第二話 アスタロト 紙の匂いと失われた予言
永遠の黄昏が広がる街には、独特の匂いがあった。
乾いた砂埃の匂い。
古びたレンガが抱え込む熱の残り香。
そしてどこからともなく漂う、古紙が爆ぜるような独特の甘辛い焦げた匂い。
『珈琲店 ベルゼ』の店主であるベルゼは、カウンターの奥で手際よくネルフィルターを湯通ししていた。
布地に染みついた微かな珈琲の油分を熱湯で洗い流し、清潔な布巾でしっかりと水分を絞り取る。
その一連の動作には、いささかの無駄も揺らぎもない。
かつて彼が、世界の動向を一手に掌握し、無数の書簡と命令書を処理していた頃の癖だった。
どれほど膨大な処理を抱えていようとも、彼の机の上にはゴミひとつ、紙の端の折り目ひとつすら残らなかったという。
「……ふむ」
ベルゼは磨き上げられた黒いスーツの袖口を少しだけ引き上げ、金のミルに珈琲豆を投入した。
手回しのハンドルを握り、ゆっくりと回し始める。
ゴリ。
硬質な豆が噛み砕かれていく規則的な音が、静かな店内に響く。
一瞬で豆を均一な粉末へと再構築する魔法のような手業は、もう使えない。
腕の筋肉を使い、軸がブレないように下を手で支え、一定の速度で挽き続ける。
腕の筋が微かに張り、体温が僅かに上がる。
「手間がかかる……だが、悪くない」
そう呟いたとき、ドアに取り付けられた真鍮のベルが、控えめに、けれど滑らかな音を立てて鳴った。
店内に滑り込んできたのは、ひんやりとした夕暮れの空気と、濃密な古紙とインクの匂いだった。
「あら……まだ開店前だったかしら?」
澄んだ、けれどどこか疲れを滲ませた女性の声。
入口に立っていたのは、銀髪のショートボブを揺らした長身の女性だった。
紫のグラデーションを描く深い瞳は、知性と退廃的な陰りを同時に宿している。
かつて、あらゆる事象の因果を読み解き、世界の行く末を予言する冷徹な参謀として恐れられていた女アスタロトだった。
彼女の現在の装いは、仕立ての良いネイビーのシンプルなワンピース。
その両手には痛々しいほど濃い黒紫色のインク染みがこびりついていた。
指先や爪の隙間にまで、頑固な汚れが入り込んでいる。
「いいえ。看板は出していますよ、アスタロト。……どうぞ、お好きな席へ」
ベルゼはミルの手を止め、静かに彼女を迎え入れた。
アスタロトはほっとしたように細い息を吐くと、カウンターの端、昨日サタンが座っていた席の隣に腰を下ろした。
彼女の抱えていた大きな革の鞄が、ズシリと重い音を立てて足元に置かれる。
「あたたかいものを頂戴できるかしら。外は少し……肌寒い気がするの」
「かしこまりました。手仕事の最中でしたか? 指先がずいぶんと賑やかですね」
ベルゼが視線を向けると、アスタロトは自分の手を見つめ、困ったように苦笑した。
「ええ。廃墟の図書館から引き上げてきた古い詩集の修復をしていたのよ。ページが湿気で張り付いていて、一枚剥がすたびに紙が悲鳴を上げるの。破れた箇所を和紙と糊で補強して、消えかかったインクを打ち直していたら……気がついたらこの様よ。洗ってもなかなか落ちなくて」
「素晴らしい手仕事です。職人の手ですね」
「お上手ね、ベルゼ。昔の私なら、こんな汚れひとつでもつけば、書類を突っぱねていたはずなのに」
彼女は紫の瞳を細め、自分の指先をまじまじと見つめた。
かつての彼女の手は、ペン一本触れずとも望む文字を紙面に浮かび上がらせ、予言を書き連ねる「奇跡の手」だった。
白く、傷ひとつなく、何物にも汚されることのない手。
それが今や、インクで黒く汚れ、紙の端で切った小さな赤筋が幾筋も入っている。
ベルゼは小さくうなずき、深煎りの豆を挽き直すために再びハンドルを回し始めた。
ゴリ。
重厚な音が店内に満ちる。
アスタロトは両肘をカウンターにつき、手首を重そうに支えながら、その音に耳を澄ませていた。
「サタンが来たそうね」
「ええ。昨日、開店の第一号としてやってきましたよ。『苦すぎる』と文句を言っていかれましたが」
「フフ、目に見えるようだわ。あの人は昔から、わかりやすい力や甘みばかりを求めていたもの。深みや余韻を楽しむなんて、一番苦手なはずよ」
「ですが、砂糖をひとつ入れたら、満足そうに飲み干していきました」
「まあ……あの大男が砂糖を? それは見たかったわね」
アスタロトは可憐に微笑んだが、その笑顔の奥には、ふとした瞬間に濃い影が落ちた。
彼女はカウンターの木目を指先でなぞりながら、視線を落とす。
「ねえ、ベルゼ」
「なんでしょう」
「私……今日、取り返しのつかない失敗をしそうになったの」
豆を挽き終えたベルゼは、粉をネルフィルターへ移しながら、静かに彼女の言葉を待った。
