第三話 ベリアル 針と糸、そして麻のシャツ
店内に漂う珈琲の香りに、今日はどこか異質な、だが決して不快ではない匂いが混ざり込んでいた。
それは、陽の光をたっぷり吸い込んだ草木のような乾いた匂いであり、あるいは新しく織り上げられた生地特有の、わずかに酸味を帯びた麻の香りだった。
『珈琲店 ベルゼ』のカウンターの奥で、ベルゼはケトルを火にかけていた。
水が小さく気泡を巻き上げ、チチチと金属を揺らす音が響く。
彼は漆黒の丸眼鏡の位置を少しだけ直し、自分の胸元に視線を落とした。
完璧な黒いスーツ。
かつて何万という部下や他国の使節を前に一切の隙も見せぬよう身に纏っていた、いわば「鎧」。
だが最近、その肩回りに微妙な突っ張りを感じるようになっていた。太ったわけでも、筋肉がついたわけでもない。
ただ、日常の動作が変わったのだ。
重い珈琲豆の袋を持ち上げたり、カウンターを拭き上げたり、水汲みで腰をかがめたりする。
かつて指一本動かさずにすべてを完了させていた頃には存在しなかった「生活の動作」が、かつての完璧な礼服を少しずつ圧迫し始めていた。
「そろそろ、潮時かもしれませんね……」
誰にともなく呟いたその時、ドアに取り付けられたベルが、軽やかで優美な旋律を奏でるように鳴った。
入り口に立っていたのは、一瞬、男とも女とも見紛うような、息を呑むほどに美しい人物だった。
陽光を糸にして紡いだような黄金の髪が、やわらかく肩まで揺れている。
透き通るような真珠の肌に、どこか憂いを帯びた碧い瞳。
白いレースと黒いシルクを絶妙にあしらったゴシック調の上品な装いを身にまとっている。
かつて「最も美しき密使」と称され、複雑な交渉(契約)を一手に引き受けていたベリアルだった。
彼の手には、使い込まれた布製の巻尺と、いくつかの生地のサンプル帳、そして小さな裁縫箱が握られている。
「ごきげんよう、ベルゼ。……あら、今日は少し困ったお顔をしているのね?」
鈴を転がすような、それでいてどこかハスキーな声。
ベリアルは滑らかな足取りで店内へ入ると、店内を見回すこともなく、ごく自然な動作でカウンターの椅子に腰を下ろした。
「いらっしゃいませ。ベリアル、困った顔などしていませんよ。……ただ、自分の着ている服が、少しばかり今の暮らしにそぐわなくなってきたと考えていただけです」
「ふふ、やっぱりね。私の見立てに狂いはなかったわ」
ベリアルは満足そうに微笑むと、手にした裁縫箱をトントンとカウンターの上に置いた。
「あなたのその黒いスーツ、背中の縫い目が悲鳴を上げているわよ。珈琲を淹れるたびに、肩のあたりが引っ張られているでしょう? かつての私たちは、動かないことが威厳だったけれど……今のあなたは、この小さな城の中を一日中動き回っているんですもの」
「さすがですね。仕立て屋としての目は、もう本物の職人の領域ですか」
「お褒めに預かって光栄だわ。……さ、珈琲を淹れてくれるかしら? お礼に、あなたにぴったりの新しい服をあつらえてあげる」
「それは魅惑的な提案です。少しお待ちください」
ベルゼは手際よく湯を注ぎ始めた。
細い湯の筋が豆の粉を湿らせ、ゆっくりと膨らんでいく。
ベリアルはその甘く香ばしい湯気をうっとりと胸いっぱいに吸い込んだ。
「良い香り……。ねえ、ベルゼ。昔の私たちは、どうしてあんなに重たい服ばかり着ていたのかしらね?」
「重たい服、ですか?」
「そうよ。金の刺繍で埋め尽くされたベルベットや、鉄のように硬いシルク、何層にも重ねられた裾の長いドレス……。どこかへ歩いていくためではなく、そこに『君臨するため』だけの服。あの頃の私は、服を着ているというより、権威という金鎖を首から吊り下げているような気分だったわ」
ベリアルは自分の細い指先をすっと撫でた。
かつてのベリアルは、外交の密使として、一口の言葉で国を滅ぼし、一つの契約で魂を買い叩いた。
相手を威圧し、魅了し、ひざまずかせるための絢爛豪華な装飾。
だがそれは同時に、自らを縛り付ける鎧でもあった。
