第四話 アスモデウス 鉄板の匂いと豪快な溜息
永遠の黄昏が広がる街には、時折、風に乗って奇妙な匂いの混ざり合いが訪れる。
『珈琲店 ベルゼ』の店内に満ちる挽きたての珈琲の香ばしい匂い。
そこに突如として割り込んできたのは、芳醇な醤油の焦げる香り。
じっくりと炙られた脂の乗った肉の香ばしさ。
そしてわずかなニンニクの刺激臭だった。
カウンターの奥でネルフィルターの手入れをしていたベルゼは、鼻腔をくすぐるその強い匂いに、思わず丸眼鏡のブリッジを押し上げた。
「……やれやれ。静寂を破るには、少々賑やかすぎる匂いですね」
呟いた直後。
ドスン。
ドア全体が揺れるような重い振動が響いた。
チリンチリン!
ベルが悲鳴を上げるように激しく鳴り響き、ドアが豪快に押し開かれる。
「おい、ベルゼ! 店は開いているか! 冷たい水と珈琲をくれ!」
入ってきたのは、見上げるような巨体の男だった。
脱ぎ捨てた上着の下からは、丸太のように太い両腕と、鍛え上げられた分厚い胸板が露わになっている。
真っ赤な髪を短く刈り込み、無精髭を蓄えた力強い顔立ち。
かつて、百万の魔軍を率いて戦場を駆け抜け、その一声で敵陣を震撼させた伝説の将軍アスモデウスだった。
現在の彼は、黒い手ぬぐいを頭に巻き、油染みのついた清潔なエプロンを身につけている。
その右手には、ズシリと重そうな大きな重箱が握られていた。
「いらっしゃいませ、アスモデウス。もう少しドアは優しく扱ってください。この店は戦場の砦ではなく、木造の古い喫茶店なのですから」
「ぬかせ! 勢いがなきゃドアなんて開かねぇだろうが! それより水だ、水! 喉が干からびて火を吹きそうなんだ!」
アスモデウスはカウンターの端の頑丈な丸椅子にどっかりと腰を下ろした。
ギシ。
木製の椅子が悲鳴を上げる。
彼はそのままカウンターの上にドスンと重箱を置き、豪快に溜息を吐き出した。
「はぁーっ……! 疲れた! 死ぬほど疲れたぞ!」
「騒々しいですね。……はい、冷たいお水です」
ベルゼがガラスのコップに大きめの氷を浮かべ、差し出す。
アスモデウスはそのコップを大きな手で引っ掴むと、一気に喉奥へと流し込んだ。
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ。
喉仏が激しく上下する。
プハァッ!
勢いよく息を吐き出すと、アスモデウスは感極まったようにコップを見つめた。
「う、うめぇ……! なんだこの水は! 喉から胃袋まで冷気が突き抜けていきやがる!」
「ただの井戸水ですよ。氷を浮かべただけです」
「それが美味いんだろうが! 身体の中に溜まった熱が、一気に引き散らかされる感覚だ。昔の俺なら、水を美味いなんて思ったことはねぇぞ。酒しか飲まなかったからな!」
「確かに、昔のあなた様は祝いの席で樽ごと酒を煽っていましたからね。……それで、その手に持っている物騒な箱はなんですか?」
ベルゼが視線を向けると、アスモデウスは不敵にニヤリと笑い、重箱の蓋をパカリと開けた。
立ち上る猛烈な湯気と、暴力的なまでに食欲をそそる匂い。
中に入っていたのは、表面がこんがりと黄金色に焼き上げられ、濃厚な甘辛いタレがたっぷりと絡められた、分厚い豚の角煮と鉄板焼き。
肉の表面で脂がパチパチと弾け、艶やかな光を放っている。
「へっへー! 俺の店『鉄板処 あすも』の試作品だ! 豚のバラ肉を3時間煮込んでから、鉄板で一気に表面を焼き固めた特製タレ焼きだ! ベルゼ、お前に味見させてやろうと思って持ってきてやったんだよ!」
「……なるほど。仕込みの最中でしたか」
「おうよ! 毎朝毎朝、肉を卸して、切り分けて、叩いて、仕込む。これが想像以上に重労働でなぁ……!」
アスモデウスは自分の右手を開いたり閉じたりしてみせた。
その手のひらは、かつて大剣を握りしめていた頃のタコとはまた違う、包丁の背が当たる部分やフライパンの柄を握る部分に、新しい分厚いマメができていた。
そして、関節のあたりがほんのりと赤く腫れている。
「肉を柔らかくするために筋を切って、叩くんだが……何十キロもやってると、手の関節がキーキー痛み出しやがる。筋肉痛って奴か? 前の腕が鉛みたいに重くて、指が固まって開きやがらねぇんだ」