「修復していた本のページをめくっていたときよ。次のページに何が書かれているのか……まったく分からなかったの」
それは、普通の人間の感覚からすれば当たり前のことだ。めくっていないページの内容など、読むまでは分からない。
だが、かつて「過去と未来のすべて」を見通す能力を持っていたアスタロトにとって、それは世界の根底が覆るほどの恐怖だった。
「当たり前だと思われるでしょうね。でも、私にとっては違うの。以前なら、本を開く前に、その本が何年前に書かれ、誰の手を渡り、どのような結末を迎えるか……そのすべてが頭の中に映像として浮かんでいた。次の行にどんな文字が来るかどころか、100年後のその本がどうなっているかまで見えていたのよ」
アスタロトの声が、微かに震えていた。
彼女の手が、キュッとネイビーのワンピースの膝部分を握りしめる。
「なのに、今日……指先でページをめくるとき、私の中に広がったのは『完全な闇』だったの。次に何が書かれているのか、物語がどう終わるのか、一文字先すら何も見えない。……ただの紙の束がそこにあるだけ。その瞬間、背筋に氷を突き立てられたような冷たさを感じたわ。胸がキュッと締め付けられて、息ができなくなった」
「『予言の喪失』……いいえ、『未来が見えない恐怖』ですかね」
「ええ。……恐ろしいのよ、ベルゼ。私たちが持っていた力……あの広大な知性と先見が、跡形もなく消えていく。世界がどこへ向かっているのか、明日自分がどうなっているのか、何ひとつ分からない。まるで、目隠しをされたまま断崖絶壁のフチを歩かされているような気分よ」
アスタロトはすがるような目でベルゼを見つめた。
かつて冷徹な参謀として、あらゆる戦局を完璧に予測し、無感情に指示を出していた姿はそこにはない。
いるのは、先の見えない「明日」という暗闇に怯える、一人の繊細な女性だった。
ベルゼは何も言わず、湯を沸かしたケトルを持ち上げた。
沸騰したての湯を少し冷まし、適温になったところでフィルターの上の粉へ細く注ぐ。
粉がプクリと膨らみ、濃厚な泡の層を作る。珈琲の持つガスが放出し、素晴らしい香りが立ち上る瞬間だ。
ポタリ。
黒い雫が、ガラスのサーバーに溜まっていく。
「アスタロト」
ベルゼは注湯の動作を崩さずに、静かな声で語りかけた。
「私が今日、こうして珈琲を淹れている豆ですが……昨日サタンに淹れた豆と、まったく同じ農園の、同じロットの豆なのです」
アスタロトは不審そうに眉をひそめた。
「それが何か関係あるの?」
「昨日と今日で、気温がわずかに違います。湿度も違います。私のケトルの持ち方、湯の温度、豆を挽いた時の力加減……それらすべてが、昨日とまったく同じということはあり得ません」
ベルゼはドリップを終え、サーバーを軽く回して液体の濃度を均一に整えた。
温めておいた陶器のカップへ珈琲を注ぎ、アスタロトの目の前へと静かに置いた。
「ですから、この一杯が昨日と同じ味になるか、あるいはまったく違う味になるか……私にも分からないのです」
アスタロトはカップから立ち上る湯気を見つめ、それからベルゼの丸眼鏡の奥の目を見つめた。
「あなたにも……分からない?」
「ええ、分かりません。長年、完璧な計算と予測の中に生きてきた私ですら、この一杯の本当の味は、口に含んでみるまで確定しないのです」
ベルゼは自分用のカップも用意し、カウンターの向こう側で彼女と向き合った。
「未来が見えていた頃の私たちは、確かに万能でした。ですが、それは『すでに結末が決まっている戯曲』を何度も何度もなぞり直すようなものではなかったでしょうか? 次に誰が何を言い、どう動き、どう死ぬか……すべて分かっている世界。そこに、本当の意味での『生きている実感』はあったでしょうか」
アスタロトは息を呑んだ。
過去の記憶が脳裏をよぎる。
完璧な予言。
外れることのない未来。
彼女の参謀としての言葉は絶対であり、だからこそ、彼女にとっての世界は「起こる前からすでに終わっている不毛な劇」に過ぎなかった。
驚きも。
期待も。
失望すらも。
すべて計算の範囲内。
そこに情熱が宿る余地などなかったのかもしれない。
「飲んでみてください、アスタロト。あなたが怯えている『予測できない未来』の味が、そこにあります」
アスタロトは躊躇するように細い指を伸ばした。
インクで汚れた指先が、温かい磁器の取っ手に触れる。じんわりとした熱が、冷え切っていた皮膚を通して心臓へと伝わっていくようだった。
彼女はカップを持ち上げ、口元へと運んだ。
フッ。
息を吹きかけると、黒い液体の表面が小さな波紋を描く。
そして、そっと一口、含んだ。
一瞬、静寂が店内を支配した。
アスタロトの紫の瞳が大きく見開かれる。