「今の生活はどうですか?」
「最高よ」
ベリアルは即座に、子供のように無邪気な笑みを浮かべた。
「朝起きて、街の紡績屋から届いた麻やコットンの生地に触れるの。ザラザラしていたり、クタクタに柔らかかったり、一枚一枚まったく表情が違うのよ。それをハサミで断ち切って、一針一針、手で縫い合わせていく。……魔法で一瞬で作った完璧なドレスよりも、不揃いな縫い目がある麻のシャツの方が、ずっと温かいの」
「温かい……服が、ですか」
「ええ。服そのものが温かいんじゃないわ。それを着たときに、自分の体温が生地の中に留まって、優しく包み込まれるような感覚……。昔の私たちには『体温』なんてなかったでしょう? 寒さも温かさも知らなかった。……服を着る理由が『威厳を示すため』から『暖をとるため』に変わったの。それがなんだか、たまらなく愛おしいのよ」
ベルゼは、淹れたてのカップをベリアルの前にそっと置いた。
「どうぞ。浅煎りの、爽やかな酸味のある豆です。今のあなたには、こちらの方が合うかと思いまして」
「ありがとう」
ベリアルはカップを両手で包み込んだ。
陶器の熱が、彼女の白い指先にじんわりと伝わっていく。
ふぅ。
息を吹きかけ、一口飲むと、彼女の碧い瞳が驚きに輝いた。
「あら……! 苦くないわ。爽やかで、まるで野に咲く花の香りがするわね」
「ベリアル、あなたに苦すぎる深煎りを出すと、文句を言われそうですからね。サタンとは違います」
「あはは! あの人は大柄な癖に、子供みたいな舌をしているものね」
軽やかな笑い声が店内に響く。
二人はそれからしばらく、静かに珈琲を楽しんだ。
カチャリ。
カップがソーサーに触れる音が、落ち着いた時間を取り戻していく。
カップを半分ほど空けたところで、ベリアルはスッと立ち上がり、巻尺を手に取った。
「さて、店主さん。お仕事の邪魔をして申し訳ないけれど、サイズを測らせてちょうだい。カウンターから出てきてくれる?」
「ええ、喜んで」
ベルゼはエプロンを外し、カウンターの外へと出た。
ベリアルはベルゼの目の前に立つと、プロの眼差しで彼の体躯を観察し始めた。
視線が、かつての密使の鋭さを取り戻しているが、そこには温かい慈しみが込められている。
「肩幅は……うん、昔と変わらずしっかりしているわね。でも、少し丸くなったかしら。胸囲は……息を吸って。はい、吐いて」
巻尺がベルゼの胸元をしなやかに巻き付ける。
ベリアルは手際よく数字をメモし、それからベルゼの背後に回った。
「次は背中ね。……少し、力を抜いてちょうだい」
ベリアルの指先が、ベルゼの背中に触れた。
黒いスーツの生地越しに、彼女の手のひらが、ベルゼの肩甲骨の間。
かつて「翼」が生えていた痕跡へと滑っていく。
ベルゼの身体が、一瞬だけ微かに強張った。
そこには、かつて「ハエの王」として漆黒の羽虫の翼を広げていた痕がある。
今は完全に退化し、飛ぶことなど到底不可能な、小さな肉の隆起と皮膚の引きつりとして残っているだけだ。
ベリアルの手が、その痕を優しく、撫でるように擦った。
「……痛むかしら?」
「いいえ。痛むというよりは……そうですね、雨が降りそうになると、少し重く疼く程度です」
「そう。……私もよ」
ベリアルは静かな声で言った。
彼女の背中にもまた、かつて元・天使として白銀の美しい翼を羽ばたかせていた痕跡があった。
天から落ち、悪魔となり、そして今やただの人間となった彼女の背中にも、消えない傷跡が残っている。
「昔はね、この背中にあるものが誇りだったわ」
ベリアルは巻尺を握り直しながら、ベルゼの背中にそっと語りかけた。
「どこへでも飛んでいける羽。空を切り裂き、雲を突き抜け、世界の果てまで一瞬で行ける力。……でもね、ベルゼ。飛んでいる間、私は一度も『地面の温もり』を感じたことがなかったの」
「地面の……温もり」
「ええ。空の上は冷たくて、どこまでも孤独だったわ。どれほど高く飛んでも、心が満たされることはなかった。……でも、羽が萎びて、飛べなくなって、この街の泥道を自分の二本の足で歩くようになって初めて知ったの。踏みしめる土の柔らかさや、歩き疲れた後に座る椅子のありがたさを」
