第一話 サタン 大きな客と、苦すぎる深煎り
空の色は、もうずいぶんと長いこと変わっていなかった。
茜色と紫紺が交ざり合う、重厚でどこか寂しげな黄昏のグラデーション。
太陽が完全に沈みきることもなければ、爽やかな朝の光が射し込むこともない。
世界の時間が静止してしまったかのような永遠の夕暮れの中。
そんな崩壊した街の片隅に小さく灯る温もりがひとつあった。
木製の重厚なドアに嵌められた真鍮のプレートには、あまり整ったとはいえない文字で『珈琲店 ベルゼ』と刻まれている。
店内には、挽きたての珈琲豆が醸し出す香ばしく、どこか甘やかで香気立つ匂いが満ちていた。
磨き上げられたカウンターの奥で、ドリップの布フィルターを静かに揺らしている男が一人。
漆黒の丸眼鏡の奥で知性的な瞳を細めているのは、この店の店主であるベルゼだ。
かつては大きな組織の重役として、寸分の狂いもなく膨大な業務を仕切っていた男である。
だが今の彼は、少し仕立てのいい黒いスーツ。
背筋をすっと伸ばし、ただ目の前の一杯の珈琲に向き合っている。
背中には古い傷でもあるのか、ときおり引きつるような張りを感じる。だが彼はそれを気に留める風もない。
「……ふむ」
細い注ぎ口から、湯を豆の中心へ静かに落とす。
ポタ、ポタと落ちる黒い一滴一滴が、ガラスのサーバーを満たしていく。
ケトルを沸かし、湯が適温になるのをじっと待つ。特別な近道などない。
数分という時間をかける丁寧な手仕事こそが、今の彼のこだわりであり、日々のささやかな喜びだった。
カラン。
静かな店内に金のドアベルが軽やかな音を響かせた。
ベルゼは視線を上げることなく、ドリップの手を止めずに口を開く。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ……と言いたいところですが、見ての通り、まだまともなテーブルがありません。カウンターへどうぞ」
「相変わらず手際だけは無駄にいいな、ベルゼ」
低く、地鳴りのように腹に響く声。
聞き間違うはずもない。
かつて多くの人々を従え、圧倒的なカリスマで街の頂点に君臨していた男、サタンの声だった。
サタンは長身をかがめるようにして店内に入ると、客席を見回した。
かつての応接室のような広さも、煌びやかな装飾も、高級な大理石もない。
そこにあるのは、使い込まれた木製のカウンターと、壁を埋める無数の棚、そして古びたアンティークのランプだけ。
サタンは黒いコートの裾を軽く払い、カウンターの端の席へと腰を下ろした。
「ずいぶんと狭い城を持ったものだな」
「城ではありませんよ、社長。ここはただの喫茶店です。……いや、『元』社長、とお呼びするべきでしょうか」
ベルゼは丸眼鏡のブリッジを中指で静かに押し上げると、ドリップし終えたサーバーから、厚手の磁器のカップへと漆黒の液体を注ぎ入れた。
湯気がふわりと立ち上り、ふたりの間の空気を柔らかく包み込む。
「『サタン』でいい。今やこの街に肩書など存在しない。……それに、その呼び方はどうにも落ち着かん」
サタンは出されたカップを見つめ、不器用に大きな手を伸ばした。
大きな身体と骨太な指先。
小さな陶器の取っ手をつまむのに少しだけ苦労しているようだ。その様子を、ベルゼは静かな眼差しで見守っていた。
「熱いのでご注意を。それが、今の私に淹れられる最高の深煎りです」
サタンはフゥと一度息を吹きかけると、意を決したようにカップを傾け、黒い液体を口に含んだ。
一秒、二秒。
サタンの太い眉が、見る見るうちに中央寄りに寄っていく。
苦悶とも取れる表情で喉を鳴らしてそれを飲み込む。
サタンはカップをガタリと粗末にソーサーへ戻した。
「……苦い。苦すぎるぞ、ベルゼ! 焦げた土でも混ぜたか?」
