4.妖しの調べに
R15
亜理紗の指が「あの曲」を奏で始める。そして唐突に思い出す。そうだ、これは叔父さまが作った曲だ。どうして忘れていたんだろう。子どものころに、習ったじゃない。「愛しいひと」って、ささやいてくれたじゃない。亜理紗はもう夢見心地だ。弾けるはずのない楽器を、自分の指が演奏している。テンポの速い流麗な曲。そしてどこか切なくて、嫋々と震える旋律。弾いている手は左右ふたつの手だけであるのにいくつもの旋律が絡み合う。複雑なメロディの中にゆったりと流れるような、もうひとつの歌がある。そして音も違う。ハープの音を思わすような奇妙な幽玄。今までに聞いたピアノとは、はっきりと違う音だ。まるで幻惑するような、妖艶な音。幻想的な世界が広がる。興奮が、からだを貫く。素敵。なんて素敵。だけどこれは知ってる曲だ。生まれる前から知ってる曲だ。ずっと前から、ずっとずっと。待ってるからね。おとなになるまで、待ってるからね。懐かしい優しい声が、頭の中でこだましている。おとなになったよ、亜理紗はもうおとなだよ。そうだね、アリサ。そして本当に綺麗になった。ぼくの亜理紗、ぼくと一緒に、来てくれるね。
隣にいるひとを見た。けぶるような金髪に、透けるように白い肌。ひらひらした白いシャツがいつものように似合ってる。そしてなんだか不思議な匂い。くらくらする甘い香り。
「どこに行くの?」
喋れないはずの言語で、滑らかに亜理紗が尋ねる。
「君がこれから住む世界」
亜理紗は小さく首を傾げた。黒髪がさらりと揺れて、白いローブの上を滑る。彼女の眼に映るのは、見惚れるような美青年。アクアマリンみたいな瞳。柔らかそうな、薄いくちびる。小さい頃から知ってるひとだ。わたしにピアノを教えてくれた、わたしの……
「ふたりきりで、いつまでもここで暮らそう。ピアノを弾いて、薔薇を愛でて」
冷たい指が、亜理紗の頬にそっと触れる。
「きみの世界を、棄ててくれる?」
わたしの世界? 夢見心地で、亜理紗は思った。日本にはもう家族はいない。だから日本にいるのは辛い。誰もいなくなった家に、ひとりでいるのはとても辛い。でも売るのも嫌だった。手放すのも嫌だった。だから自宅を期限付きでひとに貸し、日本から逃げ出した。過去の人間関係を、いったんリセットするために。この国は、嫌いじゃない。それにここには叔父さまがいる。そうだ。このひとは、わたしの叔父さま。どうして忘れていたんだろう。頭がなんだかぼおっとしている。微かにシューシュー音がする。わたしはまた、夢を見てる。これはさっきの夢の続き。現実じゃない。甘い甘い、夢の続き。
「ぼくのアリサ」
柔らかいくちびるが、そっと触れる。かたちのいい手が、バスローブの合わせに潜る。
「触ってもいい?」
低い声に、ゾクリとする。からだの芯が、熱くなる。夢にしては、ずいぶんリアル。
「君はもうこどもじゃない。そしてここでは」
シューシューと聞こえる音が、はっきりと高くなる。心臓が早鐘を打ち、亜理紗は小さな声を漏らした。ローブがはだけ、胸が露わにされている。月明りにほの白く、浮き上がる亜理紗のからだ。だめ、いけない。思っているのに言葉がでない。そしてわたしはいやがってない。わたしのからだはいやがってない。亜理紗は気づき、戦慄した。
「いけないなんてことはないんだ。君が望んでくれさえすれば」
わたしが望みさえすれば。
そうね。ずっとずっと望んでいたわ。叔父さまのこと、ずっとずっと。
自分の心が、自分のからだが、違うなにかに乗っ取られている。なのにそれを阻めない。いやだと思っていない自分に、亜理紗は怯えた。これこそが、ずっと夢に見ていたことだ。亜理紗自身がそう思いかけている。
「ぼくのものに、なってくれる?」
冷たい手が、乳房にほとんど触れそうになる。また小さく声が漏れる、いやなのか、いやじゃないのか、亜理紗にはもうわからない。いいわ、と応えそうになる。
ガシャン!!!
凄まじい音がして、我に返った。ガラスが砕ける音に混じって、何か澄んだ音が響く。ぶれのないひとつの音が、長く長く続いている。旋律でもリズムでもなくひとつの高さに留まった音。その音が、空気を振動させている。まるで浄化していくように、その震えが伝わっていく。触れそうになっていたものが、ふっと失せる。確かにそこに見えたものが、消え失せる。
「アリサ!」
明瞭なカイルの声が、亜理紗を現実に引き戻した。嫌な臭いが立ち込めている。タマゴが腐ったような匂い。そして小さな舌打ちの音。あばずれめ、男がいたのか。真っ暗な闇の中で、亜理紗はピアノに向かっていた。唐突に、寒気を覚える。バスローブははだけていない。バスローブそのものがない。わたしは何も着ていない。そして何か、目の前に何か浮いてる! 何かこの世のものじゃないもの。禍々しい匂いのするもの。亜理紗は声も出せないままに、立ち上がった。壁の方に手を伸ばす。朧に見える照明のスイッチに、真っ直ぐにその手を伸ばす。
「No!」
カイルが大きく叫ぶと同時に、火花が散った。次の瞬間ボンと大きな音がして、サロンは火に包まれていた。