「『筋肉痛』と『腱鞘炎』の初期症状ですね。無理な力を入れすぎているのではないですか?」
「ふん、加減が分からんのだ! 昔なら、一振りで岩山を粉砕できた腕だからな。力加減を誤ると、包丁の刃がこぼれるか、まな板が叩き割れる。力を抜きつつ、肉の筋だけを的確に断ち切る……これが剣を振るより百倍難しい!」
アスモデウスは腕を回しながら、苦笑交じりに溜息をついた。
「将軍だった頃はよ、部下に『突撃せよ!』と一言命じれば、何千の兵が動いた。だが、この肉は違ぇ。俺がこの手で切り、叩き、火を通さなきゃ、いつまで経っても美味い料理にはならん。……手がかかりすぎて笑えてくるぜ」
「ですが、あなた様はどこか楽しそうに見えますよ」
「当たり前だろ!」
アスモデウスはカウンターを素手でドシんと叩いた。
「自分の手で苦労して仕込んだ肉が、鉄板の上でジューッと音を立てて焼ける。その匂いを嗅いで、街の腹をすかせたやつらが店に雪崩れ込んでくるんだ。『今日の肉も最高だ!』なんて言いながら、口いっぱいに頬張って酒を飲む。……あの顔を見ちまったら、腕の痛みなぞ吹き飛ぶわ!」
かつて戦場で敵を蹂躙し、絶望の悲鳴を浴びていた男が、今は客の「美味い」という歓声のために汗を流している。
その瞳には、血生臭い闘争心ではなく、職人特有の頑固で温かい情熱が宿っていた。
「さあさあ、冷めないうちに食ってみろ、ベルゼ! 箸は持ってきてやったぞ!」
「ありがたくいただきます。……しかし、珈琲の店でこれを食べるのは、なかなか勇気がいりますね」
ベルゼは出された木箸を受け取ると、重箱から分厚い肉を一端摘み上げた。
箸越しにも伝わる、驚くべき柔らかさ。
口に運ぶ。
香ばしいタレの風味が広がり、噛む必要すらないほど舌の上で脂がトロりとけていく。
旨味が爆発するように口内に満ちた。
「……ほう」
ベルゼは丸眼鏡の奥の目を丸くした。
「美味いでしょう?」
「ええ、悔しいですが……完璧な仕事です。タレの隠し味に、わずかに生姜と辛子を効かせていますね。脂の重さを感じさせない素晴らしい工夫です」
「だろ!? それを思いつくまで、何十回もタレを捨てて試行錯誤したんだぞ! アスタロトの奴に味見させたら『味が濃すぎる』なんて抜かしやがるから、出汁の割合を変えたりしてな!」
アスモデウスは嬉しそうに破顔した。
かつて戦略や陣形を巡って参謀たちと議論を交わしていた男が、いまやタレの隠し味について熱弁を振るっている。
そのギャップに、ベルゼは思わずクスリと笑いを漏らした。
「笑うな! 俺は大真面目だぞ!」
「失礼。あまりに素晴らしいお料理だったので、感心していたのです。……さて、これほど濃密で素晴らしいお肉をいただいたのです。私からも、お返しをしなければなりませんね」
ベルゼは席を立ち、ネルドリップの準備を始めた。
「アスモデウス。あなたには、本日最高の『極深煎り』をお淹れしましょう」
「極深煎り? サタンが『苦すぎて飲めん』と怒鳴り散らしていた奴か?」
「ええ。ですが、今のあなたなら、その真価が分かるはずです」
ベルゼはケトルを持ち、湯を深く煎った黒漆色の粉へと細く落としていく。
立ち上る香りは、香ばしさを通り越し、かすかに煙や炭、そして芳醇なカカオを思わせる重厚なものだった。
じっくりと時間をかけて抽出された液体は、光を通さないほど深い漆黒。
それを大きな厚手のマグカップへと注ぎ、アスモデウスの前へと置いた。
「どうぞ。肉の脂をすべて洗い流し、疲れを癒す一杯です」
アスモデウスは粗野な手でマグカップを持ち上げた。
顔を近づけると、立ち上る強い香気に鼻をひくつかせる。
「ほぅ……なんだか、焦げた木のような、すごい匂いだな」
「恐れずに、一口飲んでみてください」
アスモデウスは意を決したように、マグカップを傾け、黒い液体を口に含んだ。
一瞬間。
アスモデウスの太い眉が固まり、目が見開かれた。
「ぐっ……! 苦ぇ……! なんだこれは、口の中が火事になったみたいだぞ!?」
「そのまま、じっと舌の上で転がしてください。そして、喉の奥へ流し込むのです」
言われた通り、アスモデウスは喉を鳴らして珈琲を飲み下した。
先ほどまで口の中に残っていた豚肉の濃厚な脂とタレの余韻。
強力な苦味によって一瞬でサッと拭い去られた。