「失礼ですね。それが珈琲という飲み物の深みです。舌の奥に残る酸味と甘みを感じ取ってください」
「酸味も甘みもない! ただの苦い水だ。貴様、本当にこれを美味いと思って出しているのか?」
「ええ、大真面目に。……ですが、そう言っていただけると安心しました」
ベルゼは薄く微笑み、自分の分として淹れたもう一つのカップを手に取り、静かに口をつけた。
香ばしい苦味が口いっぱいに広がり、鼻腔へと抜けていく。
「何が安心だ」
「あなた様の舌が、正しく『不快』を感じ取れているということです。以前の私たちは、毎日何かに追われ、味わう余裕すらありませんでした。どんなに高級な酒や肉を口にしても、何一つ心に残らなかった。ですが……今のあなた様は、ただの一杯の苦味にきちんと顔を顰めている」
サタンはハッと息を呑む。
そして己の手元を見つめた。
確かにその通りだった。
かつてならどんな激務やトラブルにも動じなかった男が、たった一杯の熱い液体に舌を巻かれ、その苦味に素直な不快感を示している。
「……フン。くだらん屁理屈だ」
サタンは吐き捨てるように言った。
もう一度カップへ手を伸ばすことはしなかった。
代わりに、彼はカウンターの上に力なく両肘をつき、大きく息を吐き出した。
その胸の上下運動は、驚くほど生々しく、どこか人間くさい。
「……腹が減る」
ぽつりと、サタンが呟いた。
「腹が減るのだ、ベルゼ。起きてから何も食べていないと、腹のあたりがキーキーと鳴り出し、頭が重くなり、力が入らなくなる。何を食べるべきかも分からん。ただ……何かを口に入れないと、自分が内側から削れていくような、恐ろしい感覚に襲われる」
「『空腹』ですね」
「そうだ、空腹だ。……それだけではない。夜、横になっても、昔のようにぐっすり眠れん。体のあちこちが痛み、余計な考えが頭を巡り、目を閉じても浅い夢を見るばかりだ。朝起きたとき、以前よりも体が重くなっていることすらある」
「『疲労』と『不眠』です」
ベルゼは静かに答えた。彼はカウンターの奥から小さな角砂糖の入った容器と、トングを取り出し、サタンの前に置いた。
「会社がなくなり、この静かな街に移り住んでからの変化ですよ。これまでの無茶な暮らしのツケが回り、代わりに人間としての当たり前の生理現象が追いついてきた。……サタン様、私たちは弱くなっているのです。劇的に、そして圧倒的に」
サタンはトングを使って角砂糖をひとつ摘み上げ、カップへ落とした。
黒い液体の表面に小さな波紋が広がり、白い塊がゆっくりと沈んで溶けていく。
「弱くなっている、か。……昔なら、私の前でそんな口を利けば、追い出していたところだぞ」
「どうぞ、追い出してください。今のあなた様にそんな体力があるのなら、の話ですが」
ベルゼが眼鏡の奥の目を悪戯っぽく細めると、サタンは一瞬呆気にとられたような顔をし、やがてハハッと低く笑い出した。
その笑い声には、かつての威圧感はなく、どこかくたびれた中年男の趣があった。
「言わせておけば……。確かにな、今の私では貴様を突っぱねるのにも一苦労しそうだ。昨日、庭の薪を割ろうとして斧を振り上げただけで、背中に激痛が走った」
「『筋肉痛』ですね。無理はいけませんよ。もう若くはないのですから」
「ふん。薪の一本も割れんとは、笑い話にもならん」
サタンは角砂糖が溶けた珈琲を、再び口へと運んだ。
今度は先ほどのような不快な表情は見せず、じっくりと味わうように飲み込む。
「……少し、マシになった」
「砂糖の甘みが苦味を和らげたのでしょう。人間はそうやって、工夫をして生きていくものです」
「……不思議なものだな」
サタンは空になったカップを見つめながら、静かに語り始めた。
「何もかもを失い、この永遠の黄昏のような街に取り残された。最初は、やることもなくなり、退屈で発狂するかと思った。……だが、肩書を失い、こうして『腹が減り』『体が痛み』『珈琲が苦い』と感じるようになってから、一日が恐ろしく早い」
