エピローグ ―カイルの告白
亜理紗は病院で眼を覚ました。
真っ白な病室で、からだには管がついてる。けれどどこも痛くない。
「カイル?」
傍らに、包帯だらけのカイルが突っ伏している。そして手に、古ぼけたノートを持ってる。なんだか酷く胸騒ぎがして、亜理紗はそれを取り上げた。
「P社のピアノがある邸宅の怪異について」
これは何? 丁寧に書かれた英文のタイトルは、なんとか読める。でも、どうしてこんなものを持っているの。これって、「あの家」のこと? ページをめくってくらくらした。達筆の筆記体で、中の文字はとても読めない。
「アリサ? 良かった。やっと眼が覚めてくれた」
カイルはゆっくり顔を上げ、亜理紗を見て微笑んだ。亜理紗の眼には涙が浮かぶ。カイルは顔にも怪我をしている。大怪我ではなさそうだけど、小傷がたっぷりついている。
「何があったか、覚えてる? あれからもう三日経った」
亜理紗はうまく答えられない。混乱している。いったい何があったんだろう。しばらく考えてから、ようやく応えた。
「火事になったの? わたしを庇って怪我をしたの?」
「たいした怪我じゃないさ。だからおれは入院もしていない」
「わたしを助けてくれたのね? あの……『あれ』から……」
「そうだったらいいんだけど」
「何があったの? わたし、ピアノを弾いていた?」
カイルは少しためらった。あれは、「弾いていた」と言えるだろうか。曲には全くなってなかった。音の狂った鍵盤を、めちゃくちゃに叩いていただけ。けれどその音は妖しく、理性を蕩かすようだった。アリサを誘惑しているのだと、明確にわかる音。だから夢中で窓ガラスを叩き割った。握っていた銀の音叉を思いっきり叩きつけた。幸い窓はシングルガラスで、簡単に割れてくれた。暗闇にぼんやりと見えたのは、ピアノの前でうっとりしているアリサの姿。闇に白く浮かぶ姿はこの世のものとは思えなかった。アリサだと思ってなければ、逃げ出していたに違いない。灯りがついていなかったから、はっきりとは見ていない。けれど助け出すときに、肌に触れて気が付いた。アリサは一糸も纏ってはいなかった。そればかりか。
「ガス漏れしていた。ピアノの部屋だけ防音がされていて、ガス管が見えない状態だったらしい」
「引火したのね?」
「そう。漏れたガスは少量だったし上のほうにたまっていたから、天井が燃えただけだ。壁に張られた防音材も難燃性のやつだったみたいだし、延焼は免れたよ」
「カイルが助けてくれたのね?」
「あのピアノは助かったよ。助かったと言っていいのか、ちょっと疑問ではあるけれど」
「どういう意味?」
「オカルトとか、おれは信じていなかったんだ……」
「どういう意味?」
「この物好きが書いた手記よると」
カイルはノートを指で叩いた。
「あの邸は、何度も火事を出している。だけど一度もあのピアノは燃えてない。ピアノを弾いていた住人が、亡くなってても」
「ピアノを弾いていた住人って、わたしの叔母さん? 確か死因は一酸化炭素中毒って……」
「君の叔母さん、ではないと思う。ずいぶん前のひとだから」
「でもわたし、あの家を……」
「そこは確かにそうらしいよ。家主が誰だか警察が確かめて、君だってことになっていたから」
「どうしよう」
「たいした被害は出ていないし、責任問題にはならないよ。君自身の財産が、ほんのちょっと燃えただけだ」
「でもカイルは」
「責任感じる?」
「怪我したのよね? わたしのために」
「Yes」
カイルははっきりそう答え、亜理紗を見つめた。
「君が相続した家は、いわくつきのお化け屋敷だ。一刻も早く手放せって言うつもりで、車を飛ばした」
「わたし、まだ混乱してるの。わたしが見たのは全部幻? あの家は、ひとが住める状態じゃなかったの?」
「ピアノがあったあの部屋は、ひとが住める状態じゃない。燃えたのは天井だけだが、壁もかなり破損している。それに、居間の窓も割っちゃったから、入れなおさなきゃ」
「窓のガラス……」
亜理紗がつぶやく。まるで記憶を確かめているように。
「ガス管は再検査が必要だ。家全体の配管も見直しをした方がいい。要らないガス管は完全に撤去すべきだ。必要なのは、ボイラーとキッチンだけだろ?」
「上の部屋のストーブは?」
「あれ、使う気?」
「上の部屋にストーブは、あるのよね?」
「あった。ガスじゃなくて、石炭を焚くやつが。あれもけっこう良い値で売れるよ。実用じゃなくインテリアとして、需要があるから」
「なんでそんなに詳しいの?」
「親父が骨董屋だから」
「そうなんだ」
「アリサ」
カイルはまた亜理紗を見つめる。
「おれに怪我をさせたこと、責任を感じてる?」
「責任も感じてるし、それよりまずお礼を言わせて」
「何について?」
「わたしを助けてくれたこと。助けに来てくれたこと」
「おれのこと、好き?」
「たとえ大嫌いだったとしても、お礼は言うわよ。助けてくれて、本当にありがとう」
「おれのこと、嫌いなの?」
「嫌いだったら、住所なんか教えない」
「だと思った」
「だけどよくわからないの。わたし、あの時……」
亜理紗は涙声になった。好きなのはカイルなのだと、今はっきり自覚したから。
「おれは君のことが好きだ。だから君を助けに行った。君を誰にも渡したくない。ピアノにとりついた化け物になんか、絶対に渡さない」
「ピアノに憑いた、化けもの……」
「こいつを書いた物好きの推理によれば、あの邸のもともとの持ち主は、血の繋がった自分の姪に許されぬ恋をして、悪魔に魂を売ってあのピアノにとりついた。アリサという名の彼の姪は精神を病み、あの邸に引き籠って一生を独身で過ごした。君の叔母さんではありえないよ。十九世紀のひとだから」
「十九世紀……」
「おれに怪我をさせたこと、責任を感じてる?」
「感じてるわ。ごめんなさい」
亜理紗の眼から涙が溢れる。彼女が感じる罪悪感は、怪我をさせたことだけじゃない。
「わたし、誑かされていたのよね?」
「たぶんね」
カイルはちょっと冷たく言った。
「だから、あのピアノ、おれにくれない?」
亜理紗はごくんと唾をのんだ。
「とり憑かれたらどうするの? カイルも『あれ』を見たんだよね?」
「見た」
きっぱり応える。
「見たからこそ欲しいんだ。おれが直して調律してやる。正しい音が出るようにして、本来の姿に戻す。そして俺が弾きこなす。君には二度と、絶対に弾かせない」
「カイル」
ポケットから無造作に、カイルは音叉を取り出した。そしてコンと軽く叩く。揺るぎない澄んだ音が、病室に静かに響く。まるで空気を正すように。漂う邪気を制するように。
「返事は?」
「いいわ」
亜理紗ははっきりそう応え、カイルにそっとキスをした。暖かいくちびるの感触に、生身のひとのからだを感じる。これは確かに現実だ。
「良かった」
カイルは低く呟いて、亜理紗のからだを抱きしめた。そして心のうちに誓う。おれはおれのアリサを護る。あなたはあなたのアリサと眠れ。あなたを一生想ったひとと、安らかに永遠に眠れ。もう二度と、あなたのアリサを裏切るな。あなたのアリサはただひとりだ。おれのアリサがただひとりであるように。
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