苦味が引いた後には、驚くほど爽やかな清涼感と、舌の奥に残るほのかなコクと甘みが広がっていく。
「……あ?」
アスモデウスは驚いたように自分の口の中を確かめた。
「脂っこさが……消えた? それに、なんだこの後味は……口の中がさっぱりして、腹の底がじわーっと温かくなってくる……!」
「それが、極深煎りの珈琲と重厚な肉料理の調和です。油分を強い苦味が分解し、お互いの旨味を引き立て合うのです」
「マリアージュだか何だか知らんが……すげぇな! 苦いだけだと思ったのに、肉を食べた後に飲むと、こんなに美味いのか!」
アスモデウスは感嘆の声を上げ、もう一口、今度は自ら進んで珈琲を口に含んだ。
「美味い……美味いぞベルゼ! 疲れた身体に、この強い苦味が効きやがる! 腕の痛みまで少し和らいだ気分だ!」
「それは良かったです。サタン様には『焦げた土』と言われましたから、報われましたよ」
「ガハハハ! あいつは力任せに肉を食うだけで、味わうってことを知らんからな! この組み合わせの妙は、料理を作る側に回った俺だからこそ分かるんだよ!」
アスモデウスは胸を張り、豪快に笑い飛ばした。
マグカップを両手で包み込みながら、アスモデウスはカウンター越しに窓の外を見た。
永遠の黄昏が広がる、沈まない夕暮れの街。
「なぁ、ベルゼ」
「なんでしょう」
「昔の俺たちは、疲れなんて知らなかったろ?」
アスモデウスの声が、少しだけ静かになった。
「いくら剣を振るおうが、何千キロ走ろうが、身体が痛むことなんてなかった。腹も減らなきゃ、喉も乾かない。不老不死で、無敵で、何にも脅かされない……完璧な存在だった」
「ええ。そうでしたね」
「でもよ……今の俺は、朝起きると背中がバキバキに痛む。包丁を握りすぎれば手が腫れるし、仕込みが終われば立ち上がれんほど疲れる。……だがな」
アスモデウスは自分の太い腕を見つめ、力強く拳を握りしめた。
「肉を叩いて腕が痛むからこそ、仕込みが終わった後の冷たい水が身体に染み渡るんだ。一日中立ちっぱなしで足が棒になるからこそ、こうして椅子に座って飲む珈琲が美味いんだ。……『疲れ』を知らなかった昔の俺たちは、本当の意味で『生きている心地よさ』も知らなかったんじゃねぇか?」
ベルゼは静かに目を閉じ、微笑んだ。
「……その通りかもしれませんね。不完全になり、衰え、傷つくからこそ、それを癒す一瞬の歓びが至高のものになる。私たちは、不便さと引き換えに『幸福』を感じる器官を手に入れたのです」
「おう! 筋肉痛なんて、最高に生きている証拠じゃねぇか! 痛むたびに『今日も俺は美味い肉を仕込んだぞ』って思えるんだからな!」
アスモデウスは残りの珈琲を一気に飲み干すと、ズドンとマグカップをカウンターに置いた。
「あー、美味かった! 疲れが吹っ飛んだぜ!」
「お粗末様でした。重箱の肉も、大変美味しゅうございました」
「へっ、当たり前だ! 明日の営業では、もっと美味い肉を焼いてやるからな! ベルゼ、お前も暇があったら店に食いに来いよ。お前には特大のやつをサービスしてやる!」
「ええ、折を見て伺います。ただし、もう少し静かな接客をお願いしますね」
「ハハッ、努力はしてみるが期待するな!」
アスモデウスは立ち上がると、空になった重箱を抱え、満足そうに肩を叩いた。
カランカラン!
ベルを激しく鳴らし、彼は再び力強い足取りで店を出て行く。
外の夕暮れの街へと出ていく彼の大きな背中は、かつて戦場を支配していた恐ろしい将軍の影ではない。
街の人々に美味い肉を振る舞う、頼もしい居酒屋の大将そのものだった。
静けさを取り戻した店内。
ベルゼはアスモデウスが残していった重箱の置いてあった場所を、固く絞った布巾で静かに拭き上げた。
店内にはまだ、微かに芳香な肉の香りと、極深煎りの珈琲の香りが溶け合って漂っている。
「筋肉痛……ですか」
ベルゼは自分の腕を軽く撫でてみた。
毎日豆を挽き、湯を注ぎ続ける彼の腕にも、ほんのわずかな張りと鈍い痛みが存在している。
「悪くない……実に、悪くない感覚ですね」
小さく頷くと、次の客のために新しい豆を選び始めるのだった。
永遠の黄昏が続く街で、傷つき、疲れ、けれど確かに「生」を謳歌する彼らの日常。
今日も味わい深く続いていく。