「ええ。生きていくだけで、手一杯になりますから」
「そうだ。朝起きて、何を食べようかと考え、薪を割り、体を動かし、疲れたから横になる。それだけのことに、昔持っていた悠久の時間のすべてが塗りつぶされていく。……余計なことを考えるヒマすらないのだ」
サタンの言葉には、不思議な納得感があった。
かつての彼らは、休む間もなく立ち回り、力と富を追い求めていた。
だがその実、常に「退屈」と「虚無」という病に苛まれていたのだ。
しかし今、すべてを失い、ただの街の一住人として落ちぶれたことで、彼らは皮肉にも「今日を生きる」という強烈な生の実感を得ていた。
「他の奴らはどうしている?」
サタンがふと尋ねた。
「各々、勝手にやっていますよ。アスタロトは古本屋の隅で本の手入れに没頭していますし、ベリアルは仕立て屋を始めて服を縫う楽しみに目覚めたようです。アスモデウスに至っては、街角で肉屋を始めて評判になっています」
「アスモデウスが肉を? あの荒っぽかった男がか?」
「ええ。焼き加減がどうの、タレの仕込みがどうのと、毎日のように悩んでいるそうですよ」
サタンは想像したのか、くっくっと肩を揺らして笑った。
「誰も彼も、変わったものだな」
「変わらざるを得なかったのです。時代が変わり、私たちの暮らしそのものが塗り替えられた。……サタン様、あなた様は怖くはありませんか?」
ベルゼの問いに、店内が一瞬、静まり返った。
チチ。
ランプの炎が小さな音を立てる。
サタンは自分の大きな手を見つめた。かつて威厳を誇っていた手には小さな擦り傷があり、赤い傷の痕がひとつ塞がり切らずにいた。
「恐怖……か。かつて自分が誰かに与えていたものを、今度は自分が味わっているわけだ」
サタンは静かに立ち上がった。背筋を伸ばすと、どこか社長としての面影が漂うが、その影は黄昏の光に溶けて小さくなっている。
「怖いと言えば、怖いのかもしれん。このまま年を取り、体が動かなくなり、いつかひっそりと消えていく日が来ることがな。……だが、ベルゼ」
サタンはカウンター越しに、かつての部下の目をじっと見つめ返した。
「腹が減った後に食べるパンの味を知ってしまった。疲れた後に眠る心地よさを知ってしまった。……そして今日、貴様の淹れた不味くて苦い珈琲に、砂糖を入れて飲むうまさを知った。……悪くない。昔の虚しい生活に戻るよりは、ずっとマシかもしれん」
サタンはポケットから、カタリと音を立てて何かをカウンターの上に置いた。
それは、磨かれた小さなコインだった。この街にいるものたちが物々交換の代わりに使い始めた、偽物。
「ツケという奴にしておこうと思ったが、初回くらいは払っておく。……また来るぞ、ベルゼ」
「……ええ。いつでもどうぞ。次はもう少し、あなた様の舌に合う豆を用意しておきます」
サタンは満足そうに鼻を鳴らすと、背を向けてドアへと向かった。
カラン。
金のベルが鳴り、外の茜色の光が店内に差し込む。
サタンの背影が黄昏の街へと溶けていくのを、ベルゼは静かに見送った。
一人残された店内で、ベルゼはカウンターの上のコインを拾い上げた。
ひんやりとした金属の感触。小さなコイン一枚が、今の彼にはとても重く、価値のあるものに思えた。
「……苦すぎる、ですか」
ベルゼはサタンが残していった空のカップを手に取り、愛おしそうに洗って磨く。
「さて、明日はどんな客が来るか。……豆のブレンドを、少し変えてみるとしよう」
永遠の黄昏が続く街で、小さな喫茶店の夜が静かに更けていく。
大きな生活の変化を受け入れ、ただの「人間」として歩み始めた彼らの、小さくも愛おしい日常が、ここから始まろうとしていた。