口の中に広がったのは、重厚な苦味だけではなかった。
その奥から、熟した果実のような微かな酸味が顔を出す。
喉を通り過ぎた後には、鼻腔をくすぐるキャラメルのような甘い香りが長く残った。
「……あ」
彼女の口から、漏れるような声が出た。
「おいしい……」
「本当ですか?」
「ええ……すごく、おいしいわ。苦いけれど、尖っていなくて……後から、とても優しい甘さが追いかけてくる。……こんな珈琲、飲んだことがないわ」
アスタロトの表情から、すっと緊張の糸が解けていった。
彼女はもう一口、今度は少し大きめに飲み込んだ。温かい液体が食道を通り、落ち込んでいた胃のあたりをじんわりと温めていく。
「分からなかったからこそ、ですね」
ベルゼは薄く微笑み、自分のカップに口をつけた。
「もしあなたが『これは苦くて不味い液体だ』とあらかじめ知っていたら、飲む前に身構え、本当の甘みに気づけなかったかもしれない。あるいは、飲むことすら拒んでいたかもしれない。……未来が見えないということは、絶望だけではなく、こうした『予期せぬ喜び』をも受け入れる余白ができるということなのです」
「予期せぬ……喜び……」
「ええ。ページの先が読めないからこそ、めくる指が震え、胸が高鳴る。修復している詩集もそうでしょう? 結末を知らずに読むからこそ、その言葉ひとつひとつが、あなたの心に新しく響くのではないですか?」
アスタロトはハッとしたように手元を見た。
インクで汚れた自分の手。
紙の端で切った傷。
それは、彼女が「先が見えない世界」で、自らの手でページをめくり、泥臭く生きた証だった。
「私……本を修復している時、楽しかったのよ」
アスタロトの目から、ぽろりと一筋の涙がこぼれ落ち、カウンターの木目に小さく弾けた。
「次にどんな言葉が出てくるのか、破れたページの向こうにどんな物語が隠れているのか……ハラハラしながら、でも夢中で紙を洗って、糊を塗っていたわ。……そうね。私、とても怖かった。でも、予言ができた頃よりずっと……夢中になっていたのね」
「素晴らしいことです。あなたはすでに、人間としての『明日』を楽しんでいらっしゃる」
ベルゼはトングで角砂糖をひとつ摘み、彼女のカップの脇にそっと置いた。
「不確実な未来を愛おしむこと。それこそが、この永遠の黄昏の中で、私たちが手に入れた最大の自由なのかもしれません」
アスタロトは涙を拭うと、置かれた角砂糖を指でつまみ、珈琲の中へと落とした。
ポトン。
小さな音がして、白い塊が沈んでいく。
「ふふ、サタンの真似をしてみようかしら」
「お気に召すと良いのですが」
角砂糖が溶けた珈琲を口に含んだアスタロトは、今度は可憐に、心からの笑みを浮かべた。
「甘いわ。でも……苦味があるからこそ、この甘さが引き立つのね。……悪くないわ。ううん、とても素敵よ」
「それはよかった」
アスタロトはそれから、ゆっくりと時間をかけて珈琲を飲み干した。
かつてなら一瞬で通り過ぎていた時間が、今は一口ごとに、確かな手触りを持って流れていく。
空になったカップを置き、彼女は深く満足そうなため息をついた。
「ありがとう、ベルゼ。なんだか……心が軽くなったわ。明日また古書店を開くのが、少し楽しみになったみたい」
「それは店主として最高の誉れです。……お代は、その手のインクが物語る素晴らしい本の話でいただきましょう」
「まあ、商売上手ね。じゃあ次は、私が今修復している、とびきりくだらない恋愛小説の話をしてあげるわ。作者の意図がまったく読めなくて、頭を抱えているのよ」
「楽しみに待っています」
アスタロトは鞄を持ち上げ、席を立った。
その足取りは、店に入ってきた時よりもずっと軽く、かつての彼女と同じく背筋がすっと伸びていた。
ドアベルがカランと鳴り、彼女は黄昏の街へと踏み出していく。
去り際、彼女が振り返って浮かべた笑顔には、かつての冷徹な参謀の影はなかった。
ただ「明日」という未知のページを楽しみに待つ、一人の美しい女性の姿があった。
静かになった店内で、ベルゼは彼女の残していったカップを手に取り、丁寧に洗い始めた。
水滴がシンクに弾ける音を聞きながら、彼はカウンターの向こうの窓に視線を向ける。
外は相変わらず、沈みきることのない茜色と紫紺の世界だ。
「先の見えない明日、か……」
ベルゼは自分の指先を見つめた。
そこには、かつて世界を動かしていた魔力の余韻など何ひとつ残っていない。ただ、珈琲豆を挽いたときについた小さな擦り傷と、微かな豆の香りが残っているだけだ。
「さて……明日は、どんな豆を挽こうか」
答えのない問いを胸に抱きながら静かに微笑み、次の客を迎えるための準備を始めるのだった。