ベリアルの手が、ベルゼの背中の傷跡からゆっくりと離れた。
「もう、飛ぶ必要はないのよ、ベルゼ。あなたも、私も、サタン様も。誰も私たちに、空を飛べなんて命じない。この地に足をつけ、重力に従って、泥臭く生きていけばいいの」
ベルゼは静かに目を閉じ、深く息を吐き出した。
背中に残っていた長年の強張りが、ベリアルの言葉と指先の温もりによって、ゆっくりとけていくような気がした。
「……そうですね。飛ぶ必要は、どこにもありません」
「ええ。だからね、私はあなたに『飛ぶための服』じゃなくて、『歩くための服』を作りたいの」
ベリアルはベルゼの前に回り込むと、サンプル帳を広げて見せた。
そこには、深緑色、そしてやわらかな夜空のようなインディゴブルーの、素朴な麻の生地が並んでいた。
「麻はね、最初は少しゴワゴワしているの。でも、何度も何度も洗って、毎日着込んでいるうちに、どんどん肌に馴染んで柔らかくなっていくのよ。着る人の『時間』を吸い込んで、その人だけの服になっていくの。……どうかしら?」
ベルゼは、インディゴブルーの麻生地に指を触れた。
ザラりとした素朴な手触り。だが、その奥には強い生命力のような芯の強さがあった。
「いいですね。……実に、素晴らしい」
「ふふ、気に入ってくれた? じゃあ、この色で仕立てるわね。首元は少しゆったりさせて、腕まくりがしやすいように袖口にボタンをつけておくわ。珈琲を淹れるのに、邪魔にならないようにね」
「お気遣い、感謝します」
ベリアルは満足そうに手帳を閉じると、再びカウンターの席へと戻り、冷めかけた珈琲を飲み干した。
「ねえ、ベルゼ」
「なんでしょう」
「服を作るようになってから、私、夜寝る前に『明日は何を着ようか』って考えるようになったの」
「ほう。昔は考えなかったのですか?」
「ちょっと違うのよ。完璧な自分を演じるための鎧を選ぶ……でも今は違うの。『明日は少し風が冷たいから、厚手のウールを羽織ろう』とか、『陽射しが柔らかいから、あの薄手の麻シャツにしよう』とか。……そんな小さなことで、明日の朝が来るのが待ち遠しくなるのよ」
ベリアルは照れくさそうに笑った。
その笑顔は、かつて数多の男たちを狂わせた「退屈な美貌」ではなく、生きる喜びを知った「一人の仕立て屋」の顔だった。
「『明日の服を選ぶ楽しみ』……ですか。素敵な人生ですね」
「ええ、最高の人生よ。魔力を失って、ただの人間として仕立て屋になるなんて。昔の私が知ったら失神するでしょうけれどね」
ベリアルはトントンと裁縫箱を叩き、席を立った。
「じゃあ、採寸はバッチリだから、一週間後に持って来るわね。最高の一着を仕立ててあげるから、楽しみに待っていて」
「楽しみにしています。……お代は、どう支払えば?」
ベルゼが尋ねると、ベリアルは小悪魔的なウインクをして見せた。
「そうね……そのシャツを着て、私に最高の珈琲をもう一杯淹れてちょうだい。それが私のお代よ」
「……安すぎませんか?」
「いいえ、最高に贅沢なお代よ」
ベリアルはドアベルを鳴らし、軽やかな足取りで店を出て行った。
夕暮れの茜色の光が、彼女の黄金の髪を美しく照らし、その背中はもう二度と飛ぶことのない、けれどしっかりと地を踏みしめる人間の力強さに満ちていた。
一人残された店内で、ベルゼは自分の胸元に手を当てた。
古いスーツの生地の下で、自分の心臓が確かで温かいリズムを刻んでいる。
「歩くための服……か」
ベルゼはカウンターの奥に戻り、洗ったカップを布巾で丁寧に拭き上げた。
かつて空を統べ、世界を俯瞰していた者たちは、いまや地面の上に小さな足跡を刻みながら生きている。
寒さを感じ、温もりを求め、麻のシャツの柔らかさに微笑む。
それは堕落などではない。
「……一週間後が、待ち遠しいですね」
静かに呟くと、まだ見ぬ新しい服を着て珈琲を淹れる自分の姿を想像し、口元を緩めるのだった。




