよろと、持ち上がっていく。
続いて、もう一頭。
また、一頭。
……五頭、すべてが、立ち上がっていった。
あれほど荒かった呼吸が、
いつの間にか、静かになっていた。
そして。
さっきまで流れていた血が、
止まっていた。
くわえタバコが、床に落ちた。




